「春の文学フリマ」感想1

漫画をめくる冒険・上巻』イズミノウユキ

これは、素晴らしく面白いマンガ批評となっている。
マンガをいかに精読するか、という一つの方法論を提示してくれると同時に、そのように精読することによって、読みそのものが変化する、という批評のダイナミズムそのものが示されている。
批評理論や映画理論なども巧みに織り込みつつ、さらにはミラーニューロンとかダマシオなんて脳神経科学の話などもこの中ではなされている。もちろん、脳科学の話をマンガ論の中でしてもいいのかとも思うわけだが、うまい具合に説明の道具としてしまっていて、その使い方は巧みである。
さて、本題は、視点の問題である*1
一体だれの視点で描かれているか、ということを、コマ単位で問題化して、マンガを読んでいくのである。
ある登場人物が視ているものを、読者が見るという構造を、マンガは取っている。そしてその構造の表現方法も、いくつかに分けられる。
マンガは、客観的な見た目を描くだけでなく、心理状態なども視覚的に描いて読者に見せるのだから、その心理状態が一体どの登場人物からの視点であるかは、確かに重要である。
ほとんどの読者はそれをおそらく、何気なく読み取っているわけだが、ちゃんと読み取れていない場合もある。この本は、それを意識的に読み取っていくのである。
さて、ここで主要に取り上げられているのは『SchoolRumble』(以下スクラン)である。
僕は、スクランは数巻読んだだけである。普通のラブコメのようでいて、実は全然普通のラブコメじゃない作り方をされていて、面白いマンガだなとは思っていたが、この本を読むとスクランを評価する言葉はそんなのでは全く足りていなかったことに気付かされる。
この本を読むと、スクランをこんなふうに読むことができるなんて、という驚きで圧倒される。
つまり、スクランというのは、コマごとに視点を変化させるという、高度なテクニックを使ったマンガなのだということだ。
同様のテクニックが、カレカノで有名な津田雅美の『eensy-weensyモンスター』でも使われているという。そしてこちらでは、そのテクニックが津田のデビュー以来のテーマである「自己評価と他者評価のズレ」を表現するのに、一役買っていることが明らかにされる。
そして、登場人物から読者へと論点が移っていく。ここでは、批評理論におけるストリーム・オブ・コンシャスネスという言葉が参照される。ヴァージニア・ウルフは『灯台へ』という作品で、このストリーム・オブ・コンシャスネスという表現と、視点切り替えという表現を使うことによって、複数の主観を描いていく。
客観視点や全知の視点ではなく、あくまでも主観的な視点を貫きながらも、読者には全体像を提示していくことで、複数の意識のあり方を示すこの表現は、しかし小説では、あまりにも実験的でリーダビリティが低い。
ところが、マンガにおいては、それをなすことができる。それが、スクランなのだ、と。
最後には『昴』が取り上げられ、この作品の持つメッセージが、表現レベルでも描かれていることが示される。
それにしても、これだけあってまだ上巻だ、というのだから、またとんでもない。

漫画をめくる冒険―読み方から見え方まで― 上巻・視点漫画をめくる冒険―読み方から見え方まで― 上巻・視点
泉 信行

ピアノ・ファイア・パブリッシング 2008-03-14

『F』東京学芸大学現代文化研究会

特集「音楽」
仲俣暁生「うたはどこにある」で始まり、日本戦後音楽史*2小沢健二歌詞論、槇原敬之『HungrySpider』論、『増補シュミレーショニズム』論が続く。
また、『少女革命ウテナ』論、『秒速5センチメートル』論と漫画、小説も掲載されている。
音楽を言葉を使って語るというのは、難しいことだなと思う。
考えてみれば、この論文集でも、実は音楽そのものは語られていない。例えば、そこで論じられているのは音楽を評価する価値観の歴史であったり、歌詞であったり、歌詞とPVであったり、音楽にまつわる言説であったりする。音楽について語ろうとしているのは、まさにパフォーマンスとしての「うた」について書こうとした仲俣のエッセーだけかもしれない。
しかし、そのことが決して悪いというわけではない。音楽というのは、それだけ言語化することが難しいのであって、むしろ音楽を語るということは、そういう回路を経由してからでないと可能にはならないのだろう。
渋谷系や、ましてやそれ以前の音楽というものを、まるっきり聞いていない自分にとっては、その歴史的な流れを書いてもらうと、普通に勉強になる。あるいは、ハウスミュージックの歴史にしてもそう。
小沢健二歌詞論は、やっぱり自分は小沢健二をほとんど聞いたことがないので、小沢健二論として評価することはできないけれど、塔がセカイを象徴しているという話は、興味深かった。塔のもつ象徴性というのは、バルトによって指摘されているらしいのだけど、そういえば『ジャン・ジャックの自意識の場合』でも、塔はとても重要な役割を担っていたし、あるいは『雲の向こう、約束の場所』でもいいし、佐藤友哉でもいい。
槇原の『HungrySpider』はさすがに知っている。この曲は、純愛の歌でとしても聞こえてくるし、エロティックな歌としても聞こえてくる。それを、歌詞とPVの分析によって明らかにしていて、ぼんやりと感じていたことがすっきりと分析された感じがした。
椹木野衣の『シュミレーショニズム』は、一本目の論文でも参考文献としてあげられており、四本目の論文ではまさにそれが主題化されており、この本はちゃんと読んでおいた方がよいかもしれないなあという気分になった*3
第一号の時もそうだったが、今回もリコメンドがついている。
前回は本だったが、今回は音楽。
このリコメンドっていうのは、なかなか面白い企画だと思う。
現代文化研究会公式BLOG

