スティーブン・ピンカー『心の仕組み』

ちくま学芸文庫になったのでそっちの方で読んだ。
心の科学についてまとまって読める。
すなわち、認知科学(心の演算理論)と進化生物学(自然淘汰による進化論)が合体した進化心理学による、心の説明である。
心は進化によってデザインされた演算装置であるというのを筋として、多くの研究を紹介している。だから、ピンカー自身の研究について書かれているというのではなく、心の科学に関する様々な分野の研究が次々と出てくる。もちろん、心理学が中心ではあるが、人類学などもよく出てくる。そういう意味で、教科書的な本ともいえる。
また、この本はいわゆる「左翼」からの反論を想定していて、人間の心はタブラ・ラサで経験によって(社会や文化に相対的に)形成されるものだという考えへの反駁と、科学的判断と倫理的判断は分けて行うようにという注意を再三している。例えば、男性は女性に対してレイプなどの暴力をふるいやすい傾向があるというのは、生物学的に人間を見たときに判明する事実だが、それに対して「レイプを肯定するつもりか」という「左翼」からの批判というのがありうる。むろん、そのような行為をする傾向がある、そのようにするように脳が作られている、あるいはそのような行為を促す遺伝子があるといった主張は、そのような行為をすべきである、推奨されている、善いことであるといった主張を含意していない。また、そのような行為に対する何らかの弁護になるものでもない。



全部で8章の構成になっている。
1章はイントロ、2、3章はいわば理論編で、心の演算理論と進化論についてそれぞれ説明している。
4章は視覚についての章で、視覚も心の働きの一種であるともいえるが、続く章のチュートリアル的なものともいえる。5〜7章では、特徴的な人間の心の働きともいえる、推論能力、情動、人間関係についてそれぞれ解説されている。最後の8章もまた、人間に特徴的な働きについて触れているが、5〜7章とは違い、それらは進化的に適応ではないと論じている。それらとは、芸術や哲学のことである。


内容については、長くなるのでまとめはしないで、ざっと感想
2章、心の演算理論について
チョムスキーやフォーダーの心のモジュール仮説、心的言語説が前提となっている*1
一方ここで、コネクショニズム認知言語学的な考え方も紹介されている。ここらへんのピンカーの姿勢というのがいまいちよく分からなくて、明らかにこれらに対して全肯定ではないのは確かなのだけど、部分的には受け入れている感じがする。
それから、サールの中国語の部屋に対する反論も載っている。これ、半分くらいはピンカーに賛成できるんだけど*2、半分くらいは賛同できない。サールは、表象と外界との結びつきは、プログラムからは生じないって話をしていると思うのだけど、ピンカーは表象と外界は、当然因果的に結びついているという前提があるから、話噛み合ってない気がする。心の哲学的にはそこ問題なんじゃないの、と思うけど、ピンカーは前半の方でかなりさらっとその話は流してしまっている。
心の哲学にはあまり興味ないんだろうなあ感はある。
次いで、意識についてもさかれている。ここは、ジャッケンドフとブロックによる整理をひっぱってきているのだけど、よくまとまっていてとてもよい。意識のハードプロブレムは全然解けてないってあっさり認めているのもよい。


3章、進化理論について
生命をこれだけうまくデザインできるのは自然淘汰だけであり、それ以外の説が不十分であることを示す。例えば、ラマルク説、突然変異説遺伝的浮動説、複雑系である。
昆虫の翅がどう進化したかの話や、進化と学習が互いに互いを導く場合がある話とか面白かった。
円城塔の「内在天文学」に出てきた「認知的ニッチ」という言葉も出てくる。人間の認知システムが、何かに特化したものではなく汎用性のあるシステムになったのは何故かという話
それから面白かったのは、いわゆるミッシング・リンク説への批判というか、ミッシング・リンクに見えるような空白は、発見された証拠が少ないというか、便宜的に種とするときに近い方に統合しちゃうから空いてるように見えるのであって、実際そうでもないはずという話
あと、ミーム批判。ミームは進化より疫学じゃねとか。


5章、推論の話
カテゴリーわけの話とか統計の話とか
カテゴリー、分類のあたりの話は、三中さんの本とか思い出して、読んでて盛り上がったw
あと面白かったのは、人間は空間的なメタファーを色んな概念に転用していて、実は抽象的な思考なんてしていないんだという話



6章と7章は分量的には長いんだけど、わりとつるつるっと読める
この本のメインどこで、個々のエピソードとか色々あって面白いんだけど、ぱっとまとめようとするとちょいむずい。
情動が不随意的なのは、シグナルとしての信頼性を高める手段。



8章は、有名な「聴覚のチーズケーキ」が出てくる章。
ここまでの章では、人間の心にそういう機能なりなんなりが備わっているのは、適応的だからだと説明されてきたわけだけど、ここでは一転して、適応的ではないものについて取り上げられる。
すなわち、芸術、宗教、哲学である。
芸術、特に絵画とか音楽とかは、適応のもたらした副産物である、と。チーズケーキが美味しいと感じるのは、チーズケーキを美味しいと感じることが適応的だからではない(人類が進化してきたアフリカのサバンナにチーズケーキはないわけだし)。糖分とか油分とかを感知する能力が適応的で、そういった能力があることをうまく利用して、美味しく感じるように作られたのがチーズケーキ。絵画や音楽も同じ。絵画や音楽を作ること自体が適応的だったのではなく、適応的な色々な能力を使って心地よく感じるものを(副産物として)作ったのが芸術。
哲学や宗教については、色々と人間にはよく分からないことがあって、それを説明するために作り出されたものなんだけど、人間の持っている認知・推論能力は、哲学的・宗教的問題を解明するようにはデザインされていないので、それらの問題は多分解けない。

*1:ただ、彼らの名前は直接本文には出てこない。また、Wikipediaによると、ピンカーはフォーダーに強く影響を受けているが、フォーダーはピンカーに対して批判的らしくて、ちょっとそこらへんの詳しい事情はよく分からない。確かに、09年版の序にフォーダーから批判され再反論した旨が書かれている

*2:サールの出してる代案がよくないという点で