エリック・R・カンデル『なぜ脳はアートがわかるのか―現代美術史から学ぶ脳科学入門』

神経科学の大家であるカンデルが、主に抽象絵画を対象に、芸術と神経科学を結びつけて論じている本。
なお、カンデルは、美術と神経科学について他にも著作がある。もともと、記憶や学習について研究しており、それでノーベル賞も受賞しているが、芸術との関係についても興味・関心があるようだ。

はじめに
I ニューヨーク派で二つの文化が出会う
 第1章 ニューヨーク派の誕生
II 脳科学への還元主義的アプローチの適用
 第2章 アートの知覚に対する科学的アプローチ
 第3章 鑑賞者のシェアの生物学(アートにおける視覚とボトムアップ処理)
 第4章 学習と記憶の生物学(アートにおけるトップダウン処理)
III アートへの還元主義的アプローチの適用
 第5章 抽象芸術の誕生と還元主義
 第6章 モンドリアンと具象イメージの大胆な還元
 第7章 ニューヨーク派の画家たち
 第8章 脳はいかにして抽象イメージを処理し知覚するのか
 第9章 具象から色の抽象へ
 第10章 色と脳
 第11章 光に焦点を絞る
 第12章 具象芸術への還元主義の影響
IV 始まりつつある抽象芸術と科学の対話
 第13章 なぜアートの還元は成功したのか?
 第14章 二つの文化に戻る
訳者あとがき

なぜ脳はアートがわかるのか ―現代美術史から学ぶ脳科学入門―

なぜ脳はアートがわかるのか ―現代美術史から学ぶ脳科学入門―

第2章 アートの知覚に対する科学的アプローチ

アロイス・リーグル「鑑賞者の関与」
→エルンスト・クリス、エルンスト・ゴンブリッチ「鑑賞者のシェア」


逆光学問題
ヘルムホルツボトムアップ情報とトップダウン情報
ボトムアップ情報
・脳の神経回路に先天的に備わっている計算プロセスによる
・物体や人や顔の識別、空間内における位置の同定など
・低次ならびに中間レベルの視覚作用に依拠
トップダウン情報
・高次の心的機能(注意、創造、期待、学習された視覚的関連づけなど)と関連
・脳が、過去の経験から仮説をたて検証
・無関係な構成要素の抑制


抽象芸術の鑑賞は、ボトムアップ情報よりもトップダウン情報を用いる

第3章 鑑賞者のシェアの生物学(アートにおける視覚とボトムアップ処理)

What経路(腹側経路)とWhere経路(背側経路)
前者は、V1,V2,V3,V4という脳の底部に近い領域
後者は、V1から頭頂近くへ向けて走る
3つのレベルの処理(低次:網膜、中間レベル:V1から、高次:様々な脳領域からの情報を統合)
並行する二つの処理ストリームは、物体への注意のプロセスが生じることで、再構成される


フェイスパッチ
顔についての情報を処理する特定の脳領域がある
色に関する領域もある→10章


視覚と触覚の相互作用と情動
脳の高次の領域で、視覚とそれ以外の感覚情報が加えられ、マルチモーダルな表象が形成
ポロックの絵などにおける「テクスチャーの知覚」?
関連付け
視覚と触覚は相互作用し、情動システムを動員する→情動システムについては10章

第4章 学習と記憶の生物学(アートにおけるトップダウン処理)

アメフラシの学習と記憶のメカニズム
ニューロンの結合が強くなったり、新しいシナプスができたりすることが、学習や記憶だ、という話


還元主義的アプローチにはカタツムリが有用だ、何故ならマティスも、カタツムリをモチーフにした作品を描いているからだ、みたいなことを書いていて、一種のジョークというか、話の枕というか、そういう感じなら、まあいいかというところなんだけど、若干マジっぽいトーンで書かれており、「何を言ってるんだ?」となった

第5章 抽象芸術の誕生と還元主義

ターナー、モネ、シェーンベルクカンディンスキーの4人を取り上げて、美術史における、抽象絵画への移行を紹介している。
シェーンベルクの音楽に影響を受けて、カンディンスキー抽象絵画へと踏み切ったというエピソードがある
が、実は、シェーンベルク自身、カンディンスキーより1年早く、抽象絵画を描いていたらしい。

