『20世紀SF〈3〉1960年代・砂の檻』

河出文庫から出ている、10年ごとに区切ったSFアンソロジー
以前、『20世紀SF<4>1970年代接続された女』 - logical cypher scape2を読んだことがある。
なんでそんな部分部分だけ読んでいるのかというと、古典をちゃんと読んでいく真面目さが自分にはないからで、時々、古い作品を読む機会があると、時代を越えて残っている作品はやはり面白いなあとは思うのだけど、やっぱり新しい作品読みたいし、そうすると古い作品を読む時間がない……となる。
では何故今回これを読んだかというと、どこかのブログでディレイニーとヴァーリイは似ている(あえて言うなら、という但し書き付きだった気がするが)という記述を見かけて、ヴァーリイが好きなのでディレイニーも気になり始めたから、というのがある。
で、ディレイニーで検索してたらこの本を見つけて、ディレイニー以外にも、名前は知っているけどちゃんと読んだことないしどういう作家なのか分かってない人たちが並んでいるな、と思って、読むことにした。
1960年代というとニューウェーブSFの時代だが、そういえばニューウェーブってのにも触れてきてなかったんだよなあ、と。
面白かった作品を挙げると、ロバート・シルヴァーバーグ「太陽踊り」、ブライアン・W・オールディス「讃美歌百番」、ラリイ・ニーヴン「銀河の〈核〉へ」、ジャック・ヴァンス「月の蛾」、トーマス・M・ディッシュ「リスの檻」
目当てであったサミュエル・R・ディレイニー「コロナ」についても間違いなくよい作品であったが、上記にあげた作品がよすぎたので、次点扱いかな。
アーサー・C・クラーク「メイルシュトレームⅡ」は、さすが巨匠というべきか、現代の作品としても読める面白さだった。

ロジャー・ゼラズニイ「復讐の女神」(浅倉久志・訳)

幼い頃に人類が居住する全惑星と大陸と都市とを暗記したが、生まれつき腕と脚がなく自分の家からほとんど出たことがない天才少年サンドール・サンドール
サイコメトリー能力を持っていて、その人かその人に関連するものに触れるだけでその人が見聞きしたものを知ることができ、その能力を用いてゴシップを収集するのが大好き男ベネディック・ベネディクト
インターステル情報局に50年間勤め上げ、犯罪者と凶悪生物を葬り続けてきたスゴ腕エージェントのリンクス・リンクス
この3人がチームとなって、大量殺人犯を追い詰める、という話である。
が、この作中で悪役とされる大量殺人犯の男だが、こちらは元々宇宙警備隊の優秀な艦長で正義感溢れる男だったヴィクター・コーゴ。あるとき、作戦ミスで部下を失ってしまうのだが、不時着した惑星の原住知的生物ドリレンと親しくなる。ところが、人類はその惑星を居住地とするため、彼らを強制移住させようとし、抵抗したために殺してしまう。コーゴは人類に対する復讐鬼となった。
追い詰める側である3人が、まあまあ癖があって、特にベネディクトは明らかにお近づきになりたくない人物だったりするのに対して、このコーゴは、怒れる復讐鬼になった理由もわりと同情すべきところがあるし、というか、明らかに人類側の原住民の扱いが悪すぎだろ、というところがあって、読者的にはこのコーゴをヒーローとして扱いたくなる。
実際、作中の記述自体はそのように読み取らせる方向で書かれている気がするのだが、最初の方と最後の方だけ、語り手の主観がわりとあらわになっているところがあって、そこではこのコーゴをかなり強く道徳的に批判している(ハートがないとか裏切り者だ、とか)。そして、実際このコーゴは最終的に3人チームの力によって処刑されて終わり、何となく、めでたしめでたし、という雰囲気でしめられるのである。
このギャップがわりと意味不明であった。
ピカレスクスペオペとしては、つまらなくはない感じ

ハーラン・エリスン「「悔い改めよ、ハーレクイン!」とチクタクマンはいった」(伊藤典夫・訳)

