スティーブン・ミズン『心の先史時代』

スティーヴン・ミズン『歌うネアンデルタール』 - logical cypher scapeの著者による、認知考古学の観点から人類の心の進化について論じた本。
本書のポイントとなる概念は「認知的流動性」であり、これは『歌うネアンデルタール』でも出てきたものだが、そちらではあまり詳しい解説はされていなかったのと、芸術や宗教の起源についても関わるということだったので、読んでみることにした。
ちなみに、『歌うネアンデルタール』は2006年、本書は1998年(原著は2005年と1996年)の著作。今からすると、古くなってしまった部分もあるが、ストーリーとしては面白い。
もうひとつ、ちなみに、著者の名前である「ミズン」だが、実際の発音は「マイズン」らしい。


認知考古学とは一体何なのか、ということで、ちょっと検索していた時に以下の記事を見つけた
http://kokoro.kyoto-u.ac.jp/cgi-dir/wiki/index.php?%B9%CD%B8%C5%B3%D8%A4%CB%A4%AA%A4%B1%A4%EB%A4%B3%A4%B3%A4%ED%A4%CE%CC%E4%C2%EA%A1%A7%C7%A7%C3%CE%B9%CD%B8%C5%B3%D8%A4%CE%C4%A9%C0%EF
これによれば、考古学の歴史において、1960年代に既存の考古学を批判する形で「プロセス考古学」というものがでてきて、これは客観的・科学的であることを目指し、心や意味とかは扱わなかった。それが、1980年代になって「ポストプロセス考古学」がでてきて、意味や象徴についても考えた方がいいとなって、社会学構造主義哲学に依拠するのがでてきた。で、さらにその後に、認知科学の知見を利用しながら、考古学でも心について扱おうということで出てきたのが、認知考古学という流れらしい。


さて、マイズンは、フォーダーのモジュール仮説などをベースにおいて、心の進化についての仮説を提示している。そして、考古学的な資料によってその仮説をサポートしている。
哲学者フォーダーや心理学者ガードナー、進化心理学から、人間の心が、汎用知能というわけではなく、目的別に特化された知能の組み合わせによって作られているのだろう、とする。
さらに発達心理学の教えるところによれば、人間は、2歳までは、そのような特化された知能という形でモジュール化されておらず、さらに、モジュール化するだけで発達は終わらず、モジュール間が結びつくことによって完成する。
「個体発生は系統発生を繰り返す」を前提において、このような人間の幼少期における心・知能の発達と同様の流れが、進化史においてもあったと考える。
より具体的にいうと、
まず、汎用に使われる「一般的知能」があった。
次に、特化された知能として、「技術的知能」「博物的知能」「社会的知能」と「言語知能」が成立してくる(これらのうち前者3つは、発達心理学において言われるところの「直観物理学」「直観生物学」「直観心理学」に対応している。言語が、特化された=モジュール化された知能によって担われているというのは、もちろんチョムスキー=フォーダーからきている)。
それから、これらの知能のあいだにつながり=「認知的流動性」が生まれる。
これが、マイズンの主張する、心の進化についての仮説である。
そして、第5章以降では、考古学的な証拠からこの仮説について検討していく。
人類史を、大きく4つの時期にわけて、これら4つの時期について、「一般的知能」「技術的知能」「博物的知能」「社会的知能」「言語知能」「認知的流動性」がどうなっていたのかを見ていくのが、5〜8章となっている。


