キム・ステレルニー『進化の弟子 ヒトは学んでヒトになった』

サブタイトルにあるとおり、ヒトのヒトたる特徴がどのように生まれてきたか、についての本
キーワードの一つは「徒弟学習apprentice learningモデル」である。
徒弟が親方から技術を盗んで覚える、という学習スタイルによって、ヒト族は知識や技術を伝達し、蓄積し、増やしていった、というモデルである。
本書の原著タイトルは、The Evolved Apprenticeであり、そのまま訳せば「進化してきた徒弟」となるのかな、という感じもする。
また、「ニッチ構築」や「正直メカニズム」などもキーワードだろう。
「徒弟学習モデル」を可能にするのは、ニッチ構築という環境構築能力である。ヒトの進化というのは、個体の認知能力が向上するというだけでなく、環境や学習との共進化ないしフィードバックループであったのだ、というのがステレルニーの主張の一つである。
また、こうした学習と関係するのが、ヒトの協力行動であり、また、協力行動というのは、他の動物と違うヒトの特徴でもある。協力の進化について論じられる際、裏切り検知に着目して論じられることが多いが、ステレルニーは、正直に協力する方がよかったのだというようなことにむしろ力点を置いているようである。
本書はもう一つ、主張があり、それは「鍵革新」という考え方への批判である。
ヒトの進化は、何か一つの「鍵革新」が成し遂げられたことにより、他のあらゆる能力(知性や協力行動)が生じていったという考えを、ステレルニーは批判する。様々な現象が同時代的に起きて、それぞれが正のフィードバックを起こして、進化は進んでいったのだとステレルニーは考えている。


キム・ステレルニーは、進化心理学者や人類学者、考古学者というわけではなく、哲学者であり、この本を「自然の哲学」と位置付けている。
ただし、「自然の哲学」を「科学の哲学」とは区別しており、自然科学ないし経験科学とより連続的なプロジェクトにあるだろう。
本書は、古人類学や考古学の知見などが取り入れられている。
かなり広範な議論を取り扱っているので、なかなか難しいし、独特の本ではあると思う。
独特といえば、訳者解説によると、ステレルニーは見た目も独特で、伸び放題の髪と髭に隻眼で、あたかも海賊のような風貌らしい。


ジャン・ニコ講義セレクションの本読むの、何気に初めてな気がする

進化の弟子: ヒトは学んで人になった (ジャン・ニコ講義セレクション)

進化の弟子: ヒトは学んで人になった (ジャン・ニコ講義セレクション)

序文と謝辞

第一章 新奇性という難題
 1 はじめに
 2 社会的知性仮説
 3 協力的採食
 4 協力的採食と知識の蓄積
 5 変化する世界での生活

第二章 認知資本の蓄積
 1 社会的学習の系統的説明
 2 フィードバックループ
 3 徒弟学習モデル

第三章 適応した個体と適応した環境
 1 現代人的行動
 2 記号的種
 3 公的な記号と社会的世界
 4 情報の保存と拡大
 5 ニッチ構築とネアンデルタール人の絶滅

第四章 人間の協力行動様式
 1 協力の引き金
 2 協力複合体
 3 おばあちゃん仮説
 4 採食者――古代と現代
 5 狩猟――食糧調達か、信号発信か

第五章 コストとコミットメント
 1 フリーライダー
 2 制御とコミットメント
 3 コミットメント・メカニズム
 4 信号、投資、干渉
 5 狩猟とコミットメント
 6 投資を介したコミットメント
 7 太古の信頼

第六章 信号、協力、学習
 1 スペルベルのジレンマ
 2 文化的学習の二つの顔
 3 正直メカニズム
 4 人は教育者である

第七章 技能から規範へ
 1 規範と共同体
 2 道徳生得説
 3 自制、警戒、説得
 4 反射的な道徳反応と反省的な道徳反応
 5 道徳を学ぶ徒弟
 6 道徳発達の生物学的基盤
 7 文化的学習の拡張