読む前は、何故ハーレクイン? と思っていたのだが、このハーレクインは、いわゆるハーレクイン・ロマンスとは何の関係もなかった。そもそもハーレクインは道化師という意味で、本作では、「道化師(ハーレクイン)」という登場人物が出てくる。チクタクマンもまた登場人物の1人である。
管理社会が舞台で、あらゆる者に時間厳守が課せられている。心臓プレートというものがあって、遅刻するとその分だけ寿命を削られる。その心臓プレートを管理している人が、影でチクタクマンと呼ばれている。
道化師は、そうした社会を混乱させるイタズラを仕掛け、社会の最下層からはヒーロー扱いされている。
遅刻するとその分の寿命がとられ、遅刻魔はマジで死ぬ羽目になる、という恐ろしい社会であり、作中で「人は時間の奴隷になってしまった」と書かれている通り『モモ』的な社会風刺作品であり、解説にあるとおり、現代にも通じるところがあるのではあるが、「2時半の面接だったのに、もう5時じゃないか」と門前払いされる的なくだりがあったりして、いやわりと待ってくれるな、と思ってしまった。
(ただ、ハーレクインのイタズラなんかでは、たった4分遅れただけでそれの影響がドミノ式に広がっていくというのがあって、それは時間管理社会っぽいなとは思ったけど)

サミュエル・R・ディレイニー「コロナ」(酒井昭伸・訳)

宇宙港で整備員をしている若い男性バディと、テレパス能力があるゆえに自殺衝動を抱えてしまい入院中の少女リー、そして全宇宙的にヒットをとばす歌手ブライアン・ファウストの物語。
タイトルの「コロナ」は、ブライアンの新曲タイトル
バディは、貧困の片親家庭に育ち、刑務所生活をしていたこともある。整備の作業中に怪我して病院へ運ばれる。
リーは、世界でも数人しかいないという能力の持ち主で、本人の意志と関係なく、他人の思考や感情が入り込んでくる。特に強い感情が入り込むので、多くの悲しみや苦しみなどを感じてしまい、たえず自殺衝動に襲われている。
バディが就寝中に刑務所時代の夢を見ており、その苦しみがリーに伝わってしまい、彼女はそれをとめるために起こしに行く。ずっと入院中の彼女にとって、自分に伝わってきた苦しみを、自分の力でとめることができたのは初めての経験。
そして、2人とも「コロナ」が好きであることが分かる。
バディは、今地球に訪れているファウストの宇宙船の整備をしており、ファウストを直接見ることも可能だと話す。
病室を離れていたことがばれて、リーは元の病棟へ戻される。バディも怪我が治って退院する。2人はその後一度も話す機会がなかったし、連絡先も互いに分かっていないが、バディ、地球から帰るファウストが最後に宇宙港で行ったライブを、うまく潜り込んで最前列で見る。そしてリーも、彼を通してそのライブを見ることができた。
ろくな教育を受けていないので朴訥なしゃべり方しかたできない若者と、そのテレパス能力故に年齢の割に老成している少女が、同じ音楽を通して、得がたい友情を結ぶ物語。そして音楽の力を描く作品。
表面的にはヴァーリイとは似ていないと思うが、SF設定やガジェットはあくまでも世界の背景にあって、物語の主眼がそこにはない感じは似ているかなと思った。

アーサー・C・クラーク「メイルシュトレームⅡ」(酒井昭伸・訳)

ニューウェーブを謳った60年代アンソロジーでクラークか、と思ったが、さすがのハードSFで面白かった。月面版『ゼロ・グラビティ』というか何というか。
月での仕事を終えて地球へ帰還するため、電磁カタパルトで射出される貨物船に乗り込んだ主人公。しかし、カタパルトの不具合で脱出速度が足りず、放物線軌道に入ってしまう。同時に補助エンジンも故障してしまい絶体絶命の中、管制から指示されたのは、船を捨て別の軌道へ乗り移ることだった。
タイトルの「メイルシュトレームⅡ」というのは、ポーの短編「メイルシュトレームに呑まれて」のオマージュだから。作中でもポーへの言及がある。

J・G・バラード「砂の檻」(中村融・訳)