マイズンの仮説は、シンプルであり、また適用される範囲が広い。そのため、とても分かりやすくて、面白い。だからこそ逆に、本当にそうなのかというのが気になってくるところである。
大まかなストーリーとしては、そもそも心理学によるところも大きいし、おおむね間違いないだろう。
で、やっぱり「認知的流動性」ということで重要なのは、ネアンデルタール人ホモ・サピエンスとの違いだろう。
ネアンデルタール人は、脳の大きさなどについては、ホモ・サピエンスと大差はない。しかし、その行動様式などには差が見られる。
本書では、こうした違いが解明すべき謎として捉えられ、認知的流動性の有無によって説明が与えられている。
議論があるとすれば、やはりこのあたりなのではないだろうかと思われる。
違いというのは大体が、ホモ・サピエンスにはあるのに、ネアンデルタール人にはないものとして挙げられており、これらについてはそもそも証拠が不十分なのではないか、という反論がありうる(保存状態が悪いので証拠が少ないという反論に対して、マイズンは、十分保存状態のよいものも発見されていることを挙げてさらに反論している)。
このあたりのことって、この本が出てから現在までの15〜20年くらいの間でどれくらい進展したのか。勉強不足でいまいちよく分かっていないのだが。
例えば、つい最近見かけた、人類最古の「落書き」か:50万年前の貝殻にヒトが付けた「刻み模様」|WIRED.jpによれば、ホモ・エレクトゥスが意図的に貝殻に模様をつけていた、とか。
これについての評価は分からないけれど、色々な年代は、この本から書かれたことより古くなっているのは確かっぽい。
最古の人類について、600万年前とあるけど、700万年前になっている。
それから、『日経サイエンス 2014年12月号 大特集:人類進化今も続くドラマ』 - logical cypher scapeを見ると、やっぱり、ホモ・サピエンスは途中で、爆発的に進化するタイミングがあったみたいだけど、それがこの本では4〜6万年前になっているけれど、日経サイエンスの記事だと、7〜8万年前になっている。
ネアンデルタール人の文化についてはよくわからないんだけど、ホモ・サピエンスと混血してたと言われるようにはなってる。


第1章 なぜ考古学者が人間の心について問うのか
第2章 過去のドラマ
第3章 現代人類の心の基本構造
第4章 心の進化についての新しい説
第5章 猿とミッシング・リンクの心
第6章 最初の石器を作った人間の心
第7章 初期人類の心における多様な知能
第8章 ネアンデルタール人のように考えてみる
第9章 人間の文化のビッグバン――芸術と宗教の起源
第10章 ではそれはどのように起きたのか
第11章 心の進化
エピローグ 農業の起源

第2章 過去のドラマ

人類史を4幕にわける

  • 第1幕

600〜450万年前、ミッシング・リンクないし共通祖先の時代

  • 第2幕

450〜180万年前、アウストロラピテクスからホモ・ハビリスの時代

  • 第3幕

180〜10万年前、ホモ・エレクトゥスなどの時代、15万年前からネアンデルタール人も出てくる

  • 第4幕

10万年前〜現代、ホモ・サピエンスの時代。

第3章 現代人類の心の基本構造

心を、「汎用プログラム」のようなものではなく、「スイス・アーミー・ナイフ」のようなものとして捉える
前者はピアジェ(考古学者のトマス・ウィンが依拠していた)
後者は、以下の通り

  • フォーダーの「モジュール」説

ただし、モジュール化されているのは入力系で、中枢系はそうではなくて、どうなっているのか分からないとした。ここが「類推」などをになう

  • ガードナーの「複数知能説」

フォーダーとは違って、入力系と中枢系は区別しない。また、複数の知能が相互作用する。この相互の乗り入れが、「比喩や類推」を可能にする

内容込みのモジュール


進化心理学者の議論は強力だが、人類の類推や比喩の能力などはどのように説明可能なのか
発達心理学
人間には、言語、心理、生物、物理について直観的知識を持っている=進化心理学の内容込みのモジュール
グリーンフィールド:2歳までは、汎用知能が働いていて、モジュール化していない
モジュール化は、発達の一段階。モジュール化のあとが何かあるのか
カーミロフ=スミス:発達につれて、モジュールは一体になって動きはじめる
スペルベル:人類は「メタ表象モジュール」を進化させた

第4章 心の進化についての新しい説

第一期:汎用知能の心
第二期:特定の領域に特化された複数の知能の心
第三期:複数の特化された知能が一体化して働く心


以下では、汎用知能を「一般的知能」と呼ぶ
また、特化された複数の知能については、発達心理学において、直観心理学、直観生物学、直観物理学と呼ばれていたものをそれぞれ、社会的知能、博物的知能、技術的知能に言い換える。さらに、これに言語知能が加えられて、4つの特化された知能が想定される。
これらの知能が連携することを「認知的流動性」と呼ぶ
認知的流動性は、各知能間の壁が取り壊されたか、もしくはスペルベルがいう「メタ表象モジュール」のような、複数の知能をとりまとめる知能が現れたのかもしれない。