第6章 モンドリアンと具象イメージの大胆な還元

この本の表紙にも使われているモンドリアンについて
直線だけで構成されていることと、脳の視覚処理で線に反応するニューロンがあることとを混ぜつつ書かれている

第7章 ニューヨーク派の画家たち

デ・クーニングとポロックについて


デ・クーニング
『発掘』において、キュビスムシュールレアリスムを統合した、とされている
均整な構造と衝動との統合


ポロック
ここで、アクション・ペインティングが、還元主義的アプローチを進展させたものと論じているが、ここもちょっとよく分からない
2つの点で還元主義的アプローチを進展させたという
(1)慣例的なコンポジションを放棄し、強調点や識別可能な部位、中心的なモチーフがない
(2)イーゼル画の危機の到来
アクション・ペインティングの特徴だとは思うが、これが一体何がどう「還元主義的」なのかの説明がない
読み進めると、「意識的形態が、無意識的なドロップ・ペインティング技法に還元されている」
カンデルは元々精神分析に興味があり、その後、神経科学を研究し始めた人らしくて、わりと精神分析的な語彙を使うことに躊躇いがない
それから、ポロッコの絵とトップダウン処理・パターン認識にからめて、パレイドリアも言及がある
抽象絵画トップダウン処理のことは、このあとも論じられていくところ
パレイドリアが関わっているのかどうかはよくわからない

第8章 脳はいかにして抽象イメージを処理し知覚するのか

抽象絵画は、ボトムアップ処理よりもトップダウン処理によって、鑑賞者の側が、その絵に何が描かれているのかを見出していくのだ、と
再びデ・クーニングとポロックを取り上げ、それぞれ、具象画と抽象画を比較している
デ・クーニングの『発掘』や、ポロックの『ナンバー32』は完全な抽象絵画となっているが、鑑賞者は、彼らの過去の絵画(例えばデ・クーニングの『すわる女』や、ポロックの『西へ』)を知っていれば、画家がこれまで用いてきたモチーフ(女性や時計回りの動き)をそれぞれの絵画の中に見出すことができるだろう、と。しかも、鑑賞者は、具象絵画よりも、自由に様々な関連を見出していくことができる
ボトムアップ処理によるあいまさの解消と、トップダウン処理による想像力の喚起・過去の記憶や経験との関連付け
抽象絵画は、後者により依拠している、と

第9章 具象から色の抽象へ

次は、ロスコとルイス
デ・クーニングやポロックと違って、彼らは、色への還元
人間ドラマを描くのにあたって、人間のフォルムを除去していって、色の四角形を描くようになったロスコ
「ヴェール」「アンファールド」「ストライプ」という3つの主要なシリーズを描いたルイス
色が、鑑賞者に対して情動、スピリチュアルな感覚をもたらすということをに着目している。


ところで、「ロスコは生物学者が還元主義的アプローチを用いて行おうとしたことを達成していた」というような文が出てくるのだが、ここもいまいち、どういうつながりがあるのかがはっきりしない

第10章 色と脳

色についても、脳の中にそれを処理する領域があるよって話と
色が、知覚においてどのような役割を果たしているか
色も、ものの輪郭をはっきりさせるのに使われている、というのと
あと、色の恒常性みたいな話で、物体の固有の色って、ほんとは周囲の環境によって変わるけれど、トップダウン処理の影響を強く受けて、色の知覚はなされているよ、と

第11章 光に焦点を絞る

光を用いた現代アート作品のアーティストの紹介


ダン・フレイヴィン(1993~1966)
蛍光灯のみを並べて作られた作品


ジェームズ・タレル(1942~)
もともと、知覚心理学の研究をしていた
物体やイメージを用いず、光を使って、部屋の隅に立方体があるように見える作品など

第12章 具象芸術への還元主義の影響

1950年代以降の具象絵画への回帰の流れ
アレックス・カッツポップアート→チャック・クローズ


カッツ
抽象表現主義の影響を受ける
平坦で遠近感を欠く肖像画


ポップアート
ウォーホルは、カッツからの影響を受ける


クローズ
相貌失認を抱えながらも肖像画を描く
→のちのフォトリアリズム
グリッドに分割された肖像画

第13章 なぜアートの還元は成功したのか?

