網谷祐一『理性の起源』

サブタイトルには「賢すぎる、愚かすぎる、それが人間だ」とあり、人間の特徴として挙げられる理性について、一方では科学技術を発展させるなど「賢すぎる」側面がありながら、他方で、近年の行動経済学などで人間はどうもあまり合理的に行動しないようだということが明らかになったように「愚かすぎる」側面もある。
人間はなぜ理性をもっているのか
そして、人間の理性は何故「賢すぎる」面と「愚かすぎる」面をもっているのか
という問題を、進化論を手掛かりとして考えるという本。


筆者は、科学哲学、生物学の哲学を専門としており、この本も哲学の本として書かれている
しかし、本書には例えばカントなど著名な哲学者の名前は出てこない*1。一方で、進化生物学、心理学、霊長類学などの研究が次々と紹介されていく本になっている。
この本が何故哲学の本なのか、ということは序章で説明されているが、韓国の科学哲学者ハソック・チャンがクラウセヴィッツのフレーズをもじって言ったという「科学哲学とは「別の手段をもってする科学の継続」である」という言葉が引用されており、それの端的な答えになっているのだろう。


本書は、認知心理学などで提唱されてきた「二重過程説」を、人間の持つ理性の特徴を理解するために用いる。
また、「心的リハーサル説」をもとに、人間に独特のものと考えらえる理性が、どのような能力を基盤にし、進化を遂げてきたのかを論じている。
さらに、進化論的には説明しがたい「科学」についても、その認知能力の基盤から推論している。


心的リハーサル説が、結構色々と面白いなと思ったところ。
というのも、この心的リハーサル説が、さらにごっこ遊びと芸術、表象、協同性といったことと結びつけられて論じられているからである。
後半からぐいぐい面白くなっていく本だと思う。

理性の起源: 賢すぎる、愚かすぎる、それが人間だ (河出ブックス 101)

理性の起源: 賢すぎる、愚かすぎる、それが人間だ (河出ブックス 101)

序章 理性はなぜ進化論の問題になるのか
 1 なぜ理性なのか
 2 理性って何?
 3 理性はなぜ進化論の問題になるのか
 4 理性の起源がなぜ哲学の問題になるのか
 5 本書の構成

第1章 進化と理性の二つの問題
 1 五分でわかるダーウィン進化論の基礎
 (1) 自然選択の仮想例——シマウマの足の速さ
 (2) いくつかの注意
 2 自然選択説は人間行動をどう説明するか
 (1) つわりの進化
 (2) ストリップバーでのチップの額を進化から説明する
 3 理性が進化したと考えてよい二つの理由
 4 理性が進化したと考えるときに残る二つの問題

第2章 そもそも人間は理性的なのか
 1 論理・確率クイズ——なぜこんな問題を間違うのか
 2 人間はほんとうに理性的か——四つの回答

 〈ボックス? リンダ問題の亜種〉

第3章 理性は本当に進化で有利なのか
 1 理性は自然選択で進化する
 2 理性は自然選択で進化するとは限らない
 3 理性をモデル化すると……やっぱり理性は進化できる
 (1) どういうときに理性的に学ぶことが有利になるのか
 (2) 推論能力の進化をモデル化する

第4章 どのようなかたちの理性が進化したか
 1 人間はどのように理性的か——シンプル・イズ・ラショナル?
 
 〈ボックス?〉 〈テイク・ザ・ベスト〉ヒューリスティック
 
 2 それではシンプルすぎる 
 (1)ヒューリスティックスだけでは人間の理性は捉えられない
 (2)複雑な世界、あるいは駆け引きの問題
 3 一つの脳に二つの理性——二重過程説
 (1) 二つのプロセスの性質
 (2) 二重過程説への誤解——熟慮的理性を使うことがいつも正しいわけではない

 〈ボックス?〉 「理性」と「知能」の区別

 4 「熟慮的理性」の進化
 (1) 熟慮的理性の基盤としての仮定的思考
 (2) 心的リハーサル
 (3) 心的リハーサルの利益とコスト
 (4) 心的リハーサルの進化——ヒトと類人猿との共通点
 (5) ヒトと類人猿との相違点
  
 〈ボックス?〉 理性の議論説

 〈ボックス?〉ヒト=儀礼する動物?

