スティーヴ・エリクソン『黒い時計の旅』(柴田元幸・訳)

分岐した20世紀のあいだで交錯するポルノ作家の男とダンサーの女の物語
片や1942年にナチスドイツがイギリスに勝利することになる世界で、ヒトラー専属のポルノ作家となる男と、片や1945年にナチスドイツが敗北する世界で、ダンサーとなる亡命ロシア人の女が主人公で、この2人は別の世界に生きているわけだが、その2人が出会うことで、20世紀の歴史は2つの世界に切り裂かれる。


俺の海外文学読むぞ期間はまだ終わっていない、ということで、エリクソン
本書は以前読んだことがあるのだけど、すっかり内容も忘れているので再読することにした。
なお、エリクソンについては過去に下記の作品を読んだことがある。
スティーブ・エリクソン『黒い時計の旅』 - logical cypher scape2
エリクソン『Xのアーチ』 - logical cypher scape2
スティーヴ・エリクソン『彷徨う日々』(越川芳明訳) - logical cypher scape2


エリクソンはよく「幻視の作家」とか「その幻視力で」などと形容されることが多いが、考えて見ると「幻視」って一体何だ、と思わなくもない。
要するに、物語世界内の事実としてどういうことなのか明瞭な説明がない部分がある、ということなのかな、と思う。
それより『黒い時計の旅』は普通にストーリーテラーで、ページが進むごとにどんどん面白くなっていく。
この作品は大きく5つくらいのパートからなる。
ダヴンホール島のマークのパート、ポルノ作家の男・バニング・ジェーンライトのパート、ダンサーの女・デーニア、探偵ブレーンのパート、そして再びバニング(とデーニア)のパートである。
形式上は数字を付された節で分けられており、上記のパート分けは、シノハラによるざっくりとした内容による分類である。
最初のマークのパートは、正直ちょっととっつきにくいのだが、このパートで描かれた謎が、中盤から後半にかけて色々明らかになっていくという展開をとる。
バニングによる「おれ」という語りが始まると、俄然テンポがよくなっていく。
個人的には、デーニアとブレーンの話が結構面白く読めたんだけど、さらにその後も、次々と新たな展開が出てくる。

ヒトラーとゲリ

冒頭、数ページほど、ヒトラーとゲリについてのエピソードが引用されている。
ヒトラーの伝記的事実について明るくないので知らなかったのだが、ゲリはヒトラーの姪であり、ヒトラーはゲリのことを終生愛していたとされる。1931年、ゲリは突然の死をとげる(ピストル自殺とされる)。
なお、この引用部分を除き、本文中では「ヒトラー」という名前は直接は出てこない(「ゲリ」の名前は出てくる)。

マーク

物語は、ダヴンホール島で生まれ育った白髪の少年マークの話から始まるが、これはプロローグといった感じで、全体から見ると分量は少なめ。
白いあざのある母親(デーニア)から生まれ、島へ渡る川の渡し守をしている老人ジーノのもとで働き後を継ぐ。青いドレスの少女に魅了されるが見失う。
島と本土を隔てる川には、時間のなくなる場所がある。また、川の中程には小屋が建っているのだが火事で焼け落ちている。この火事について母親も老人も語ろうとしない。