マイズンは、ここで教会建築を比喩として使っていて、一般的知能を「広間」、各種の特化された知能を「礼拝堂」、メタ表象モジュールを「スーパー礼拝堂」とも呼んでいる

第5章 猿とミッシング・リンクの心

人類と猿との共通祖先の頃の時期の心について、考古学的な資料はほとんどないので、チンパンジーの研究から見ていく。チンパンジーは、チンパンジーと人間との共通祖先とそれほど変わっていないと考えられる。
一般的知能ではなく、特化した知能を持っているか。

  • 技術的知能

チンパンジーも確かに道具を作るが、それは試行錯誤による学習のような一般的知能によるものであって、特化された知能ではないのではないか
チンパンジーの道具使用は地域によって違う→チンパンジーにも人間のような文化がある証拠としてよく使われる→人間の文化は、共通のことの様式の違い(フランスのベレー帽とイギリスの山高帽、どちらも帽子はかぶる)、チンパンジーの地域差は、偶然そこにいたチンパンジーがそのやり方を発見できたかどうか
「猿真似」というが、実は猿は真似ができない

  • 博物的知能

狩猟行動から考える→はっきりとはしない。心の地図を作るための大量の情報処理は行っているようにみえるが、十分に発達した博物的知能はまだ持っていない

  • 社会的知能

社会的知能は、他の個体の交友関係についての社会的知識と、他の個体の心の状態を推測する「心の理論」
チンパンジーはこれらをうまく使っているように思える

  • 言語知能

一般的知能による学習のレベルを出ない、つまり人間の「二歳」レベル。人間の言語爆発は二歳以後に起きる

  • 領域面

道具使用と食物採取の間はなめらかにつながっている。これは、どちらも一般的知能を使っているから
一方、社会的知能を使った活動とそれ以外の活動には壁がある。
例えば、道具作りを親が子に教えるといった行動はない、また社会的な戦略の中で道具を使うことがない(道具を使って地位を誇示したりしない)

第6章 最初の石器を作った人間の心

ホモ・ハビリスについて
オルドヴァイ型石器という人工物があらわれる

  • 技術的知能

オルドヴァイ型石器をつくるためには、石のとがった部分を石の適切な場所に当てて削らなければならない。これは、チンパンジーにはできない。
一方、テクノロジーの変化に乏しく、また意図的に形を作ろうとしていないというところがある

  • 博物的知能

オルドヴァイ型石器は、屍肉の解体につかわれたと考えられている
これについて以下の2つの考えがあって論争があるが、この論争に決着をつけるには証拠が少なすぎる
グリン・アイザック:腐肉の解体や時に狩猟を行い、それに伴い、食料の分配や労働の分業が起きて、コミュニケーション能力が発展していった
ルイス・ビンフォード:スカベンジャーとしては最底辺で、食料の分配や労働の分業が起きるほどの量の食料は獲得できなかった
ただし、肉食を始めたのは確かっぽい
肉食をするためには、資源の場所の把握やそれをもとに心の地図を作るという能力が必要になる。石を採取する場所から使う場所へ運搬するなど、そのような能力は持っていたように思えるが、生活範囲がそれほど広範ではなく、自然環境になお束縛されていたところもあり、まだ一般的知能の段階

  • 社会的知能

ロビン・ダンバー
脳の大きさと集団の大きさの関係
大型動物は脳が大きいが、単純に身体が大きいから脳が大きいわけではない。草食動物は脳が小さい。種間で脳の大きさを比較する時は、身体の大きさから推定されるより脳が大きいかどうかを、尺度とする。ダンバーは、大脳新皮質の割合と移動などに関わる要因との相関を調べた。環境の複雑さが脳の大きさへの選択圧になると考えたからだが、相関はなかった。集団の規模と関連していることがわかった。
捕食者からの危険を避けることと、大きな肉片が不定期に見つかることという2つの理由で、集団が大きくなる

  • 言語知能

脳の大きさや形状からの推測
ロビン・ダンバー:集団が大きくなる→情報伝達の必要が増える→毛づくろいによって情報伝達を行うが集団が大きくなると時間的に飽和する→言語の誕生?