第5章 科学を生み出した理性
 1 狩猟採集民の「科学的」思考
 (1) 推測的トラッキング
 (2) 擬人化による推論
 2 科学的推論の基盤
 
 おわりに

序章 理性はなぜ進化論の問題になるのか

理性には、「論理的思考」と「効用最大化」の2種類の用法があること
進化論による説明とはどのような説明なのかということ(至近要因と究極要因)
この本のような議論を何故哲学者が行っているのかということ
本書の構成

第1章 進化と理性の二つの問題

まず、進化論についての説明
次に、理性を進化論で扱うことについての説明
(1)人間の心も進化によって作られてきた(2)理性的であることは自然選択において有利に働いたであろう、という2点から、理性の起源は進化によって説明できるとする
また、加えて、理性(脳)の代謝的コストが大きいことも、(2)の証拠になるとしている
一方で、理性を進化論で説明する際の問題として
(1)理性が進化してきたのなら、人は何故これほど非理性的なのか
(2)理性が進化してきたのなら、人は何故これほど過剰に賢いのか
(1)について、具体例としてリンダ問題というものを紹介している。
「ここに学生時代には社会学を専攻し、反原発などの社会運動に関わってきたリンダという女性がいます。31歳になったリンダがどのような人になっているかについて、よりありえそうなのはどちらですか。(ア)彼女は銀行員である(イ)彼女は銀行員であり、かつ女性運動で活動している」この問いへの答えは(ア)である。なぜなら、(ア)が成り立っているとき(イ)も必ず成り立っているからである。しかし、この問題を出されると、多くの人は(イ)と答えてしまう。
(2)については、科学が例に挙げられている。例えば、アインシュタイン相対性理論のようなものを理解する能力は、少なくとも、人間の心が自然選択によって形作られてきたであろう、数万年前の祖先たちが暮らしていた環境で、有利になるように働いたとは考えにくい、ということである。

第2章 そもそも人間は理性的なのか

この章では、まず、先ほどのリンダ問題のように、人間が実はそれほど賢くないことを示すような心理学の実験がいくつか紹介される。
スパイ問題、推論の妥当性を判断させる問題(推論の妥当性と結論の真偽は関係ないが、結論が偽だと妥当ではないと判断しがち)、マイサイド・バイアス(身内びいき)、結論ありきの思考
こうした実験は、一体何を意味しているのか
4つの解釈が示される
(1)人は、論理法則などを使って推論していない。ヒューリスティックと呼ばれる推論上のショートカットを使っている。つまり、理性的ではない。
(2)実験デザインに問題があり、理性的かどうか、これらの実験からは判断できない
(3)自然選択は理性的なシステムを選択するのだから、そうはいっても理性的である
(4)ヒューリスティックを用いることは、実は理性的である。
まず、(2)の解釈について、例えば「四枚カード問題」のように、問題の出し方を変えると正解率が変わる実験がある。我々が日常生活などで実際に出会うような環境(これを「生態的」と呼ぶ)であれば、人間は理性的に考えられるが、実験による人工的な環境では能力をうまく発揮できない、というものである。
ところが、これに対して、正しい答えや考え方を教えても、なお元の答えに固執する傾向がある、という証拠が、反論として出されている。
(3)は、別の証拠を出すことで、これらの実験から言えることを打ち消すという戦略で、第3章で検討される。
(4)は、第4章で検討される。

第3章 理性は本当に進化で有利なのか

理性は自然選択によって進化してくるのか
まず、デネットクワインは、自然選択で進化してくる、という立場をとっている。
これに対して、スティッチやシュタインは、これを批判している。
いくつかあるのだが、特に詳しく説明されているものとして、スティッチの「転ばぬ先の杖論法」がある。
誤った信念を生み出すシステムの方が適応度が高くなる、というものだ。
キノコを見つけて食べるかどうか判断しなければならない、とする。
理性というのが、学習や推論によって真なる信念を生み出すものだとすると、このキノコについても、無毒か有毒かを判断するようなシステムが、理性的だと言えるだろう。
しかし、「これは食べられるな」と思っても、それが間違っていて死んでしまうこともありうる。
それより、そのキノコが無毒だろうか有毒だろうか「毒だから食べられない」としてしまった方が安全である。キノコが無毒だった場合、「食べられない」という信念は偽だし、その結論に至る経緯も合理的ではないが、こちらの方が適応度が高くなるだろう。
本書では、ゲーム理論の利得表が示されて説明されている。
なお、スティッチについてはスティーブン・スティッチ『断片化する理性』 - logical cypher scape


