奥泉光『雪の階』

二・二六事件の迫る昭和の東京を舞台に、伯爵の娘笹宮惟佐子が親友の死の謎に迫るミステリ
今回はSF要素はないものの、やはりジャンル横断的な作品となっている。
読後にググって出てきた鴻巣友季子のレビューが簡にして要を得ている
allreviews.jp
ストーリーもさるものながら、視点人物を縦横無尽に行き来するこの文体がスリリング。場合によっては、1つの文の中でふわっと視点が変わる。それは、惟佐子の幻視能力(?)との相乗効果を発揮している。
タイトルに「雪の階」とあり、それは二・二六事件の頃に降っていた雪のことなのだが、物語はその前年の春から始まっており、春夏秋冬四つの季節全てが色彩豊かに描かれている。
また、後半からは、ほとんど妄想としか思われない(というかおそらく妄想の)国際スパイ陰謀とかオカルト選民思想が展開されていき、阿部和重かと思わせるのだが、カタストロフィへは向かわず、いささかコミカルなシーンをきっかけに日常へと回帰して終わりを迎える。

雪の階 (単行本)

雪の階 (単行本)

  • 作者:奥泉 光
  • 発売日: 2018/02/07
  • メディア: 単行本

主人公の笹宮惟佐子は、公家系の華族(堂上華族)である笹宮伯爵の娘で、女子学習院に通い、誰もがその美しさを認める美貌の持ち主であり、服のセンスも非凡なものを持つわけだが、全く非社交的な性格で、囲碁と数学の問題を解くのを何より好み、海外のミステリ小説を愛読している。
そんな彼女の無二の親友ともいうべき宇田川寿子に誘われた演奏会で、カルトシュタインというドイツ人ピアニストから何故か、今度お会いしたいという手紙を受け取る惟佐子だが、それよりも、当の寿子が全く姿を現さない。
寿子の行方は分からずじまいのまま、数日後、彼女が革新派の若手軍人とともに、富士の樹海で心中したと報じられる。
しかし、惟佐子のもとに届いていた寿子のハガキは、約束を破ったことを詫びるとともに、しかし再び東京に戻るつもりがあることを示すもので、何より消印が仙台のものであった。
そもそも惟佐子は、寿子と心中したとされる久慈中尉と会っているのだが、その際、寿子が心を寄せているのは、その場に同席していた槙岡中尉だろうと直観していたこともあり、この死に不審を抱くことになる。


さて、この事件の謎を解くべく実際に奔走し、時に推理を行うのは、惟佐子の幼い頃の「おあいてさん」であった千代子である。
おあいてさん、というのは、身分のある家の子どもの遊び相手となる子どものことで、惟佐子は千代ねえさんと呼んで慕っているのだが、一方でゆるやかな主従関係もあるというものだ。
身分的なものだけてなく、惟佐子の何を考えているのか窺い知れないところのある性格と頭の良さもあって、千代子は千代子で惟佐子のカリスマに感化されているところがなくもない。
千代子は、女性カメラマンとして報道の仕事を始めたところで、同じく新聞記者の蔵原とともに寿子事件の謎を追い始める。
この千代子パートは、時刻表ミステリ的な様相を呈しつつ、一方で、千代子と蔵原のいささかベタな恋愛ドラマとしても進行する。


一方の惟佐子の方だが、まずは父親の笹宮伯爵について
彼は貴族院議員なのだが、天皇機関説問題を追及する急先鋒にたち、時の内閣への批判を強めている。自他ともに認める「陰性」の気質で、陰謀家たらんとしているのだが、その実、彼の「陰謀」というのが、ごっこ遊び的なものの域を出ないのは娘にも密かに見破られているものの、本人はそれに気づいていない。
政友会の成り上がり議員や陸軍との「パイプ」を作りながら、天皇機関説一本槍で政権打倒に「暗躍」し、最終的には梯子を外されてしまう様は悲喜劇的ではある。


さて、来日したドイツ人音楽家のカルトシュタインなのだが、彼は惟佐子の伯父、白雉博允から話を聞いて惟佐子に会おうとしたという。
惟佐子の母は彼女を産んだ際に亡くなっており、その兄が、白雉博允である。
彼はもともと外交官だったのだが、ドイツ赴任中に失踪し、その後帰国するも精神病院へと入院し、その後再び渡欧し行方知らずとなったため、笹宮家は白雉家との付き合いを絶っていた。
カルトシュタインと博允は、心霊音楽協会で知り合っているのだが、この心霊音楽協会や、本作には名前のみの登場となるがギュンター・シュルツなどは、『鳥類学者のファンタジア』にも登場していたはず*1で、どうも同じ世界であるらしい。カルトシュタインが演奏したのは「ピタゴラスの天体」
ただこのあたりの音楽カルト(?)は、本作には直接登場してこない。
カルトシュタインと惟佐子(とその他大勢の付き添いや取材陣)はともに日光観光をすることになるのだが、その日の夜、カルトシュタインは突然に病死する。
そしてこのあたりから、惟佐子の兄、惟秀の姿が見え隠れするようになってくる
寿子の事件とカルトシュタインの死の背後に、惟秀がいるのではないか、と。


