プラトン『メノン』

「大学で哲学やってます」とかいうくせに、実はプラトンとか一冊もまともに読んだことがなかった。だからこそ、さっきの文には「一応……」という但し書きがついてまわる。
いや、プラトンに限らず、哲学やるなら読んでおけよ、みたいな本を結構読んでいない。
しかし、ソクラテスプラトン(あるいはカントやデカルト)について全く知らないかといえば、決してそういうわけではない。それでもやはり、原著(日本語訳であるとしても)を読まないと、知っているとなかなか言い難いのも確かである。
ところで、自然科学とかでは、必ずしも原著を読まなきゃ知ることができないということはないんじゃなかろうか。

分析哲学と大陸哲学との違いを最も簡単に表現するなら、前者は命題を商うが、後者は固有名詞を商うということになろう。
ローティ『偶然性・アイロニー・連帯』*1

ここでは大陸哲学の特徴とされているけれど、これは結構人文学の特徴なのではないだろうか、とも思う。

使いたい言葉を使うためには、辞書を引くのが第一歩だが。それだけじゃ駄目なことはネットジャーゴンを見てもわかることだよな。言葉を上手く使うには文脈を知る必要がある。使いたい言葉を使うために文脈をインストールするのが人文系の学問なんだな!ちょっと掴んできたぞ。

https://twitter.com/Muichkine/statuses/814668283

ここで、Muichkineは「文脈」と呼んでいるけれど、それは固有名詞の持っている「固有性」ではないだろうか。
ちなみにこの発言にいたる脈絡として、「他者」という言葉を巡ってのやりとりがあった。「他者」という言葉は、一般名詞としても十分に使いうる。しかし、人文系の脈絡の中でこの語が使われると、何か独特のニュアンスがついてまわるだろう。
それがつまり「文脈」ということであるし、あるいは固有名詞の持っている「固有性」だろう。
例えば、運動方程式を理解するのに、必ずしもニュートンという名前やニュートンがその方程式を考え出すに到った道筋、あるいはそれがその後どのように受容されてきたか、といったことを理解する必要ない、と考えられている。
一方で、イデア論を理解するためには、プラトンの名前を知っていることは必須だし、プラトンがその考えに到った道筋やその後の受容や理解を知っておく必要はある、と考えられている。もしかしたら、プラトンについて何も知らなくてもイデア論を理解することはできるかもしれないが、人文系の学問をやるためにはそれが必要だと思われているし、より深く理解するためには、プラトンの書いた著作を読むことが、さらにはギリシア語で読むことが求められる。
もちろん、運動方程式をより深く理解するためには、必ずしもニュートンの著作に当たる必要はないし、それを英語で読むことも求められない。ニュートンの人生を知ることは、それはそれで大事かもしれないが、それによって運動方程式の理解が深まるわけではないだろう。
固有名詞の持つ「固有性」というのはそういうことだ。


閑話休題
話がそれすぎた。
『メノン』の話である。
メノンがソクラテスのもとに訪れて、「徳を教えることはできるか」と問う。
それに対して、ソクラテスは「そもそも徳とは一体何か」ということを考える。
ここでは、「教える」とはどういうことか? 「知識」とはどういうことか? ということがテーマになっている。
「知識」と「思わく」の違いが論じられる。
ソクラテス(の言葉を書くプラトン)によれば、「知識」とは教えられるものであり、教えられるものが「知識」である*2
メノンの先ほどの問いに戻るならば、「もし徳が知識であるならば、教えることができる」ということになる。
ただ、彼らにとって徳ということは重要な問題だったようだが、僕にとってはそうではないので、それはさておく。
「知識であるならば、教えることができる」ということが、重要である。
ソクラテスは、どうも徳を教えることができている人はいないようだ、ということを指摘して、徳は知識ではないのではないかと考える。
徳が知識ではないとしたら何なのかというと、それは「思わく」であるという。
知識と思わくの違いとは何か。
これをソクラテスは、縛り付けていないと逃げ出してしまう彫刻に喩えて説明する。その彫刻は、縛り付けていないと(逃げてしまうので)価値がない。
思わくもまた、縛り付けられていないので、逃げてしまうものであり、価値がないのだ。
一方で知識は縛り付けられている思わくなのである。
「原因(根拠)の思考」によって縛り付けられているともいう。
その原因(根拠)の思考が一体何かというと、ソクラテスプラトン)はそれを想起ではないかと考えている。
また、教える(知る)、ということも、実は想起させる(想起する)ということに他ならない。
知識が、想起によって手に入るものだとすれば、思わく、特に徳という思わくはどのようによって手に入るのだろうか。
それは、神の恵みによるのだという。