第八章 協力と対立
 1 集団選択
 2 強い互恵性と人類の協力
 3 衝突の産物なのか
 4 完新世――思っていたよりも奇妙な世界なのか


訳者解説
文献一覧
事項索引
人名索引

第一章 新奇性という難題

本書全体を概観するような章
ヒトの祖先は、新奇な環境・問題に対応してきたが、それはモジュール仮説では説明できなくて、ヒトの個人的認知能力と環境との相互作用、フィードバックループという説明によって説明できるのだ、と
で、そのために、様々な協力行動が大事

第二章 認知資本の蓄積

ここでは主に「徒弟学習モデル」について
大雑把にいえば、弟子が親方をやっていることを見て学習するというようなこと
明示的な教育制度というものがなくても、社会的学習というものが成り立つ
また、親方側にもメリットがある。つまり、簡単だが手間がかかるような作業は弟子にやらせる、ということができる。弟子は、その代わりに親方が蓄積してきた技術・知識を習得することができる。
徒弟学習は、学習するための環境が用意されているという特徴があって、環境に知識が蓄積されている(前の世代が作業しやすくするためにした工夫など)。次の世代(弟子)は、そこで知識を習得して始めることができるので、認知資本を蓄積して改良していくことができる

 

第三章 適応した個体と適応した環境

ホモ・サピエンスの「現代人的行動」が現れた時間的な謎と、ネアンデルタール人絶滅の謎についての説明を試みる章
ホモ・サピエンスという種が現れたと考えられる時期と、彼らが「現代人的行動」というものを取り始めたと考えられる時期とは、ずいぶん離れている。
この「現代人的行動」を取り始めたことを「大躍進」などと呼んだりする*1
ステレルニーは、記号の使用に着目しすぎるのがよくないのではないか、というようなことを書いている。
記号の使用を始めることによって、何か色々なことができるようになった、というわけではなく、むしろ、集団の大規模化の結果として、記号の使用があるのだ、と
現代人的行動のために、知識の忠実な伝達と拡大が必要で、そのためには、集団がある程度以上大規模である必要がある。
集団の拡大と知識の蓄積といったことが、正のフィードバックループを起こして、ヒトをヒトにしていった、というような説である。集団によって知識の伝達・蓄積が起きる、というのは、徒弟学習モデルが前提とされている。
ネアンデルタール人の絶滅については、むしろ、同じフィードバックループが、負の効果を与えたものだと、説明する。
サピエンスとネアンデルタールに、大きな認知的能力の差異があったわけでもなく、また、他の間氷期の哺乳類などが氷期になって絶滅したのと同様に、ネアンデルタール人が絶滅してしまっただけ、とも考えない。
同じように、集団を構成して知識を蓄積させるような仕組みを持っていたけれど、局地適応してしまったせいで、寒冷化において、集団規模が減ってしまい、一度規模が減ってしまうと、知識を蓄積できず、どんどんじり貧になったのでは、というような話

第四章 人間の協力行動様式

4〜6章は、協力について
ステレルニーは、ヒト族において、繁殖協力、生態協力、情報協力、共同防衛など様々な協力行動が同時多発的に始められて、それぞれが共進化していったと考えている
どれか特別な「鍵革新」があって、それが引き金になって他の行動が始まった、という考えを批判する。
この章では「おばあちゃん仮説」と「狩猟は信号発信説」とが批判されている。
前者の「おばあちゃん仮説」は、おばあちゃんによる援助を、ヒトの進化において重要なポイントとみる説である
ステレルニーは、穏健なバージョンであればこれを認める(おばあちゃんによる援助は、様々な協力の中の一形態としてあっただろう)が、これが中心的な役割を果たしたという考えは否定する
「狩猟は信号発信説」は、狩猟が、経済的活動・食料調達活動だったわけではなく、コストのかかる信号であり、自分に高い資質があることを示すために行われたという説である
これに対して、狩猟は経済活動となっていたし、また、狩猟は集団で協力して行われていて、個人間の差異はあまり見られず、信号足りえないとする。
この話は、次の章の、コミットメントの問題につながっていくだろう・
 