このようなスティッチやシュタインの議論に対して、しかし、筆者は、ゴッドフリー=スミスが作ったモデルを紹介しながら、スティッチらによる批判は、「理性的なシステムは絶対に進化しない」ということではないことを示す。
ゴッドフリー=スミスは、先ほどのキノコの事例に、「実際は毒があるのに誤って「毒なし」と考えてしまう確率」と、「「毒あり」と「毒なし」というふたつの信念の重要度」という概念を導入する。
このモデルからは、学習によって行動を変えるときの利得と、最初から「毒あり」と決めつけて行動するときの利得を比較する式が得られる。
条件によっては、前者の方が高くなる場合があり、そのような場合は、理性が進化しうると考えられる、というわけだ。
どのような条件かというと、「環境からの手がかりが信頼できること」と「環境が変異すること」である。
前者だが、手がかりが信頼できなければ、学習しようがない。
後者は、毒ありと毒なしのキノコが環境に同じ割合であるということである。もし、圧倒的に毒ありが多ければ、最初から決めつけていた方がよい。
なお、このゴッドフリー=スミスのモデルについては、単純すぎるがゆえの問題点が、ソーバーから指摘されていることも付言されている。


この章ではさらに、スカームズによる、演繹的推論が進化してくる場合のシミュレーションというのも紹介されている
これは、ルイスが言語的規約はナッシュ均衡によって生じると論じたことを受けて、この議論の弱点を補完したものらしい。


ところで、この章の議論は、主にゲーム理論的な話題を中心にしているが、登場してくる学者はみな哲学者である。

第4章 どのようなかたちの理性が進化したか

1 人間はどのように理性的か——シンプル・イズ・ラショナル?

進化心理学者のギレンツァは、ヒューリスティックスを使うことこそが理性的であるという
ギレンツァはこれを「生態学的理性」と呼ぶ
これはまた、サイモンの「限定合理性」とも関係している
少ない情報からそこそこマシな判断をする、という点で、ヒューリスティックスの使用は理性的なのだ、ということである

2 それではシンプルすぎる

ヒューリスティックスにはいろいろな種類があるけど、では問題に応じてどのヒューリスティックスを使えばいいのか、という問題がある
さらにそれ以外に、人類は生息域を拡大しつづけた生物で、それだけ多様な環境に適応したということで、ヒューリスティックスだけで対応できるのかという問題
そして、人間同士の社会的環境においては、さらに適応すべき環境が複雑になるという問題がある→ステレルニーは「不透明な環境」と呼ぶ

3 一つの脳に二つの理性——二重過程説

80年代以降、認知心理学などで広まった「二重過程説」
「システム1」と「システム2」 の2種類の心的プロセスがあるという説
(本書では、システム1を「直観的理性」、システム2を「熟慮的理性」と呼び変える。ヒューリスティックスは直観的理性)
システム1は、無意識的、自動的、低エフォート、処理速度速い、ほーりスティック、進化的に古い、モジュール的認知、文脈かされている、ステレオタイプなどの特徴がある
システム2は、意識的、コントロールされている、高エフォート、処理速度遅い、分析的、進化的に新しい、流動的知能、抽象的、平等的などの特徴がある
社会心理学やリスク心理学における、二重過程説の事例がいくつか紹介されている
また、最後に、いつでも熟慮的理性が正しいというわけではなく、直観的理性が正しいときもある、という注意もなされている

4 「熟慮的理性」の進化

(1)仮定的思考
熟慮的理性の基盤には仮定的思考がある
一次表象とは別に、想像によって二次表象というものをつくる
一次表象は行動へつながるが、二次表象は想像なので現実とは切り離されている=認知的デカップリング
仮定的思考は、ワーキングメモリのリソースを大量に消費すると考えられる


(2)心的リハーサル
心的リハーサルとは、仮定的思考とよく似たものとして議論されている、人間特有の認知
哲学者のピーター・カラザースや心理学者のトーマス・ズデンドルフ
シミュレーションを行う能力
ex.)メスのチンパンジーであるベルが、自分のえさの隠し場所がオスチンパンジーにばれないように、一度違う場所を掘り返すふりをしてから、正しい場所へ行く。この時、ベルは、違う場所に行ったらどうなるか、というリハーサルを心の中で行っている。
行動スキーマが、脳内の視覚システム(腹側視覚系)を刺激して、これが他の脳内モジュールに伝えられて……というメカニズムが説明されている(カラザース)
また、心的リハーサルを、「ワーキングメモリ」を「舞台」に、「リハーサルの帰結として出てくる欲求と他の欲求との比較・調整」を「プロデューサー」になど、劇に喩えて説明するものもある(ズデンドルフ)


