柴田勝家『ニルヤの島』

第2回ハヤカワSFコンテスト大賞受賞作
著者の名前と風貌で話題を読んだが、それは作品とは関係なし、作者についての情報で作品と関係しているのは、民族学専攻の大学院生ということ
というわけで、文化人類学南洋SF
文化人類学南洋SFというと、『ナチュン』というマンガが実は先にあったりするけど、内容は全然違う。ただ、部分的に「あ、『ナチュン』っぽい」と思ったシーンはあった(でも、他の人はあんまりそう思わないかもとも思う)。


「死後の世界」という概念を巡る作品で、面白かった。
それぞれ視点人物と時間軸の異なる4つのパートが交互に進行する構成は、読みにくいという声もあるようだが、そして確かに「読みやすい」とは言い難いものの、小説を読み慣れてる人であれば十分読み通せるとは思う。
正確にどうなっているか読み解こうとするとちょっと大変だが、それでも後半でこれらの4つのパートはちゃんと収束していくので、そのあたりは気持ちいい。
SF的なガジェットや用語の使い方についても、前半はちょっと気になって話に入れなかったところがあったのだが、後半でちゃんとまとまって、「おお」となった。
しかし、この作品の面白さというのは、そういう出来の良さというよりはむしろ、死後の世界や死というテーマの難しさにあって、作者もこのテーマを掌握できていないのではないかという気がするけど、そもそもこんなテーマなのでそれは当然で、そういうところがよかった。


生体受像という技術によって、人生のログが完全にとれるようになって自由に再生などができるようになった未来
パラオなどのミクロネシア諸国が、ミクロネシア経済連合体(ECM)という1つの国に統合されていて、そこが舞台になっている。ECMは、コバルト資源とかで経済成長を遂げていて、大環橋(グレート・サーカム)を建設して、島々を地続きになっていっている。
死後の世界という概念が全世界的に廃れたのだが、ミクロネシアでは、モデカイトという新興宗教が生まれている。モデカイトは、様々な宗教や信仰がゆるやかに混ざっていて、教義などは緩く、ただ「ニルヤの島」という死後の世界を信じているというのがほぼ唯一の教義といっていい。死後の世界概念がなくなっているため、葬儀などが簡素化してしまっている中、身寄りのない者の葬儀などはモデカイトが一手に引き受けている。



これを読みながら、
死や死後の世界については、「自分の意識がなくなること」「他人がいなくなること」「他人から忘れ去れること」「人生の意味づけ」「倫理の基盤」といった要素に分析できるのではないかと思った。
注意が必要なのは、この作品の世界においてなくなったのは、あくまでも「死後の世界」概念であって、「死」そのものを克服しているわけではない。
人類はやはり死ぬ。
ポストヒューマンSFだと、肉体が死んだあとも、コンピュータプログラムとして生き続ける人類が出てきたりして、生体受像の技術って一瞬それかと思ったのだけど、そういうものではない。
精巧なログが残っているので、他人がその人のことを思い出す時に、生きているのと同様な状態で思い出せる。「記憶の中で生きている」というのを文字通り実現した感じか。
そういう意味で、「他人がいなくなること」「他人から忘れさられること」といった点では、かなり補完されるといえるかもしれない。
一方、「自分の意識がなくなること」というか、自分という存在がある時点で終わってしまうことという意味での死は、やはり相変わらずある。
自分はちょっとタナトフォビアの気があって、この「自分の意識がなくなること」に対する恐怖感が、死については一番大きく感じるところなので、この点についてあまり掘り下げられていなかったことが、物足りなくもあり、ほっとしたところでもある。
ただ、生体受像の技術は、ちょっと面白いことができる。
記憶をいつでも生々しく再生できるのだが、その順序を実際の順序とは異なる順序で再生することができる。主観的には、永遠に同じ記憶をぐるぐる体験することもできるのではないか。
実際の時間順序と体感する時間順序が異なるというと、『スローターハウス5』とか「ここがウィネトカならきみはジュディ」とかあるけど、ああいう状態になると、死への感覚変わりそうだなとは思う。
さて、この生体受像による記憶順序の入れ替えというのは、「人生の意味づけ」と関わってる。
この世界には、ナラティビストというのがいて、人生を物語化してくれる。過去の出来事を意味づけして、体験させてくれる、というわけ。
「《Gift》―贈与―」のパートでは、ノヴァクという登場人物が、これを体験していて、主観的には時間をいったりきたりしている。これは、小説とか映画とかが、回想シーンを挿入したり、時間順序を変えてプロットを組んだりすることと相似してる。
「倫理の基盤」については、悪いことしたら地獄に行くとかそういう奴。この作品だと、死後の世界概念がなくなった頃に、「死後の世界なんてない派」と「ある派」でいざこざがあって、暴力沙汰とかになったあたりにそれがあらわれてる。