バニング・ジェーンライト

この物語の前半部は、バニング(おれ)を語り手・主人公としてすすむ。
バニングは、1917年にアメリカのペンシルヴェニア州に生まれる。10代も終わりの頃に、兄2人により、家政婦として働いていたネイティブ・アメリカンの女性で童貞を捨てるように唆されるが、まさにその唆しによって、彼女が自分の母親であることに気付き、怒り狂い、兄を殺害し、実家に火をつけてニューヨークへと逃亡する。
誰よりも背の高い大男で、ニューヨークでは、元ギャングのハンクスに気に入られ、彼の経営するクラブのドアマンとして働き始める。そうやって浮浪者から脱したバニングは、ハンクスのタイプライターを使ってポルノ小説を書き始める。これが雑誌に掲載されるようになると、ドアマンを辞めて物書きとして働き始める。
そして、雑誌には掲載されず、依頼人からの依頼に基づき作品を書く、という作家に変わっていく。
依頼人Xの仲介人であるクローネヘルムから、ウィーンに来るよう頼まれる。最初それを断っていたが、兄殺しと放火の件で探偵に追われることになり、急遽ウィーンへと渡る。
この探偵に追われたときに、思わず古巣であるハンクスのクラブに逃げ込んでしまい、ハンクスに助けられるシーンのハンクスがかっこいい。
ウィーンへ向かう列車の中で知り合ったユダヤ人のカールとスペイン人女性
バニングは、常に特定の女性登場人物を登場させているらしいのだが、あたかも実在していて、バニングの部屋に彼女たちが訪れてファックしているように描かれている。
ウィーンに来て、それがうまくいかなくなり、犬嵐横丁へと引っ越す。
そこでバニングは、部屋の窓から路上の小競り合いを見ていた「お前」に出会う。その瞬間、20世紀は切り裂かれる。バニングは「お前」との情事を書く。
カールはウィーンを去り、バニングはスペイン娘と高級クラブへディナーへと行く。無銭飲食しようとして、イギリス人女性のメーガンに助けられる。
その後、ホルツという軍人が依頼人Zの仲介として現れる。依頼人Zがヒトラー。XはZの部下。
ただし、上述したとおり、「ヒトラー」という名前は直接書かれていない。以後基本的には「Z」ないし終盤においては「老人」とのみ呼ばれる。
メーガンとの間に子どもが生まれる。
ホルツは、バニングにゲリの話をして、バニングが書く小説に出てくる「お前」の見た目をゲリに似せるように指示する。
オーストリアがドイツに併合され、依頼人Zが現れる。
バニングの作品、というか彼の描く女性はバルバロッサ作戦を巡る軍部内の意見対立に利用され、バルバロッサ作戦は見送られる。その代わり、イギリスに総攻撃が行われて、イギリスは降伏する。
依頼人Xが現れ、ホルツが殺され、バニングの妻子も殺される。バニングはXを殴殺する。
1947年以降、一人称が「私」に変わる。「お前」と出会った通りに、その後、探しても二度と見つからなかった通りを再び見つける。

デーニア

物語の後半部分は、デーニアを主人公とし、デーニアを「彼女」と呼ぶ三人称で進む。
デーニアはマークの母親であり、バニングがウィーンで一度だけ邂逅し、作品の中で描き続けた女性である。
1917年、デーニアの父親は、とある青写真を抱えてロシアから亡命をはかり、逃亡中に出会った女性との間に子を作る。彼らは、アフリカ・スーダンのクレーターで亡命生活を送る。
そのクレーターには、デーニアの家族だけでなく他にもヨーロッパから逃げてきた人たちが暮していた。少女時代のデーニアは、若い医者ライメスに恋をした。また、デーニアの父親は、ダンス教師をしていたという男性にデーニアにダンスを教えてほしいと頼む。デーニアは、特殊なバランス感覚の持ち主であったが、
父親は帰欧を考え始めるが、母親はそれを憂慮する。ある晩、居住地は野牛の群れに襲われて、デーニアの母親と弟やダンス教師は亡くなる(野牛の足音に気付いてテントを出ていたデーニアが助かるのは分かるとして、セックス中に父親の上にいたがために母親だけ亡くなったのはどういう状況なのか謎である。ただ、この野牛の群れ自体が実在しているのかどうかよく分からない描かれ方をされていて、このあたりなんかもまた、幻視的といえるのかもしれない)
デーニアは父親と2人でウィーンに移り住む。
デーニアはウィーンのアパートで路上の小競り合いを見て、投石によりあざができ、その夜「恋人」に襲われる。
デーニアは、ダンス・スクールの事務を始める。
デーニアのダンスはやはり理解されないが、ホアキン・ヤングという若き天才ダンサーだけがその才能を認める。しかし、彼はウィーンにはとどまらずアムステルダムへと行く。
父親は、例の青写真は20世紀の地図だという。
デーニアはホアキンの誘いによりオランダに行くが、その列車の中で再び「恋人」がやってくる。デーニアの髪の色を間違え、違う名前で呼ぶ。デーニアは結局ウィーンへ戻る。
父親は、青写真をロンドンへ送る算段を立てるが、青写真を狙っていたライメスに殺される。そこを目撃したデーニアはライメスを射殺する。
ウィーンはソビエトを含む連合軍に占領され、デーニアはホアキン・ヤングの伝手でロンドンへ。しかし、デーニアはホアキンとではなく、ポールという冴えないダンサーと交際するようになり、三角関係になる。
デーニアはニューヨークへ移住する。