第五章 コストとコミットメント

協力の問題について、一般には、裏切り検知の話が中心になされることが多いが、ステレルニーは、協力の制御が大事で、そのためには、コミットメント・メカニズムについて説明する必要がある、と
狩猟を行うことは、コストのかかる信号で、ハンディキャップ原理にかかるものではないかという考えに対して、狩猟に参加することは、ハンディキャップ信号ではなくコミットメント信号なのである、という話
狩猟への参加だけでなく、例えば、入れ墨彫るとかすると、どのグループに所属しているのかとかが分かるようになるので、グループを裏切らないこと=コミットメントを示す信号になるのだ、と
コミットメントを示すためにはコストを支払うことになるけど、それは、ハンディキャップ的なコストではない、というような話がなされる

 

第六章 信号、協力、学習

協力には、裏切り・フリーライドの脅威がある。スペルベルは、裏切り・フリーライドに警戒するためにメタ表象・素朴認識論が進化してきたと考える
ステレルニーは、協力には確かにそういう側面があることを認めるが、一方で、そういうリスクの少ない協力というのもあって、そういう協力しやすいところから協力が始まっていったのではないか、と考えている。
例えば、情報共有は、協力の一形態であるが、生態協力などと比べて協力のリスクが少ない。情報というのは一度共有されると、グループ全体がその恩恵を受けるので、分け前の分割などという問題が生じないから。
また、フリーライドや欺きなどは、どのような経路を通じて情報が伝達されるかによって大きく異なってくる。お互いが顔見知りでずっと生活を共にしている集団の場合、嘘や隠し事はバレやすくなるだろうし、また、多対多のネットワークで情報が伝わる場合、欺くのは難しくなる(評判・ゴシップは、多方面から伝わってくるので、それら全てをコントロールするのは難しい)
正直でいることが、実は一番コストが低い。何かについて知っているふりをしようとすると、余計なコストをかけなければならない。
社会的学習と情報共有は、共進化の関係にある。社会的学習をするためには、様々な伝達経路から伝わってくる情報を忠実に送受信しないといけない。
 

第七章 技能から規範へ

道徳についての話
道徳について、チョムスキーやピンカーの言語生得説的に、道徳も生得的であるという説があるが、ステレルニーは、いや、言語と道徳は違うよね、という話をしている
統語論は、習得しているのに、自分がどういう原理に従っているのか説明できない、という特徴があるけど、道徳については、習得していれば、自分がどういう原理に従っているかある程度は説明できる、とか
ステレルニーも、道徳に生物学的基盤があることは認めるが、それは、道徳特有のものではなく、一般的な認知能力

 

第八章 協力と対立

この章では、行動様式についての集団選択の可能性について論じている。
進化における選択の単位として、個人か集団かという問題
協力行動は、個人選択では説明できないというボウルズとギンタスの考えを、批判し、協力は、個体の選択でも進化しうることを論じている 。
ステレルニーは、更新世完新世の違いについても論じている。
まず、更新世について、不安定な環境にあったことが確認される。
採集生活をしている小集団が、局所的な安定の中で生活し、また他集団とも相互作用しているが、採集民の場合、敵対関係よりも友好関係の方がメリットが大きい。
採集民は移動生活をしているので、他の集団を襲撃して奪っても、コストやリスクの方が高くつくし、変動の大きい環境においては、協力しあって、もしもの時に資源を融通し合った方がメリットが大きい、と。
むしろ、完新世になって、農耕が始まると、他集団を襲撃して奪うということにもメリットが出てくる。
ここでステレルニーは、しかし、そもそも農耕が始まって何故協力ができたのか、というのが謎だという。一部の階層に資源が集中し、不平等が生じるようになると、協力は個体の適応度を下げてしまうのではないか、と。
もしかしたら、こういう状況では、集団選択が効いたかもしれないけど、いずれにせよ、これはまだよくわからない、という感じでしめている。


*1:あるいは『サピエンス全史』でいうところの「認知革命」か