『現代思想2016年5月号(特集:人類の起源と進化)』

山極・諏訪対談と、赤澤・西秋対談が一番面白かった。

現代思想 2016年5月号 特集=人類の起源と進化 -プレ・ヒューマンへの想像力-

現代思想 2016年5月号 特集=人類の起源と進化 -プレ・ヒューマンへの想像力-

特集*人類の起源と進化――プレ・ヒューマンへの想像力


【討議1】プレ・ヒューマンへの想像力は何をもたらすか /山極寿一+諏訪 元
【起源へのアプローチ】
ホモ・サピエンスの本質をゲノムで探る /篠田謙一
ヒトの体と心のなりたちについて /長沼 毅
人類の起源という考えそのものについて /吉川浩満
【討議2】ネアンデルタール人との交替劇の深層 /赤澤 威+西秋良宏
【ヒトびとの軌跡】
揺らぐ初期ホモ・サピエンス像 出アフリカ前後のアフリカと西アジアの考古記録から /門脇誠二
考古学から見た人類活動の変化 旧石器時代の物質文化を中心に /長沼正樹
日本旧石器時代の現代人的行動と交替劇 /仲田大人
【インタビュー】脳から考えるヒトの起源と進化 /養老孟司
【進化へのパースペクティブ
〈社会性〉への不可解な進化 /大澤真幸
文化系統と文化進化 継承のパターンからプロセスを推論する/三中信宏
人間進化と二つの教育 人間進化の過程において教育はどのような役割を果たしたか/中尾 央
恥ずかしさの起源と進化 /木村大治
【ヒト以前の思考へ】
オリジナルな起源 W・デーヴィスの「イメージ・メーキングの起源」論が問いかけるもの/佐藤啓
人類史という「詭弁」 メイヤスー「祖先以前性」概念に基づくカント人類学の批判/大橋完太郎
【研究手帖】
ラテンアメリカ先住民と持続可能性の現在 /近藤 宏

【討議1】プレ・ヒューマンへの想像力は何をもたらすか /山極寿一+諏訪 元

結構いろいろな話をしているのだけれど、とりあえず面白かったところだけメモ
ゴリラの話をかなりしている。
集団形成のあり方と性差・体格の話で、ゴリラの話をしていたり。人類の祖先が出サバンナした際に、体格が大きくならなかったことと、性差や食料の分配による集団形成が関係しているのではないかと。
で、面白かったのが、普通、人類と一番近い類人猿というとチンパンジーが取り上げられるけれど、ゴリラも近いんだ、と。
遺伝子でいうと、人間とチンパンジーの違いは1.2%、人間とゴリラの違いは1.5%
ただ、例えば性的には、人間とチンパンジーはだいぶ違う。睾丸の大きさ(体重比)を比べると、チンパンジーは異常に大きくて、人間とゴリラの方がよほ近い、と。
ゴリラが祖型としてあって、そこから人間とチンパンジーがそれぞれ別個に進化したというふうに考えてみてもいいのではないか、と。
例えば、人類と暴力について考える際に、チンパンジーの暴力性が取り上げられることが多いけれど、チンパンジーの方で独自に進化を遂げたものなのではないか、とか。
また、ハンティングと種内暴力が混同されがちだが、ハンティングの証拠は50万年前から、人間同士の殺しあいの証拠は1万年前とだいぶ時期が違うので、人間の暴力性の起源はまた別の場所からきたのではないか、と。

ホモ・サピエンスの本質をゲノムで探る /篠田謙一

自分が子どもの頃には既に「アフリカ起源説」にほぼ軍配があがっていて「多地域進化説」はほぼ過去の考え扱いになっていたように記憶しているんだけど、ミトコンドリア・イブ説って出てきたのは87年でそれまでは多地域進化説の方が強かったというのを読んで、そう考えると意外と最近かもしれないと思った。特に、多地域進化説は人種概念の根拠にもなっていた旨書かれていて、まあ人種主義者がみんながみんな多地域進化説に依拠しているわけではないだろうけれど、30年くらい前までは多地域進化説の方が強くてそういう人類史を前提にしていると、人種概念は一定のリアリティがあるかもなと。単一起源説を前提にしていると、人種にあまり科学的リアリティを感じないでしょ。
しかし、もちろんこの記事のメインはそこではなく! 分子人類学の研究史である。
特に、ネアンデルタールとサピエンスの交替劇について、ゲノム分析の観点から
交雑していたのが分かってきたけれど、サピエンスはネアンデルタールからどのような遺伝子を取込み、またどのような遺伝子は取り込まなかったのか。
寒冷地への適応について、サピエンスはネアンデルタールと交雑することで、ネアンデルタールの持っている寒冷地適応能力を取り込んだらしい。
一方、サピエンスとネアンデルタールで差があるところとして、FOXP2遺伝子があげられているらしい。言語能力との関係が言われている遺伝子で、サピエンスとネアンデルタールに言語能力の違いがあった可能性がある。
しかし、筆者はここで、「サピエンスの方が知的に優れていたからネアンデルタールからサピエンスへの交替が起きた」というよくあるストーリーに注意を促す。
サピエンスとネアンデルタールの遺伝子の違いとして、生殖能力に関わるところもあり、サピエンスの方が生殖能力が高かったためとも考えられる。

人類の起源という考えそのものについて /吉川浩満

(本来なら「分岐」とか「分化」とかいう方が科学的には正しいはずなにに)「起源」と言ってしまうとき、「特権性」のドグマと「同一性」のドグマがあるのではないか。
起源となる一回性の特権的な出来事があり、また人類の進化はすでに完了していて変化しないという。
科学的には、それらは間違っている。
単純に科学的知識が社会に広まれば、これらのドグマは消えるのか。

