カール・シュミット『政治的ロマン主義』

19世紀ドイツの、ロマン主義を痛烈に批判している本。
決断主義とかの話はしていなかった。
『日本浪曼派批判序説』を書いた橋川文三による翻訳。


19世紀ドイツのアダム・ミュラーフリードリヒ・シュレーゲルという二人のロマン主義者が、主に批判の対象として挙げられ、細かに分析されている。
ものすごく簡単に言ってしまうと、こいつらは口ではフランス革命ってすげーとか言ってるけど、実際には現状維持派というか、自分たちでは特に何もせずに、あちこちにいい顔してる奴、という感じである。
で、とにかく口が上手い、というかレトリックが上手い。言ってしまえば、ロマン主義というのは、そのレトリックこそが本質である、ということかもしれない。


第一章では、外部的状況ということで、ミュラーやシュレーゲルが一体どういう人たちで、どういう政治的な成果があったか、というかなかったか、ということが書かれている。
第二章は、ロマン主義精神の構造。
彼らにとって実在というのは、共同体と歴史である。
彼らの議論は次々に後退していく。というのも、対立物をさらにその上位の第三項において統一してしまおうとするからである。「いや、実は〜の問題だったのだ」といってずらしていってしまうという感じだろうか。
マルブランシュの機会偶然論との関係も論じられている。
第三章の政治的ロマン主義では、アダム・ミュラーのレトリック(「雄弁」)について、分析が試みられている。また、政治的ロマン主義ロマン主義的政治は違うことなども述べられている。


ものごとを、現実性ではなく、可能性にしてしまう。
様々な対立項を駆使しながらも、その対立項を自由に入れ替えるということをやる。
そうやって、次々と文章を発表していく。ロマン主義というのは、そういう文章の生産性というものが主眼に据えられている。
また、ロマン主義が論ずる対象に注目しても、ロマン主義というものをうまく説明することは出来ない。その対象は、結局契機に過ぎないのであって、ロマン主義者にとって重要なものであるわけではない。


追記(080917)
ググってたら出てきたので、クリップしておく。
以下「ナショナリズム、政治社会学関連のレポート集〜荒井研究室」の「ドイツ・ロマン主義とナチズム:その連続性と非連続性(2001.9.06)」より抜粋。

ノヴァーリスは、「到るところにドイツ的なるものは存在する。ドイツ風は、ローマ風、ギリシア風、イギリス風のように、ある特定の国家に限定されることが少ない。それは普遍的な人類の性格であって、この性格はしたがってあっちこっちでとくに一般化されているものである」とし、シュレーゲルも「世界共和国の理念は」「実際的に妥当性をもっており、そして個性的な重要性をもっている」とした。

政治評論家のアダム・ミュラーは、その著書『政治の綱要』に見られるように、ヘーゲルに近い二元論的な考え方をする人物で、フランス革命は対立的存在性を無視したものであり、自由のような死んだ「概念」ではなく、生きた理念を求めるべきだとした。そして国家は人間の恣意的な製作物ではなく有機的な自然的産物であるとし、人間は国家を外にしては考え得られないとし、政治現象は分析するものではなく経験するものであるとして国家への拘束を主張し、伝統を神聖視して身分分化が必要とした。しかしながら、彼においてもインターナショナリズムは健在である。村岡も、「ミュラーの対立説哲学はその最後の調和、統一を求めようとする点において、必然的にカトリチスムスへと向かっているのである」と指摘している。しかし、そこで言われるロマン主義カトリック化は、純宗教的なものではなく芸術思想的であり、先に中世への憧憬があって、そのためにカトリックを求めたものであった。

ミュラーらはメッテルニヒに期待し、その復古政治と結合し、ミュラーメッテルニヒのもとに仕えることになった。このように、ロマン主義者には受動的・非行動的態度が見られるが、これは、当時の歴史的な政治社会状況から考えて、やむをえない面もあったと思われる。
ロマン主義を、保守主義ととる見方も存在する。多田は、ロマン主義的な保守主義を、時代が変質してしまったという感慨により、過ぎ去ってしまった黄金時代を再び奪還しなければとする考え方としている。
(中略)
しかし、マルクーゼが「反動的ロマン主義と進歩的ロマン主義」という論考を書いたように、ロマン主義を全て保守主義であるとしてしまうことにも問題はある。彼は、シュレーゲル、ミュラーショーペンハウアーワーグナーらの反自由主義的な態度を挙げ、「ロマン主義の帰結のひとつが、政治的反動であることは何の疑いもない」としている一方で、ノヴァーリスヘルダーリン、ハイネ、ニーチェらはそうではないとしている。


政治的ロマン主義

政治的ロマン主義