文化人類学SFと書いたけど、文化人類学SFってなんなのか
っていうかそもそもSFってなんなのか、という話はここではしないけど
この本は巻末に、ハヤカワSFコンテストの選評がついていて、そこで東浩紀は、SFっていうのはこれまでのSFの歴史を踏まえているかどうかというようなことを述べている。
一方で、at_akadaさん(文学フリマで同人小説を発表している方)は、どんな学問でもSFが書けると思っていて哲学SFを書いた、と言っていた*1
ならば、文化人類学SFっていうのもありうるだろう。
SFっていうのが、物理学とか情報科学とか生物学とかいった学問の知見を組み込んだフィクションならば、文化人類学SFはその文化人類学版ということになる。
文化人類学の知見としては、何が使われていたのか。
とりあえず、そもそも「ニルヤの島」という死後の世界のイメージを作るのに使われてるだろう。海の向こうに死者の国があるというイメージ。作中でも、補陀落とか儀来河内とかいった単語が出てきたりはしてる。でも、ここらへんは、単語出てきただけ、という感じもする。
「《Gift》―贈与―」のパートに出てくるノヴァクは文化人類学者なのだが、彼が書いたサウェイ交易論が、ECMに影響を与えたということが書いてある。この世界における国際的な政治経済は、どうも現在とは変わっているっぽい(アメリカの経済体制とか)、詳しいことは書かれてなかった。ミクロネシアの国際的地位は今より上がってるっぽい。というか、そういう方向でミクロネシアの政治家達が動いてて、それに影響を与えたのがサウェイ交易論らしい。サウェイ交易っていうのは朝貢貿易みたいな奴のことっぽい。ノヴァクは、物語の最後の方でも、大きな会議で演説をする。
ECMみたいな連合国家の設定は、いかにも未来SFっぽく、それをサポートしたのが文化人類学だったというのは、文化人類学SF的なところかもしれない。
しかし、個人的にとりわけ文化人類学使ってるな、と思ったのは、カーゴ・カルトの使い方だった。
SF的な使い方、というのとはまた違うかもしれないけれど、文化人類学の知見をうまく物語の中に組み込んで使っているな、というところ。
それは、行為の模倣・繰り返しのモチーフとの関係。


この作品では、似たような行為が模倣される、繰り返されるということが何度か出てくる。
そしてそれについては、カーゴ・カルトが引き合いに出されたりする。
カーゴ・カルトというのは、よかったときの状況と同じようなことを模倣することで、再びその状況を再現させようとすることだ、とされている。
この模倣とか繰り返しとかっていうのは、ある意味では、文学的というか、フィクションにおいてよく使われる演出だと思うんだけど、そういう演出をどうやって意味づけるのか、というので、カーゴ・カルトという文化人類学の概念を持ってきている。
ある女性が、別の女性の行動にかつての自分の行動を重ねあわせてしまったりとか、そういうシーンも出てくるのだけど、そういうのって例えば「因縁」と呼ばれたり、あと『機龍警察』だと「相似」という言葉で印象づけられていた。
そういう印象付けをどうやって行うのか、ということで、カーゴ・カルトという概念をうまく使っていたのではないか、と。
それと、ミーム
ミームが出てくる、というのは、事前にレビューとか見て知っていて、読む前からちょっと構えていたところがある。
今どきミームはないでしょ、みたいな懐疑的な身構え。
実はそれは読み始めてからもそうで、結構後半になるまでそのことが気になって、読みながら「うーん」って唸ってた。
実際のところ、カーゴ・カルト以上に、ミームはよく出てくる。模倣子行動学者とか出てきたり、「(遺伝子の発現ではなく)ミームの発現だ」みたいな文が出てきたりする。
ミームって、それだけだとふわふわしているので、それだけ放り込まれてもちょっとなあと思うわけで、実際ふわふわしていた*2
これが後半になるまで気になっていたのだけど、このあたりを後半でいきなりうまく収束させてきたのが個人的なハイライトだった。


読み進めていると、この作品世界の未来史の中で、DNAコンピュータが開発された旨が出てきて、これについても、DNAコンピュータなんて出してきてどうするんだと思ったりしたのだが。
DNAコンピュータができる→これが応用されて生体受像ができる→生体受像を媒体にしてミームコンピュータができる、という流れが説明される
これもまたむちゃくちゃといえばむちゃくちゃではある。DNAコンピュータだからって体内で走らせられるのか、と思うし。
でも、むちゃくちゃではあるものの、一応一本の線はついたなあという感じで。「おお、つながった」っていう。
ミームというふわふわした概念に対しても、つまり、ミームって具体的に何を媒体にしてんだよってことに対しても、生体受像という解答を与えた。
生体受像っていうのは、個々人の中に走っているデバイスで、個々人を(勝手に)コンピュータ化したのがミームコンピュータ。
ミームコンピュータを使うと、ミームを人為的にコントロールできる、つまり「ニルヤの島」みたいな概念なり価値観なりを埋め込んだりできるようになる。というわけで、実はミクロネシア経済共同体はディストピアみたいなとこだったってなってる。
しかも、作中に出てくる名前を持たない謎の少女が、このミームコンピュータを人格化した存在だったりする。それで彼女が視点人物になってるパートはあんなだったのか、と合点がいくし。彼女がアンドロイドなのか何なのかとかそういう設定は特に明かされないし、それはその方がいいと思う。科学技術的な意味でのSFではないし、ロボットとかAIとか少女とかがテーマの作品でもないから。


