上田早夕里『ヘーゼルの密書』

1939年から1940年にかけて、上海を舞台にして行われた日中和平工作を描いた作品。
具体的には「桐工作」という実際にあった和平工作に基づきつつ、その「桐工作」の一部をなす「榛ルート」というミッション(これは本作の創作)に携わった民間人の物語となる。
榛=ヘーゼル
上田早夕里『破滅の王』 - logical cypher scape2に続く戦時上海・三部作の二作目。ただ、三部作といっても、1930~40年代の上海を舞台にしているという共通点があるだけで、物語としてはそれぞれ完全に独立している。
日中和平工作については、自分は筒井清忠編『昭和史講義――最新研究で見る戦争への道』 - logical cypher scape2で少し読んだくらいしか知らないのだが、盧溝橋事件以降、日中の対立が高まる中、しかし日中双方・官民両方で和平への道を模索する人々はいて、そのために様々な和平交渉・和平工作が行われていた。ただ、複数のルートが同時並行的に行われたため、逆に中国側の信頼を失った、というところがある。
日中和平工作は結局全て失敗に終わり、日中は戦争の道を歩んでいくことになる。つまり、この物語は、最初から主人公たちの作戦は失敗に終わるだろうことを読者は織り込み済みで読んでいくことになる。
また、上田早夕里『リラと戦禍の風』 - logical cypher scape2のようなファンタジー要素はない。上田早夕里『破滅の王』 - logical cypher scape2は最後の最後に大きな歴史改変ネタがあるが、そういうのもない。
後半に、若干カーチェイスがあったりもするし、アクションシーンもいくつかあるけれど、活劇としてもわりと地味な作品だとは思う。
そういうわけで派手さはない物語なのだが、しかし、最後の章での「密書」をめぐる罠のかけあいと、最後の電話シーンなどが面白かった。


この物語は冒頭、小野寺中佐による和平工作が、影佐大佐による別ルートの和平工作と衝突したために失敗するところから始まる。
小野寺は蒋介石との交渉を行おうとしていたが、影佐は、汪兆銘政権を擁立しての和平を模索していたためだ。
この小野寺工作に参加していた民間人が、本作の主人公である。
語学教師として働きつつ、和平工作での通訳を担当している倉地スミ、
上海自然科学研究所で生物学者として勤務し、やはり和平工作では通訳を担当している森塚、
そして、2人の護衛を担当している、本職は料理人の新居周治だ。
小野寺中佐の後を引き継いで、今井大佐が赴任してくる。彼が、桐工作の責任者である。そして、その中でも榛ルートを担当することになるのが、大使館の一等書記官の黒月である。
黒月は、倉地、森塚、周治の3人に、今回から参加することになる費春玲と双見を引き合わせる。倉地と費はやはり以前和平工作で知り合った仲であり、周治と双見は同郷の友人であった。
桐工作は、再び蒋介石との直接交渉を目指す和平工作であるが、既に日本は一度蒋介石からの信頼を失っている。蒋介石重慶政権にこの桐工作が信頼できるものであると思ってもらうために、複数のルートから蒋介石に働きかけるという計画で、榛ルートは、アメリカ公使から働きかけてもらうことを目指すものである。
というわけで、物語の前半は、黒月らとアメリカ公使との交渉で進んでいく。
和平工作への妨害とも対峙しつつ、最終的に、重慶政権へ宛てた密書を重慶へと送り届けるというミッションが、榛ルートの面々に課せられることになる。


主要登場人物である、倉地らは架空の人物だが、歴史上実在した人物も何人か登場する。
中盤にかけてストーリーにかかわってくるのが、鄭蘋茹(テン・ピンルー)と丁黙邨(ディン・モーツン)だ。
鄭は、父親が中国人、母親が日本人であり、小野寺工作の際の協力者であったが、彼女が日本側に紹介した戴笠は偽者であった。その後、鄭は蒋派となり、ジェスフィールド76号の幹部である丁の暗殺計画のため、丁の愛人となる。
当時上海には、ジェスフィールド76号という特務機関があった。これは、日本側が組織した親日中国人の組織で、抗日中国人の取り締まりを行っていた。彼らは、汪兆銘政権樹立の暁には政府の要職に就くことが約束されていた。当時の上海では、抗日派とジェスフィールド76号との間で、中国人同士でも暴力による対立が生じていた。
ところで、今、これを書きながら、鄭蘋茹)と丁黙邨のWikipediaを読んでいて、張愛玲「色、戒」のモデルだと知った。なるほど、作中の毛皮店の話に若干の既視感があると思ったらそういうことか(そこでは起きる展開は「色、戒」とは異なるが)。
この二人の末路は実際にあった出来事のまま、ということであろうが、まさに、時代の流れに翻弄されたといえる。