心的リハーサルの利益として
一つには解決能力の向上があげられるが、
もう一つに、カラザースは、創造的思考をあげており、さらにそのカギが「ごっこ遊び」だと述べている
ごっこ遊びを、心的リハーサルと同型のものだとする
カニズムは同じような感じだが、行動スキーマや欲求の心理的距離が、ごっこ遊びは心的リハーサルよりも距離が大きくなっている。心的リハーサルは、現在の信念や現在持っている欲求を出発点なりなんなりにしているが、ごっこ遊びは必ずしもそういうわけではない。
ごっこ遊びは、心的リハーサルをベースにしつつ、心的リハーサルよりも自由度が高い
心的リハーサルのコストは、ワーキングメモリの消費


「いま・ここ」に縛られない表象能力
→ヒトだけでなく、ラットやチンパンジーも持っている。また、幼児にもある(対象の永続性)


プランニング能力
餌を隠しておいてあとで食べるとか、プランニング能力自体は、ヒト以外の動物にも見受けられる
だが、チンパンジーのプランニング能力にも限界はある→抑制を欠く(=現在の欲求を抑えきれない)
チンパンジーに行った実験。4つのキャンディーの入った皿と2つのキャンディーの入った皿。指さした方の逆のキャンディーをもらえるというルール。だから、4つのキャンディーをもらうためには、2つのキャンディーを指ささないといけないのだが、実験対象となったチンパンジーは、4つのキャンディーを指さしてしまう
ところが、数字を示した場合は、問題なく「2」の方を指さした
これは、シンボリックな記号とアイコニックな記号の違いではないか、と
シンボリックな記号は、アイコニックな記号よりも、心理的距離が大きい


ごっこ遊び・お絵描きの規範性と集団的志向性
ヒトとチンパンジーの、心的リハーサルの違いとして、ヒトの方が、ごっこ遊びの頻度が多いというものがある
さらに、ヒト(の子供)は、ごっこ遊びを「〜すべし」という規範の点から理解している
ヒトとチンパンジーの能力の違いとして、絵についての能力がある
顔の一部(目など)が欠けた絵を見せると、ヒトの子どもは、目がないことを指摘し、その欠損を埋めるように自発的に描き足すが、チンパンジーにそのような行為は見られない
これは、ごっこ遊びの規範を理解していることと同様「ここには目があるべき」と理解しているのではないか、と筆者は指摘している。
また、規範性の議論として、心的リハーサルやごっこ遊びなどとは直接関係ないが、トマセロによる「個人的志向性」「共同的joint志向性」「集団的collective志向性」の議論を紹介している

〈ボックス?〉 理性の議論説

マルシェルとスペルベルが提唱した説
理性は、相手を説得するために進化したのではないか、という説
人間には「自分に甘く、相手に厳しく」というバイアスがある
他人との議論を行うとき、人間の推論能力は特に発揮されるという指摘もある
このバイアスは、よくないもののようにも思えるが、集団レベルで見ると、集団内でいろいろな方向から議論され、検討されるということになるので、有利なのではないか、と

〈ボックス?〉ヒト=儀礼する動物?

儀礼とごっこ遊び
過剰模倣

第5章 科学を生み出した理性

科学を生み出すような理性は、進化によって生まれるのか、という問題
哲学者のカラザースは、狩猟採集民族としての人間の祖先が進化によって獲得した能力と、科学を遂行するための能力が、ある意味では同じだという
それは、獲物をトラッキングする能力である
足跡などの証拠を観察し、そこから観察できないものを推論する、という点で獲物をトラッキングする能力と、科学のための認知能力は共通している、と
ラッキングと科学では、もちろん違いもあるので、まるっきり同一というわけではないが、科学する能力の背後にあるのではないか、と
また、カラザースは述べていないが、筆者の考えとして、狩猟のための推論と科学的推論のあいだには「擬人化」という共通点があるのではないか、と述べられている
科学と擬人化、というと不思議な感じだが、化学者がタンパク質の構造に「なりきって」推論しているなど、自分が対象になりきって考えている、という例が、科学人類学では報告されているらしい
仮説をたて、その仮説を受け入れるかどうか判定するが、そのための規準というのも、他人の証言を受け入れるときの規準とよく似ていて、科学以前から、人間には科学のための能力の基盤があるのだ、と
ところで、これに対して、社会的・文化的要因を重視する反論もある。例えば、科学は西欧世界で生まれたローカルな体系に過ぎないのではないか、と。
カラザースは、これに対して、技術が世界各地で見られることを反論として挙げている。

*1:哲学者の名前自体は出てくるが、まあ一般的に著名な人はあまり出てこない