第7章 初期人類の心における多様な知能

ホモ・エレクトゥス、ホモ・ハイデルベルゲンシス、ホモ・ネアンデルターレンシスが現れる。本書では、これらをまとめて「初期人類」と呼ぶ。ホモ・サピエンスを「現代人類」と呼ぶ。
この時代になると、握斧(ハンド・アックス)が登場する

  • 技術的知能

握斧は、左右対称になっている
完成されたイメージをもって作らなければならない。ネアンデルタール人の石器は、現代人でも、作るのが難しいレベル
オルドヴァイ型石器の頃とちがって、より扱いにくい素材も使われるようになっている。
初期人類は、技術的知能を有しているとみていいが、謎がある
謎1)骨、角、牙を材料にしなかったのは何故か
謎2)目的に特化した道具を作らなかったのは何故か
謎3)複数の部分からなる道具を作らなかったのは何故か
謎4)時代や場所によって、変化をほとんどしていないのは何故か
→博物的知能との流動性がなかったから
骨とかは、博物的知能に関わるものなので、道具にするという発想にならなかった。博物的知能に属する動物の習性に関する知識が、技術的知能と結びつかないので、特化した道具も作られない。だから、複雑化しない。

  • 博物的知能

ネアンデルタール人は、氷床の拡大した時期に厳しいヨーロッパで生き残っている
腐肉あさりだけでなく、狩猟も行っていた
心の地図を作るだけでなく、獲物の習性などについても詳しくないといけない

  • 社会的知能

ダンバーの脳容量からの集団規模の推定
ダンバーが主張するほど大きくなかっただろうが、環境によって集団の大きさを変えていた可能性(ツンドラでは大集団が、森林では小集団が有利)
負傷者が生存していた→面倒をみていた
謎5)住居跡が小さい集団を示唆する
謎6)人工物の分布がバラバラ
謎7)装飾品がない
謎8)埋葬はしていたが、埋葬品がない
ネアンデルタール人の埋葬について、花をたむけていたとかつて言われていたけど、風で流れてきたか、コンタミらしい
これらの謎について、やはり認知的流動性がないから、と答える
技術的技能と社会的技能が結びついていないから、みんなで一緒に道具を作るということがない。博物的知能と結びついていないから、食物の分配も儀礼化されてない。
技術的技能と社会的技能が結びついていないから、装飾品とか埋葬品とかがない

  • 言語知能

脳容量、脳の形状、音声器官から見て、ネアンデルタール人は、現代人と同様の言語能力があってもおかしくない。特に音声器官は、気道と食道がつながってて危ないので、言語を話さないのにこういう構造になるのはおかしい
ただ、社会的なものに限られていたのではないか、と。

第8章 ネアンデルタール人のように考えてみる

ネアンデルタール人には、ハンフリーのいうところの「反省する意識」がなかったのではないか
ハンフリーによれば、社会的知能(直観心理学)・「心の理論」によって、相手が何を考えているか予測できるようになった。思考について思考できるようになった。これが「反省する意識」のもとになっている。
しかし、これが社会的知能以外の領域では持てなかったのが、ネアンデルタール人以前
彼らの技術とか知識とかはかなり発達しているけれど、それらについて、自覚的に意識して思考しているということがなかった。つまり、無意識的に思考していた、のではないか。
それを想像するのは、現代人には難しいけれど。

第9章 人間の文化のビッグバン――芸術と宗教の起源

6万年前から3万年前にかけて、文化の大爆発がおきる=「中部/上部旧石器時代の移行」
複数の知能の領域が横断するようになる、という発達心理学者たちの言っていたことが、この移行を説明するものとなる


芸術が誕生した時期であるが芸術の定義自体が難しい。芸術の定義が難しいことや、あるいは芸術という概念自体が、芸術の起源の議論を妨げることもある。(明らかに芸術と思われるものを作っていても)芸術概念を持っていない文化もある。
具象的な芸術が象徴的な記号
具象的な芸術の例:3万3000年前の南ドイツで発見された、象牙製の像。頭がライオンで身体が人間
象徴的な記号の例:同時代の南西フランスで発見された、石灰岩に刻まれた「V」字形。同じ形のモチーフが繰り返されている
視覚的記号の5つの特徴
(1)記号と指示対象の恣意的関係(2)伝達の意図(3)記号と指示対象との間の時空的隔たり(4)意味が、個人や文化によって異なる(5)1つの記号にある程度の幅が許容される*1