上海では、すでに2度の戦闘(上海事変)が起きており、市民もまた暴力にさらされる事態がたびたび起きていた。
抗日運動の高まりもあり、日本人と中国人との間の対立も激しくなっており、上述の通り、ジェスフィールド76号のような組織もあった。
租界には、憲兵隊や警察組織もあったが、複数の組織が縦割りで管轄しており、また欧米人の警察はアジア人に対しての差別もあり、必ずしも治安を十分に守っていたとはいえないだろう(管轄が縦割りであるため、犯罪者はそれを利用して逃げていた。一方、その任務上、日中双方と接触する主人公たちは、スパイ容疑をかけられるおそれがあり、彼らにとっても、憲兵の縦割りは都合がよいものではあった)。
また、日本人の中にヤクザのような連中もいて、和平工作の妨害などを行っていた。
そうした状況下の中、例えば、主人公の倉地もかつて日本人と中国人の暴動に巻き込まれて傷を負っていたし、新聞記者である双見は同僚のカメラマンを中国人に殺されたことがある。
そうした背景を持ちつつ、どういう動機や心情を抱えながら、和平工作へと参加していったのか、といったあたりも


当時の普通の日本人の考え方と、それがもたらす中国人との齟齬が度々垣間見える。
例えば、和平交渉においては、満州国をめぐってその違いが現れている。
中国側は予備交渉で「黙認する」とまで答えているのだが、日本側はこれに反発している。
満州を中国人がどのように思っているかは、最後に宋美齢が寝取られた妻の喩えで説明している。
ところで、普通の日本人という意味では、本作の中で注目すべきは、双見をどうとらえるかという点だろう。
倉地はわりと確固たる信念をもった女性だし、周治は周治でその飄々とした態度で大陸に適応している。彼らは軍人でも外交官でもなく、また科学者のような知識人でもなく、市井に生きる一般人ではあるものの、当時の多くの日本人とはまた異なるタイプでもあり、現代の日本人読者から見ても、しっかりした人物だな、という印象はあると思う。
対して双見という人は、その点では「普通の日本人」という枠内におさまってくる人ではあろう。彼は、結局、ヤクザな男に利用されてしまうわけだが、彼が簡単に「日本スゴイ」思想に浸ってしまうところを、批判するか、同情するかは悩むところだろう(そして、作中でも他の登場人物たちの双見への態度は割れる。この割れ方も結構面白い)。
双見は最初から最後まであんまりパッとしないまま終わるが、しかし、そういう登場人物が主要なキャラクターにしている、というのは本作のポイントの一つだと思う。


抗日派中国人が発行している、実在した婦人雑誌も登場している。
主人公の倉地も女性だし、榛ルートのメンバーの中にはもう1人女性がいる。また、鄭蘋茹もいて、前半この3人の女性の人間関係が物語をすすめていくところもあって、この作品はかなり意図的にも女性にもフィーチャーしている作品になっている。


歴史上実在の人物という意味では、「宗子良」も出てくるが、これは今かぎかっこでくくったように、実は偽物である。
桐工作で、今井大佐は中国側と予備交渉を行っており、その際、中国側の窓口となったのが「宗子良」なのだが、これが本人なのかどうかというのが問題になってきた。写真を関係者に見せるのだが、本人だという人もいれば、偽物だという人もいたのである。結局、戦後になって「わたしは偽物でした」と今井大佐本人に打ち明けたらしい。
で、既にちらっと述べたが、物語の最後に宗美齢も出てくる。もっともこの宗美齢登場のエピソードは本作が創作したフィクションだが、一番本作の歴史小説らしいところだと思う。
榛ルート自体がそもそもフィクションなので、そこで起きている出来事は全てフィクションなのだけど、最後に宗美齢との接点があることで、実在の歴史とのつながりが生まれている(そもそも桐工作の一部なので、当然実在の歴史と繋がっているわけだが、そうではなく、登場人物の行動と歴史との関わりというか、何というか、うまく説明できないが、「あ、ここでこの人がこういう登場の仕方するのねー」というのが歴史小説の面白さだと思うので、そういう意味で)。
また、上述した通り、女性たちの物語である、という点でも、最後に出てくるのが蒋介石ではなく宗美齢であるというのが大事なのだろう。