ブレーン

ニューヨークで見えない追っ手から逃げるデーニアを助けたのは、ブレーンという大男だった。
ブレーン登場以降、ブレーンからの視点で描かれるようになるが、広い意味ではデーニアパートの一部と捉えてもいいかもしれない。
ブレーンは探偵で、依頼人(おそらくホアキン)から依頼されてデーニアを監視していたが、ブレーン自身もデーニアに魅せられていく。
そして、彼女がダンスを踊ると、別の場所で白人男性が死ぬという相関を見つけ出す。
荷物を残してデーニアが姿を消した後、青写真を渡すという口実で、デーニアのあとを追う。
デーニアの足取りを追ううちにで、ブレーンはダヴンホール島にたどり着くのである。
ブレーンは、若き日の渡し守ジーノに妨害されて、島には入れず、その手前の小屋で舟を降りる。デーニアとは再会するが、その夜、小屋は火事になる。

バニングとデーニア

イタリアの古城に幽閉されて小説執筆を続けさせられているバニングは、復讐を思い立つ。
この古城ちょっと面白くて、周辺を青いシートで覆って海に欺瞞しているのだが、その一方、周辺の住民が地下壕を掘っていて内部に侵入可能になっている。バニングは、そんな住人の一人ジョルジョから食料をもらったりしている。
また、バニングは同じ城内に、Zと翻訳者がいることに気付く。そもそも監視がザルなので、Zがいる部屋にも行くようになる。というか、翻訳者がドイツ語でバニングの作品を朗読しているところを見つけ、部屋にある写真などから、朗読相手が老人となったZであることに気付く。
バニングは、監視が緩いので、Zを殺そうと思えば殺してしまえることも理解するが、それ以外の復讐の手を思いつく。彼は、Zがなした悪(ユダヤ人やジプシーにしたこと、イギリスにしたこと、そして何よりバニングの妻子であるメーガンとコートニー)を捏ねてデーニアを妊娠させて子を作り、それをZ自身の子だと思わせるように仕向ける。
一方デーニアは、突如妊娠し、そしてバニングの復讐に抗う。お腹の中の子を愛することで、普通の子として出産する。
バニングの復讐は失敗する。バニングはジョルジョの手引きで城を脱出することになるが、その際にZを一緒に連れて行くことにする。
流れ流れて、ヨーロッパからアメリカにわたり、ユカタン半島ではドイツ軍と戦うレジスタンスと出会い、テキサスから北上しニューヨークへ。
その間、バニングはZを手ひどく扱うが、道中では老人でありその正体が知られていないZはむしろ弱者扱いされいたわられたりする。
ニューヨーク、バニングがかつて小説を書いていた部屋に行く。そこに青写真があり、Zは死ぬ。
そしてバニングは、さらにダヴンホール島へ。デーニアとその息子の住むホテルに住み、デーニアに許しを乞い亡くなる。冒頭のマークのパートで、母親の前で死んでいた男の正体がここでわかる。その後、バニングは、島の主な住人である中国人たちの風習により木に吊るされる(もうすでに死んでいるはずなのだが、バニングが木につるされていることをバニングの一人称で語られていたりする)
最後、再び視点がマークに戻り終わる。