知識の特徴として「教えることができる」というのがあるとするならば、さて「教える」とは一体どういうことなのだろうか。
ソクラテスプラトン)は想起によって説明しようとするわけだが、そのためには、不死なる魂を措定しなければならなくなるので、ちょっとこの説明は採用しづらい。


今、授業でウィトゲンシュタイン哲学探究』を読んでいるのだが、そこで、感情の表出の真偽を判定する何某かも知識だと言われている。
感情の表出の真偽の判定というのは、要するに、ある笑顔が、心からの笑顔なのかそれとも嘘笑いや愛想笑いなのかを判定するということである。
確かに僕たちは、たいていの場合、それを判定することができる。
どうやってそういう判定をするかというと、knowledge of mankind*3によってである。
そしてウィトゲンシュタインは、このknowledgeは、教えることが可能だという。
むろんそれは、何か他の知識とは違って、授業とかによるものではない。体系だって行われるものでもない。それでも、教えることはできるのだという。
授業で先生は、ポランニーの「格率」「暗黙知」を参照していた。
ポランニーの場合は、ワインテイスティングとか調律とかそういったものが挙げられているらしい。
確かにそうした能力は、どうやってかはよく分からないが、教えることはできそうである。


僕は以前、「知っている」とはどういうことかというエントリを書いた。
そこでの主張を大雑把にいうと、外在主義的な立場に立った上で、宗教的な啓示やクオリアは知識とはいえないんじゃないか、というものだ。
これを、このエントリにあわせて言い直すなら、啓示やクオリアは教えることができないから知識ではないということになる*4

追記(080527)

人文系と自然科学系において、原著にあたることが求められるか、そうでもないかという話を書いたが、それの元ネタかもしれない記事があったのでリンクしておく。
「原文、読んでる?(pêle-mêle)」
こちらの記事を書かれた方が、亡くなられたらしい。
僕は、この方のこのblogを読んでいたわけではないし、ネット上のささいなことも含めて特に関わりがあったわけではないのだけど、そういえば何かブクマをしていたなと思って検索してみたところ、この記事があたったのである。
「元ネタかもしれない」というのは、今読んでみると、これが元ネタのように見えるということで、事実僕はこの記事を読んでブクマまでしているのだから、多分何かしらの影響は受けたのではないかと思う。
それはそれとして、この記事のコメント欄が、元記事の話もしつつ、科学哲学の話やバシュラールの話までして盛り上がっていて、なかなか面白いものになっている。そういうわけで紹介したくなって、リンクをはった次第である。
別に大してブログを読んでいなかった癖にこんなこというのはおこがましいですが、こういうブログを運営していた方が亡くなられるというのは残念なことだと思います。
ご冥福をお祈り致します。

メノン (岩波文庫)

メノン (岩波文庫)

*1:これは、この本からの引用だったのか?! 実はここは、『REVIEWHOUSE』に載っていた大森論文からの孫引きである。僕はこの本は読んだわけだけど、こんな一節があるというのは全然記憶になかった

*2:こういう双条件法が当てはまるようには書いてなかったかもしれない

*3:ドイツ語ではMenschenkenners.僕はドイツ語を知らないので、この語に知識という意味合いがこめられているのかどうかは分からない。確か、ドイツ語だと「知る」はWissenなので、これは知識ではないのかも

*4:ただし、それをいうためには、知識⇔教えることができる、という双条件法が成立している必要があるだろう。そして、既に注で触れたように、『メノン』がこの双条件法を示しているとはとれない(双条件法って連発しているけど、本当に双条件法っていう言葉であってるのかちょっと分からなくなってきた。if and only ifってやつ)。