【討議2】ネアンデルタール人との交替劇の深層 /赤澤 威+西秋良宏

人類学者の赤澤と考古学者の西秋の対談
ネアンデルタールからサピエンスへの交替劇についての研究プロジェクトを率いている。
ネアンデルタールと初期のサピエンスの間に違いはなかったという主張も強くあるらしい。これに対して西秋は、生物種として違うし脳も違うのだから当然違いはあるはずと考えて研究を行った。が、考古学的にはあまり違いがはっきりしないらしい。
違いがないわけではない。しかし、地域差、集団差もあり、それが種族としての差なのか文化としての差か判然としないらしい。
あと、同じ文化がネアンデルタールからサピエンスと受け継がれたのではないか、と考えられるケースもあるらしい
サピエンスの方が認知能力が高かったから、と考えてしまいがちだが、認知能力で差がついたというよりも、認知能力も含めて色々な要素をあわせた総合力の差だったのではないか、と。
例えば、身体の大きさの違いを挙げる。ネアンデルタールの方が身体が大きい。身体が大きいと群れのサイズは小さくなる。社会性があまり生じてこない、等。

揺らぐ初期ホモ・サピエンス像 出アフリカ前後のアフリカと西アジアの考古記録から /門脇誠二

タイトル通り、出アフリカ前後の初期ホモ・サピエンスについて
ホモ・サピエンスはある時期から「現代人的行動」というものをとるようになる。石器の技術革新とか象徴行動とか
出アフリカ前のサピエンスについて、この現代人的行動がみられるようになる前と後の時期に分けることができる。
従来だと、現代人的行動をとるようになって、つまり頭がよくなって能力が高まったので出アフリカして広まることができたのだと考えられてきたが、実際は、現代人的行動をとりはじめる以前に出アフリカをしはじめていたらしい
つまり、サピエンスが広まったのは、能力が高かったというよりは、自然の条件が整っていたからではないか、と

考古学から見た人類活動の変化 旧石器時代の物質文化を中心に /長沼正樹

日本旧石器時代の現代人的行動と交替劇 /仲田大人

【インタビュー】脳から考えるヒトの起源と進化 /養老孟司

うんまあ、雑談っちゃあ雑談

文化系統と文化進化 継承のパターンからプロセスを推論する/三中信宏

系統樹というと「生物の」と思われがちだが、文化についても当てはまる。いわゆる文系・理系の枠を超えて同じ方法論が使われているということについて。
文化進化について、メスーディの『文化進化論』を最初に取り上げつつ
そこで指摘された「小進化のプロセス」と「大進化のパターン」のうちに、主に後者について。
写本系譜研究において、比較文献学者のマースは「分離的な誤り」と「結合的な誤り」という整理をしているが、これは、ヘニックのいう固有派生形質と共有派生形質に一致する概念
言語進化を統計学的アプローチに当てはめてよいのか、というのは真の問題
文化進化は生物の系統樹(ツリー)と違ってネットワークになるから同じ方法を当てはめられるのか、というのは偽問題
ツリーかネットワークかは、グラフ理論でどちらも扱える(三中は、ツリーに対してリゾームを対置するリゾーム論を批判する)
祖先子孫関係を半順序関係としてとらえる定義がある

人間進化と二つの教育 人間進化の過程において教育はどのような役割を果たしたか/中尾 央

ナチュラル・ペタゴジー説という説に対する批判的検討
ナチュラル・ペタゴジー説についての説明が薄いのでちょっと読みにくかった
過剰模倣という現象の話から始まる。
子供を対象に、スイッチを押すところを見せて、子供にもスイッチを押させる実験。実験者が、頭でスイッチを押すと、子供も頭を使って押す。非合理的な余計な操作も模倣する、という現象
ナチュラル・ペタゴジー説は、「明示的教育」というものが汎文化的にあるし、進化的にも適応的だったと説くが、中尾はむしろ「促進的教育」の方が中心的だったのではないかと。

恥ずかしさの起源と進化 /木村大治

恥ずかしさについて、まず、社会や文化の進化を促す機能的価値があるのではないかと論ずる(ダサイものは恥ずかしい。恥ずかしくない方向へと社会・文化は進展していく)。これを「社会的な恥ずかしさ」
だが、それだけでは恥ずかしさは説明できない
ゴフマンなどの相互行為論で使われる「共在」という言葉を使って、共在が不全に陥った時に恥ずかしさがし生じるのではないかと論ずる。
そのうえで、相互行為論的に生まれた「恥ずかしさ」が前適応となって、社会的恥ずかしさが生まれ、適応価を高めていったのではないかと述べる。
「前適応」によって、社会生物学と相互行為論を共存させる。

オリジナルな起源 W・デーヴィスの「イメージ・メーキングの起源」論が問いかけるもの/佐藤啓

起源を求めると無限後退に陥ることがあるよねという話から、イメージをつくることの起源について
物質的には、洞窟壁画が起源だと考えられる。
これは、動物を模倣して描いたことから始まったのだろうと考えられるが、すると次に「模倣して描こうという意図」がどこから来たのかが問題となる。
デーヴィスは、ゴンブリッチの議論を参照する
ゴンブリッチは、星座に動物を見るように、洞窟の壁に動物を発見したことから始まったという「投射説」を唱えた。ただ、投射説では「投射されるイメージ」へとさらに後退してしまう
デーヴィスは、洞窟の壁が「~として見えた」のだと論じる。
この「~として見えた」は、物質には残らないが、そもそも何度起こってもよい。起源の反復。
この、デーヴィスの議論について、2014年の若手哲学研究者フォーラムで発表があったと注に書いてあった。そのフォーラム言ってないけど、予稿かなんかを読んだような記憶がうっすらとある。