アボリジニの記号=1つの記号に複数の意味があって、それによって神話が記録されている


視覚的記号を作るのに必要な心の働き
(1)心の中で形を構想すること(2)意図的な伝達(3)指示対象と関連のない図像への意味の付与
→初期人類はこれらの能力を持っていた
(1)握斧やヴァルロワ剥片(技術的知能)
(2)意図的伝達はチンパンジーにもみられる(社会的知能)
(3)動物の足跡などから、それを残した動物について推論できる(博物的知能)
しかし、初期人類には芸術がなく、現代人類にのみ芸術がある。認知的流動性があるから。人類史において芸術は、漸進的にあらわれるのではなく突然現れることが、それを示している。
初期人類の時代にも、骨や象牙に意図的につけられた模様がある。これは、しかし、一般的知能によるもの。チンパンジーが一般的知能によって、道具製作や「言語」を使う程度の達成でしかない


認知的流動性の働きは、芸術の内容にもあらわれている。
つまり、擬人化やトーテミズム。動物の頭をした人物像が、多くの狩猟採集社会に見られる。博物的知能と社会的知能のつながり。
狩猟において
特定の種を大量に狩ることができるようになる。計画的。獲物にあわせて特定の武器を作ることができるようになる。擬人化は、動物の性質を理解するのに有用だった。
「芸術」と「道具」の違いは非常にあいまい。刻まれた模様は、情報を蓄積するためのものだったと考えられる。洞窟壁画には、動物をどのように配置するかのパターンがみられ、洞窟周辺の地図として使われていたのではないか。「現代人類の絵画、彫像、彫刻の多くは、自然界について考えるための道具」
この時代に装飾品も生まれる(技術的技能と社会的技能のあいだの認知的流動性
宗教の誕生
パスカル・ボワイエ:宗教の特徴として、超自然的存在をあげる→超自然的存在は、直観的知識を侵害し、適合する
直観的知識の侵害:物体を通り抜けたり、目に見えないかったりすること
直観的知識に適合:普通の人間と同じように信念や願望を持っていること
もし、適合するところがまったくなかったら、人間には全く理解不可能になってしまう
認知的領域に閉じていた知識が、混同したことによって生まれた
直観的生物学には「エッセンス」という特徴がある。これが、社会的知能に導入されると、シャーマンなどの社会的役割の分化につながった
ホモ・サピエンス・サピエンスは、10万年前に登場しているけれど、認知的流動性は6万年前になってから現れる。
ホモ・サピエンスは、アフリカを出た後に、遺伝子の多様性が失われている。短い期間、小さな繁殖集団になっていたボトルネックがあった。この小さな集団に、認知的流動性を備わっていて、先住の人類に対して有利に働いたか。


第10章 ではそれはどのように起きたのか

ダンバー:初期人類の言語は、社会的な言語
→非社会的な世界(動物や道具)について話す「余談的」言語が発生したのではないだろうか
ゴシップが好きであることや、心の状態、社会的存在、物理的対象のいずれについても、それを言うための構造や概念が似ていること→言語がもともと社会的世界について語るためのもので、それが後に拡張されたから、ではないか
スペルベル:メタ表象モジュール
社会的知能に、余談的言語を通して、非社会的な世界の知識が入ってくることで、社会的知能のモジュールが「スーパー礼拝堂」=メタ表象モジュールとなった
メタ表象モジュールによって、世界についての知識が心の中の2つの場所で表象されるようになる→イヌイットなどが、動物を親戚と考えつつ、食料とも考えるという矛盾にたいする答えとなる
ハンフリー:「反省する意識」は社会的知能の特徴として生まれた
意識ももともとは社会的領域に限定されており、それが言語を通して、他の領域へと拡張された
人間は脳が小さいままで生まれてくる
→出産後の子育ての必要性→男女の社会的関係の構築のために「余談的」会話が有用だった?
→発達の長期化→認知的流動性が生まれる時間ができた?

