『新潮6月号』

岡田利規「楽観的な方のケース」(小説)、「フリータイム」(戯曲)

これが、超口語って奴か。
前者は、主人公の女性とその同棲相手の生活とあるパン屋の関係について。
後者は、あるファミレスに集う、バイトとOLと若い男性2人組の諸々。
どちらも、描かれているのはある日常的な風景の一コマ。
(前者は1年半くらいの時間が、後者はとある朝の数時間が、ただし他の時間も交えて描かれている)
読むべきは、その超絶技巧、と言っていいのかどうかは分からないけど、とにかく技巧的。
まず、この超口語文体自体がすごい。
誰かが書いていたけれど、岡田は一度書いたものを俳優に自由に読ませてそれをさらに書き取るという形で、この文体を作ってるみたい。
この前テープ起こしをやってので分かったのだが、話し言葉というのは、論理的に喋っているつもりでも、助詞とか文の接続の仕方とかで、破格なことを色々とやっている。言い間違いをしたり言い淀んだりするから。
岡田の文体は、そういう破格な話し言葉の用法を取り込もうとしている。
それでいて、話し言葉ではない。読みやすいようでいて、読みにくい。
それから、視点の移動が激しい。
「楽観的な方のケース」は、主人公の「私」が地の文の主体となっているが、平気で「彼」の思っていることが書かれている。延々と彼の内面描写が続くところもある。しかし、それでも主語は「私」のままである。
視点がどこにあるか宙づりにしておいて、突然誰かの視点だったということに気付かせるような手法は、阿部和重の『シンセミア』や佐藤友哉の「慾望」に見られたりするが、それをもっと極端にやっているような感じである。
「フリータイム」の冒頭では、ここにバイトのさいとうさんがいる、という感じで始まった文章の主体が、不意に「さいとうさん」本人にすり替わっていたりする。
そして、反復。
これは「楽観的な方のケース」には見られず、「フリータイム」で何度も何度も見られる。
とかく反復が多い。
同じシーンを、他の人間の視点から反復してみたり、同じ文章を地の文と台詞とで反復してみたり、空想の中と外とで反復してみたりしている。
あるいは、要約や省略。
これは「フリータイム」の方にも見られるが*1、「楽観的な方のケース」の方がかなりはっきりしている。
パン屋に関係しているエピソード以外は、ほとんど省略されているので、この主人公の男女が一体何者であるのかはさっぱり分からない。1年半もの時間が描かれるというのにもかかわらず。
なれそめなんかも、「私は恋人を作った。」の一文に思い切り要約されている。
超口語文体といういささかな饒舌な文体によって、大胆な要約がなされる。
とにかく、こうした様々な技法によって、ぐるぐる振り回されている感じがする二本だった。

中原昌也「くわしく教えてクラシック」

新連載。第一回目のゲストは浅田彰
クラシックは全然知らないので、何話しているのかさっぱり分からない。
ものすごく大胆に要約して、この対談をまとめると、
ライブでクラシックに触れる体験はプライスレス!
ということで、中原と浅田の意見が何となく一致して終わる。
やっぱり、ライブで聞くという体験は、録音とかyoutubeとかとは全然違うんだぜ
マニアックなものを発掘してくるとか歴史の読みかえとかもあるけどさー
そんな感じか。
50年代とかって、日本の地方でも、カラヤンとかマリア・カラスとかいった人たちが公演をやっていたらしい。今は東京一極集中だけど、それこそ四国とかでもやっていたとか。
あと、ヤバイなーと思ったのは、戦中、海外の音楽とか聞いちゃだめだった時代、小指の爪を尖らせてレコードの溝にあてて親指を耳にあてて、骨伝導で聞いてた人とかいたらしい。

書評(斎藤環『アーティストは境界線上で踊る』/椹木野衣

美術批評というのは、他のジャンルの批評とは違う困難がある。つまり、言葉でないものを言葉で表そうとすること。畢竟、美術批評は美術そのものとは混じらず、平行線を歩むこととなる。混じろうとするならば、批評自体が文芸的な表現とならなければならない(小林秀雄とか)。そういうことに対して、意識的であるかどうかを、美術批評を読むときには注目している、と椹木は言う。
この斎藤環の本は、斎藤が色々なアーティストにインタビューした本らしい。アーティストの生の声が読めるという点で、結構貴重らしい。
斎藤は、内容とフレーム(?)*2とに分けて、前者をヒステリー、後者をリアリティのシステムと位置づけた上で、批評家としては後者に着目する。
そしてまた、アウトサイダー・アートは、いわば完全にヒステリーの側のものということで、批評家としては扱わないとする。
椹木は、その区分への意識そのものは尊重しつつ、アウトサイダー・アートにだってリアリティのシステムを意識しているものがあり、斎藤はそういうものをこそ批評できる立場にあるのではないか、今回の人選はちょっと固まりすぎではないか、と指摘する。
うーん、何言っているのかよくわからんね。


三島賞は、前田司郎じゃなくて田中慎弥になったようですね。

新潮 2008年 06月号 [雑誌]

新潮 2008年 06月号 [雑誌]

*1:毎週同じファミレスに来ているということが、一回で提示されたり

*2:なんていう言葉を使っていたか忘れた