『REVIEWHOUSE01』

インタビューが3本に、あらゆるジャンルの批評が16本掲載されている。
僕は、美術も音楽も演劇もよく分からないのだけど、しかしそれらの批評というのは、よく分からないなりに面白いものだと思う。
あるいは、ネハンベースというバンドのインタビューが載っていて、僕はそのバンドを全く知らないのだけど、そのインタビューを読むと何だかワクワクしてくるのである。
まず、青木淳悟のインタビューから始まる。
僕は青木淳悟を読んだことがないけれど、人から勧められていて、そしてこのインタビューを読んで、益々読みたくなった。小説ではないような小説。
ネハンベースのインタビュー。読みながら、ネハンベースマイスペースを探し出して、聞きながら読む。そういうことが簡単にできるようになって、マイスペースは本当に便利だなと思う。それにしても、このネハンベースというバンドはやばい。パフォーマンス・アート的なところがある、みたい。

録音する、CDで音楽を聴くという行為を対象化するような音楽を収録したCD5枚のレビュー。こんな音楽の世界があるのか。一度は聞いてみたいような気がする。

  • 木村覚「愚かであることの可能性」

Chim↑Pomというアート集団について。誰かとの突発的な出会いのアート化。まあ、たちのわるいイタズラギリギリではあるけれど。

大日本人』というのは、映画が映画ではなくなって現実になってしまっている。面白い、面白くないという以前に、映画としての枠が外されてしまっている作品なのではないか。

  • 杉原環樹「非熱狂的空間の引力」

DJぷりぷりというイベントオーガナイザーによるイベントについて*4。彼の企画するイベントは、ライブであると同時に、それ以外のものでもある。つまり、お風呂に入ることであったり野球観戦することだったり寝ることだったり、だ。音楽を聴くこととそういった日常的な行動を、同時に体験させる。音楽への「熱狂」がそこにはない。そういう「(追)体験」の場を作ろうとしているのだ、と。

  • 大森俊克「非倫理=私的趣味の先鋭化と言論の「偶然」性」

アメリカにおける、美術や美術評論の言説を、ローティの公私の区別を元にして、解き明かそうとしている。アメリカでも、ポストモダン系の芸術評論というものがあって、それはやはり大陸哲学の影響を受け、分析哲学の影響は受けていない。しかし、それはローティ的に考えれば「偶然」なのである。そして「美」は、私的領域における追求となり、そこから非倫理的な趣味も現れてくる。

  • 伊藤亜紗「スタイルとしての要約――捨象する偏狭さと飛躍する自由」

青木淳悟(加えて福永信)の小説の特徴を、要約と捉え、その魅力を論じている。実は、文学の授業で、ジュネットによる休止法、情景法、要約法、省略法を習ったばかりだったので、それも含めてなるほどと思いながら読んだ。ジュネットによれば、プルーストは情景法や省略法を効果的に使い、一方で要約法は使っていないらしい。それは、この論でも挙げられている、保坂和志もそうだろう。それは一種の「寛大さ」である。一方、要約は断定であり、偏狭でもある。その代表として古川日出男が挙げられている。青木は、要約に描写*5を混ぜることで、スリリングな読書体験を与えているとしている。

  • 木村覚「「あて振り」としてのアート」

指値という劇団の演出方法と、チェルフィッシュの演出方法を比較して、演劇におけるリアリズムについて考えている。いや、むしろ非リアリズムか。つまり、演劇というものが、現実の「再現」であることをむしろ強調するのである。

『思想地図』収録論文の『らき☆すた』論の部分とおおむね同じ

  • 荒木慎也「アメリカの美術学校における韓国人留学生の増加について」

タイトル通りの内容であるが、韓国人コミュニティについてのインタビュー調査などから、そもそも多文化主義って一体何だろうかという疑問を投げかける。
REVIEWHOUSE

秘密結社ソドム

大日本人』論だけ読んだ。
ここでもやはり、『大日本人』が、映画作品として何かフィクションを描いたというよりは、『大日本人』の映像それ自体が、現実そのままになってしまっているのではないかというようなことが論じられている。あと、いわゆる「衝撃のラスト」についても書いてあった。未見の人は注意という奴だが、見る気はないけど内容を知りたい僕のようなダメな人にとっては、便利である。


半年後になってブログを発見した。(081112)
http://d.hatena.ne.jp/DieSixx/20080509/p1

*1:視点という言葉は、批評理論の言葉である。ところで、批評理論では、ある時期から視点とは言わずに焦点という言葉を使うようになったらしい。視点という語では、あまりにも視覚に重きを置きすぎていて不適切であるかららしい。この本では、視点という言葉が一貫して使われているが、視点という言葉が不適切であることが、批評理論の本を読むよりもよく分かった気がする

*2:と書くと何かものものしくなるなあ

*3:いや、以前から読んでみたいとは思っていて、この論文を読んで、ちくま学芸文庫に入っていることを知ったのでというのが正確なところだが

*4:このDJぷりぷりというのは、1988年生まれの学生で、この文章を書いている杉原というのも、1984年生まれ。

*5:ジュネットの分類に従えば、描写は休止法だが、この場合は台詞のことを指しているのでむしろ情景法なのかな