コラム

「人種」という考えも認知的流動性によって生まれたかもしれない
ボワイエ:直観的生物学における「エッセンス」が社会的領域に持ち込まれることで、「人種」概念が生まれた

第11章 心の進化

6500万年前からの、霊長類の進化について
一般的知能と特化した知能が交互に進化
社会的知能が生まれてから、それが選択圧となって、脳が大きくなっていくが、ある程度まで大きくなると、エネルギーと温度の問題で壁にぶちあたる。その後しばらく、脳の大きさは変わらなかったが、二足歩行になったときに、再び脳が大きくなる。このとき、二足歩行と同時に、脳を覆う網状の血管組織が「ラジエーター」として選択された。これによって、脳の大きさに対するブレーキが解除された
科学も認知的流動性の産物
科学の特徴(1)仮説を立て、それを試す能力(2)問題を解決するための道具開発(3)メタファーと類推の使用

エピローグ 農業の起源

どうして農業を始めたのか
資源が足りなくなったから?→農業を始めた頃、同時期の狩猟採集民より農耕民の方が貧しかった

  • 社会的権威を示すために動物や植物を使うようになった

ヘイデン:最初に栽培されたものは、権威を象徴するもの(犬、瓢箪、唐辛子)で、集団を養えるものではなかった

  • 植物とのあいだに「社会的関係」があらわれた

植物の世話をするためには、このような関係が必要なのではないか
どちらも、博物的知能と社会的知能のあいだの認知的流動性

感想とか

ダンパーの、脳の大きさと集団の大きさが相関しているって話はどこかで読んだなと思ったけど、大津由紀雄・波多野誼余夫編著『認知科学への招待』 - logical cypher scapeにあった
石器の形から、知能や社会のありかたを推論してくのが面白い。
芸術の定義の話とかは、ふんふんという感じ
2つの知能があわさると、擬人化を始めたり、超自然的存在について考えたりできるようになる、というのは面白い。「心の理論」を、人間以外にどんどん適用しはじめちゃう、という奴。
それから、博物的知能(直観的生物学)における「エッセンス」というのは、キヨク・サーンいうところの「環世界センス」、三中信宏いうところの「心理的本質主義」とからへんのことだろうなあ*2
ボトルネックの話は、『日経サイエンス 2014年12月号 大特集:人類進化今も続くドラマ』 - logical cypher scapeにも載ってた。
それから、初期の芸術というか画像が、道具であったというあたりについて
直接は関係なくて、ただの連想ゲームでしかないのだけれど、例えば、カルヴィッキの構造説や科学的イメージの話*3だったり、マノヴィッチの「道具としての画像」*4とかだったりを想起したりした。
それから、やっぱり少し離れるけど、ミリカンのバイオセマンティクス的な話とか*5
芸術というのがもともと道具であり、有用性があって生まれてきただろうというのは、進化的に考えるのであれば当然のことなんだけど、とはいえそれが今あるような、必ずしも有用性があるようには思えないもの、というか現実には存在しないものを想像したりするようになったのは何故なのかということについて、博物的知能と社会的知能がまざって、「擬人化」としてあらわれてきたとして説明されるのは、面白いな、と。
あ、あと、ネアンデルタール人は意識がなかった説
あれ、ある意味『ハーモニー』だ
ただし、マイズンは、「感覚」としての意識はあったろうと言っており、意識がないといっても、哲学的ゾンビではない*6
ポストヒューマンならぬプレヒューマン的な話がここでもって感じだけど、その点については、『歌うネアンデルタール』の方が話として面白かった

心の先史時代

心の先史時代

*1:綴りが同じであれば、多少形が違っても許容できるということっぽい

*2:キャロル・キサク・ヨーン『自然を名づける』 - logical cypher scape

*3:ジョン・カルヴィッキ『イメージ』(John V. KULVICKI "Images")後半(6〜9章) - logical cypher scape

*4:レフ・マノヴィッチ『ニューメディアの言語』 - logical cypher scape

*5:『シリーズ心の哲学3 翻訳編』 - logical cypher scape

*6:哲学的ゾンビは、物的には全く同一なのに心について(たぶん、現象性について)差異があるという話。ここでは、反省的な意識という機能が、社会的知能を越えて成立してなかったという話