感想

デーニアは、ダンスを踊ると男が死ぬ、美人じゃない(と本人は思っている)けど次々と男の運命を狂わす、といったキャラクターで、その設定だけ取り出すとなんか陳腐なんだが、それはそれとして、革命から逃れて亡命したロシア人の娘で、少女時代はアフリカで過ごし、20代にはウィーンで過ごし、初恋の男を射殺したのち、さらにロンドン、ニューヨークへと移り住んでいく、という展開が結構面白かった。
バニングパートにもそういうところあった気がするけど、ドイツ化によりウィーンが次第に住みにくくなっていって、逃げ出していくとか、今読んでアクチュアリティがある空気感かもしれないなと思ったり思わなかったり。
ブレーンは、後半に突然出てくる新キャラクターだけど、依頼主の依頼から離反していく探偵で、わりと好き。
で、ダヴンホール島出てきて、「おお、盛り上がってきたなー」って感じで、そこからラストまでがまた結構すごい。
バニングとデーニアとが交互に描かれていて、デーニアはバニングが書く小説の中の登場人物ではある。バニングが城で、なんか20世紀の悪を捏ねて集めた何かをデーニアが妊娠するという展開を書いていくので。
でも、デーニアはバニングの思う通りには動かない、というところが一つのクライマックスかなと思わせて、そのあたりさらに、バニングがZを連れて逃避行みたいな旅にでる展開は結構驚いた。ユカタン半島にマヤ抵抗運動ってレジスタンスがいたりね。
そして、最後にはバニングはデーニアのいる世界線へと入り込んでいくわけで、バニングの世界とデーニアの世界の関係って一体どうなってるんだとは思うものの、ダヴンホール島という島が特殊な場所なんだろうな。
ナチスドイツによる20世紀の歴史を、男女の出会いが切り裂いてしまう、という話なわけだけど、このバニングとデーニアの男女関係ってよくわからないよな。デーニアはバニングが何者なのかほとんど何も分からないわけで、ただ一方的に犯されているような関係にも見えるし、男女の愛と20世紀の悪とかいってまとめてしまうとわけわからなくなるな。
愛という意味では、バニングもデーニアもむしろ親子の愛の物語の方が、わりとわかりやすい形で描かれている。
あー、そういえば、バニングが実は家政婦の子で云々の最初の方の話、なんかああいうの読むと全部フォークナーっぽく見えてしまう。
20世紀の悪というか、まあおおむねナチスドイツのことなんだけど、しかしソビエトのこともちらちらと気にかかるように書かれている。


エリクソンって、その名もBlack Clockっていう文芸誌の編集長やってんのか。

追記

諏訪部浩一「隠喩としてのヒトラー『黒い時計の旅』における三角形的欲望」
読んだ


何故ヒトラーなのか、という問いを立てて、これは自分も気になったところなんだけど、つまり、作家とヒトラーというのをどちらも支配する者として類比させている、ということか?
バニングとデーニアとZを欲望の三角形の図式で捉える。他者の欲望を欲望するという精神分析的な図式
バニングは他者の欲望の模倣者。バニングとクローネヘルムとアメリカ時代にバニングの作品に出てた女(アマンダとか)もまた同じ三角形だが、バニングは自分の立ち位置に自覚的だったので、クローネヘルムに対して優位に立てた。
Zに対しては、同じ土俵で競おうとしてしまう。神話でヨーロッパの半分を支配するZに対して自分がその神話を書き換えると言ったり。
デーニアの髪の色を変更するようホルツに言われた際にこれに逆らっているが、しかし、のちにバニングはデーニアのことをゲリと呼んでしまう。
バニングはZのようになろうとして失敗した。
また、バニングは実在の女性を愛せず、自分の作り出した女性しか愛せない。一見、メーガンを愛しているようにも見えるが、デーニアへの愛に対する「障壁」としての役割でしかない、とも。
あと、バニングとデーニアが邂逅するシーンについては、バニング視点とデーニア視点のそれぞれから描かれていて、捉え方が全然違うことが分かるのだけど、このブログの記事中では拾いきれなかった。