抽象芸術は遠近感を解体することで、ボトムアップ処理の新たなロジックを構築するよう脳に求める。
(中略)
抽象芸術はそのような特化した脳領域を活性化するのではなく、あらゆる形態の芸術に反応する脳領域を活性化することが示されている(kawabata and Zeki 2004)
(pp.194-195)


抽象芸術に対する3つの主要な知覚プロセス
(1)絵画的内容と、脳によるイメージのスタイルの分析
(2)イメージによって動員されるトップダウンの認知的関連づけ
(3)イメージに対するトップダウンの情動的反応


フレッド・サンドバッグの作品の紹介


具象画
→脳のデフォルトネットワークに原木書ける
デフォルトネットワーク=内側側頭葉(記憶)、後帯状皮質(感情の評価)、前頭前皮質内側部(心の理論)からなる
休息しているときに活性化する、前意識的プロセス
高度な審美的体験をしているときにも活性化する

感想

個人的な感想としては、ややハズレだったかなあというところがある。not for meというか。
個別にいくつか気になるところや勉強になるところはあり、必ずしも全然ダメな本、というわけではないのだが、物足りなさがあった。
かなりコンパクトにまとまった本なので、その点、詳細な説明には踏み込んでいない、ともとれるので、もう一方の本を読んだ方がいいのかもしれないが、個人的には、画像の美学について何かフォローできるような知見が得られるといいな、という期待で読んでいたので、そこらへんの接続が難しいなあという感じ
まあ、神経科学の人に対して、美学といういささかマイナーな分野についての知識を要求しても仕方ないところはある。


それはそれとして、もう一つ別の不満があって
「筆者が言ってる「還元主義」とは一体何なのだ?」ということ
曰く、神経科学は還元主義的アプローチをとっている
曰く、モンドリアンポロック、ロスコなどの抽象絵画の画家たちもまた、還元主義的アプローチをとっている
すなわち、科学と芸術には通ずるところがあるのだ
というような主張をしていて、ことあるごとに「この画家も還元主義的だ」みたいなことが書かれている
ただ、そこでいう還元主義とは? というのがいまいちよく分からない。
科学における還元主義的アプローチというのは、より基礎的な要素について解明することで、マクロな現象についても解明するという方法論のことだろう。
カンデルの研究であれば、記憶や学習といった現象を解明するにあたり、分子レベルのメカニズムを解明するというのがそれにあたる。
この場合、神経伝達物質が放出されてこの神経回路のつながりが増強された、という分子レベルのメカニズムが、これこれを記憶した、という現象と対応しているのだ、という前提がある。
「○○について記憶する」という出来事が、「神経回路のつながりが増強されている」というより基礎的な出来事に還元されている、と言える。
しかし、美術に関わるところで言われる「還元主義」が、一体何が何に還元されているのかが、いまいちよく分からないところがある。
全く説明がないわけではなくて、抽象絵画は、色や線といった個別の要素に還元されているのだ、という言い方はされている。
ただ、やはり何が還元されたのかはよく分からないところはある。
もっとも、セザンヌキュビスムについていえば、確かに風景や人物を、より単純な線や図形の組み合わせにしていくという奴なので、これはまあ還元主義っぽいなあといえば還元主義っぽいところがある
そして、モンドリアンとかポロックとかは、こうしたキュビズムがやっていたことに影響を受けて彼らの抽象絵画を生み出しているので、還元主義を徹底するとああなった、という言い方も確かにできる。


ただ、科学における還元主義と、美術における還元主義のアナロジーが、一体どれくらい成立しているのか
そして、そのアナロジーが成立していることによって、一体何が言えるのか、というのがいまいち伝わってこないと感じた
科学における還元主義的アプローチは、「実は○○(ex.学習)って××(神経回路の増強)のことだったんですよー」ということで、なるほど○○についての理解が深まったね、というものだけど、
美術における還元主義って、「単純な線の組み合わせにしてみました」「色の組み合わせにしてみました」というものであって、これによって、何かが分かるというようなものでもない。
抽象絵画の効用については、さらに、トップダウン処理について云々という話が続くのだけど、こちらはなおさら「それ還元主義か?」という疑問が出てくる。
実際のところ、「還元主義」という言葉をことさらに強調されなければ(読みながらそれを無視すれば)、それほど理解を阻む内容ではなくて、納得できるところだったりもするのだけど、「還元主義」というキーワードで貫こうとして、それがいまいちうまくいっていない感を覚えてしまう。


動機としては、スノーの二つの文化論を背景に、科学と芸術という二つの文化を接続したい、というのがあって、どっちも同じアプローチをしているんだよ、と言いたいのだろうと思う
還元主義的アプローチは、科学の方について言うとかなり広く当てはまる話だと思うんだけど、芸術の方だと、20世紀の絵画あたりにしか当てはまらない話でもあるので、その点もちょっと微妙なのでは、という気がしてしまう。