あらすじを説明するのは難しいので、簡単に構成と登場人物について
《Gift》―贈与―
《Transcription》―転写―
《Checkmate》―弑殺―
《Accumulation》―蓄積―
この4つのパートが大体交互に進んでいく。
既に述べたけれど、《Gift》は、イリアス・ノヴァクという文化人類学者が出てくる。彼が、久しぶりにECMを訪れたときの話なんだけど、ナラティビストが記憶の順序を並び替えているのを主観的に体験していて、このパートはその順序で書かれている。4つのパートの中では、時間的にはもっとも後に位置している、はず。
ECMの酋長が集まる会議に呼ばれるのだけど、一方で、ヒロヤ・オバックというツアーガイドの祖父であるケンジ・オバックに会いに行く。ケンジは既に記憶が混濁しているのだけど、ずっとカヌーを作り続けていて、死後の国を信じている。
ヒロヤとケンジは名前の通り日系だけれど、日本のことは知らない。逆にノヴァクは、エスニックには欧米系だけど国籍は日本。この時代の日本は、多民族国家になっているらしい。
《Transcription》は、ヨハンナ・マルムクヴィストという模倣子行動学者が、サルの研究半分、休暇半分みたいな感じでミクロネシアに訪れている。彼女をガイドするトリーは、ミクロネシアの先進性を彼女に見せようとするが、彼女はミクロネシアの土着的な部分を見たがるので、トリーは嫌がる。で、彼女は少しずつモデカイトに関わっていく。
《Checkmate》は、チェスに似ているゲームアコーマンをしているプレイヤーのログ。2048年、2022年、2024年、2064年のものなどがある。2020年代のものは、ロビン・ザッパという、ミームの研究をして、さらに死後の世界はないということを本に書いて世界にそのことを決定づけさせた男が、延々とアコーマンをやっている。
《Accumulation》は、ニイルという少女の視点で書かれていて、一番何が起きているのか分かりにくいパートなのだけれど、ミクロネシアをを繋ぐ橋の上で働く労働者であるタヤやケンジの話。
この4つのパートはそれぞれ時間が異なっているのだけど、登場人物が少しずつ重なっていて、後半になって収束していく。同じ登場人物が、別のパートでは名前が違ってたりするのが厄介だけど。
あと、時間順序がどのパートもバラバラなので、正直、読んでてちゃんと組み直せてないけど、「おーつながったー」という面白さは感じる。


追記(20150123)

すごく最初の方で、猿の行動を見ながら、利己的がどうの、利他的がどうのという会話があったけど、ちょっともやもやした。
最近、寄生獣のアニメでもちょうど、大学の先生が利他的とは何かの話をする回があったけど。
まあ以下は、この本の感想というよりも一般論的な話として
動物や人間の利己的・利他的行動の話って、「利他的に見えるけど実は利己的なんだ!」みたいな話されること多いけど(この本では、マクロな意味での利己性みたいな言い方されてたけど、そういう言われ方されるとちょっともにょる)
利己か利他か、というより、一見非合理でどうしてそんなことしてるのか説明できなかった行動も、合理的に説明可能になった、と捉える方がいいような気がする。
合理的が利己的ってことだろって思われるかもしれないけど、そこでいう「己」って遺伝子のことだったりするし。
あと、人間は色々あって協力行動を進化させる方向にいって、協力行動をスムーズにすすめるために、裏切り者検知できるようになったり、評判を気にするようになったりしてきて、協力的な行動傾向を持つようになったわけだけど。
評判を気にするとかそういうこともやはり、ある意味では利己的だろう、ということもできる。っていうか、利己的っていうときの「己を利する」ってどの範囲なのか、ということで、こんなのいくらでも広げていいうる。そうやって、様々な理由付けが、「ある意味では利己的」って言われてしまった時に残る、「真の」利他性って、ただの狂気じゃないのって思う。
利己的か利他的かって、獣と人間とを分けるもの、利己性が人間性を特徴付けるもの、というような印象もあるから、動物の行動を説明するのと同様のロジックで説明されるとそれを侵害されたかのように思われるのかもしれない。だからこそ、「実は利己的なんだろ」って物言いにはどこか露悪的なニュアンスが伴う。
でも、自分は、合理性だって十分に人間性を特徴付けるものだと思うので、合理性を損なうくらいなら、利己的であっても全然問題ないのでは、と思う。

*1:形而上学刑事」第19回文学フリマ感想 - logical cypher scape

*2:あ、あと、模倣とか出てくるので、出るかなと思ったらやっぱり「ミラーニューロン」も出てきたけど、これは一カ所で言及されただけなのでまあいい。こいつも要注意キーワードだと思う。流行ったけど、どれくらいの重要性をもたせるべきかという点について