そして、この作品にはさらにもう一つのラインがあって
惟佐子は、寿子の事件を調べるにあたり、自らも男女の仲を勉強する必要があると考え、とある男性といきずりの肉体関係を持つのだが、それにとどまらず、次々と男を取っ替え引っ替えしはじめるのである。
幼い頃からのお付きの女中菊枝だけがこの「御乱行」を知っているのだが、1人目は少し年上で身分もそれほど違わない男性で、まあ分からなくもないと言った相手だったのが、お偉い爺さんに元軍人の怪しい醜男と続き、何が何やら分からなくなってくる。
数学好きの惟佐子からすると、あらゆるタイプの男性を試してみている、というところなのかもしれない。
作中、この「御乱行」の相手となった男などが、集まってきてしまうというシーンが2度ほどあって、ここがハラハラするようなバカバカしいようなコミカルなシーンと言えるかもしれない


さらに、寿子の事件とカルトシュタインの事件を結びつけるものとして、栃木にある紅玉院なる尼寺が出てくるのだが、惟佐子の雇った
探偵(というのは先に挙げた元軍人の醜男で、父伯爵にとっての情報源でもある)が、ドイツの間諜組織を背後にあるという報告書をあげてくるのである


さて、笹宮家について。父親は先に述べた通り
兄の惟秀は軍人で、長いこと実家には帰っておらず、父も惟佐子も疎遠である。
笹宮伯爵家は、先祖の財産を食い潰している最中と言っていいのだが、惟佐子の母親が死んだの、後妻として迎えたのが神戸の富豪の娘で、家格は劣るのだが、この家の援助により、財を保っている
この話は、戦前昭和の華族・富裕層の文化を描いている作品として読むこともできて、華美な文体と相まって、そのあたりもわりと楽しい。
惟佐子の腹違いの弟が、母の影響もあってジャズにかぶれた不良少年だったりもする。


この笹宮家の話としてみると、実は内面空っぽの貴族たちが妙な物語に染まってしまっていた話なのかもしれない。
父伯爵は、小物議員でしかないにもかかわらず、自分が大それた陰謀家のように振る舞うというもの。まあ、これは正直かわいい方で
兄の惟秀が、白雉博允のオカルト選民思想に取り憑かれてしまっていた、と言える
弟の方はちょっと可哀想で、この中ではまともに自意識を持っていたのに、途中で愛国受験塾に入らされて、愛国思想に洗脳されてしまう。
まあこれにやって、散々愛国的な思想を喧伝していながら梯子を外されてしまった父伯爵の梯子の外されっぷりが浮き立つのだが


惟佐子は、といえば、何しろ華族令嬢にして、社交嫌いで数学と囲碁が好き、というのだからキャラは立っている。ある種霊感じみた直感能力の高さも示唆されており、終始キャラは立っている。
しかし一方で、その内面はいささか薄い。千代子の恋模様と比較すればそれは一目瞭然である。
彼女は、父親が全然大した人物ではないことを見抜いている。が、父親の指示にはよく従うのであり、実のところ父親のことをどう思っているのかはあまり判然としない(一方父親は惟佐子に対して畏れのようなものを抱いている)
しかし、彼女は最後、例のホテルの部屋でのちょっとコミカルなシーンの後、寿子が死んでしまったことへの寂しさを明らかにする。
彼女は寿子の死を悼み、他方で千代子の恋を祝福し、陰謀や選民思想ではなく、日常にこそ自らの着地点を見出す
だからこそ、彼女は笹宮家を離れ、義母のいる神戸へと行くのだろう
ゆえに、ミステリの謎解きはわりあいあっさりとしたものとなっている。物語のクライマックスは、謎が解ける前に終わっている
とはいえ、この謎解きの解き方はちょっと面白い
惟佐子は、事件の謎だけでなく、彼女と惟秀、惟秀の双子の3人が共有している、幻視された風景の謎も解くことで、かの選民思想が白雉博允の妄想でしかないことも突き止める
これで、白雉の血に宿るとされる超能力めいたものを否定するのだけど、しかし、この推理自体が惟佐子の「霊感」めいた直観によって行われているのである。
そもそも、読者からすると、彼女はアインシュタインの話をしている時に広島の原爆が落ちた風景らしきものを幻視しており、明らかにホンモノなのである。


複数の登場人物の視点を自由に行き来する文体は、一体どこまでが誰の知りうるところなのな、というのを探りづらくさせる。
惟佐子の推理は、読者に対しては明らかにされるものの、いわゆる謎解きのシーンというか、作中の他の人物たちに披露されることはない
だから、千代子たちは最後まで、国際スパイ謀略劇が事件の背後にあったのかもしれない、と何となく思っているはずで、複数の見え方が乱反射する物語になっていたのではないかと思う。

*1:読み返していないので未確認