火星の砂とウイルス禍に覆われ廃墟と化したケープカナベラルで、当局から隠れて暮らす3人の男女。ある日、当局はいよいよこの地区の封鎖を開始し、砂上車によって乗り込み、3人へ最後通牒を行う。
主人公は元宇宙関係の建築家(会社が大型案件のコンペに負けて宇宙関係から離れた)で、他にも軌道上で亡くなった宇宙飛行士である夫の帰りを待ちわびる妻など、宇宙に関わる生き方をしたがそれに裏切られ、しかしまだ何かに縋るようにこの廃墟の中で生きている3人。
なんで地球が火星の砂で埋もれているかというと、バラストとして火星の砂を持ち込んだかららしい。で、そこに未知のウイルスが混じっていた、と。
何十年も前に失敗した宇宙船がいくつかぐるぐる回り続けてて、その中で宇宙飛行士が死んでいるらしいんだけど、最後、当局との捕り物と、宇宙船の一つが落ちてくるのとが同時におきて、ある意味では火星に到達できたぞ、と叫んで終わる。
砂に覆われて廃墟になった都市などのビジュアル面はよかったし、物語についても要素要素は色々よかったと思うのだが、全体として、何か今ひとつ自分には刺さらなかった。

ケイト・ウィルヘルム「やっぱりきみは最高だ」(安野玲・訳)

アイドル・リアリティショーもの
感情を共有できる装置を開発した研究者がテレビプロデューサーと組んで、1人のアイドルを生み出す。彼女の経験した感情も一緒に感じることができるリアリティー番組。
筆者のケイト・ウィルヘルムは、夫のデーモン・ナイトもSF作家で、夫婦でクラリオン/ワークショップの設立に関わったらしい。

R・A・ラファティ「町かどの穴」(浅倉 久志・訳)

ラファティの短篇について、以前読んだ際にはわけわからんという感想だったが、今回は割とわけのわかるナンセンスコメディだった。
夫が仕事を終えて家に帰ってくる、妻が出迎える、子どもたちがいう「なんでパパはママのことを食べてるの」夫のように見えたものは怪物であった。
夫が仕事を終えて家に帰ってくる、妻が出迎える。妻は怪物に食べられようとしている。妻はあなたが2人いる、という。この怪物が自分の姿に見えているのか。
で、精神科医のところに行くと、同じようなことを訴える患者が今日は何人も来ている。あの「街かどの穴」が怪しいと思う。ディオゲネス老人が事情を知っているはずだ、と。
で、このディオゲネスという男が、重力理論の話とかをしはじめて、複数の形態があって、それが現れているのだ、みたいな話をしはじめる。ここらへんの理屈があるので一応SFっぽくなっていて、何となく事情は分かるが、話としてはとにかく、出てくる登場人物が次々と分裂していってドタバタを繰り広げるコメディであった。
最後、ようやく収まったかと思ったら、夫と妻が逆転している(つまり、妻の側が分裂して怪物に)というオチなのも、オチとして分かりやすい。

トーマス・M・ディッシュ「リスの檻」(伊藤 典夫・訳)

まるで『CUBE』のような不条理密室ものだが、その謎を解いたり脱出したりという話ではなく、孤独や書くことをテーマにした作品。
イスとタイプライターだけがある部屋で、ニューヨーク・タイムズだけは定期的に届けられている。
「ぼく」に過去の記憶はない。誰が閉じ込めているのか(異星人か?)とかを推理したりしているけれど、手がかりはなし。
「ぼく」が書いた詩などの文章が挿入される。
ニューヨーク・タイムズを読んだら出てきた、ひげ虫という新しく発見された虫について「ぼく」がかいた文章だったり、「きみ」と「ぼく」の架空の会話だったり。
リスの檻とトレッドミルに喩えてみたり、「動物園の午後」という文章だったり。
自分のことを閉じ込めているのは同じ人間で、「ぼく」がタイプライターで書いている文章が街角の電光掲示板で流れているのだ、と考えるようになる。
そして、この部屋にいることはおそろしくなんかない、むしろ解放されることの方がおそろしい、と。

ゴードン・R・ディクスン「イルカの流儀」(中村融・訳)

1960年代は、ジョン・C・リリーの研究によってイルカとのコミュニケーションへ注目が集まっていたらしい。
イルカとのコミュニケーションについて研究している研究所の話
主人公はそこの研究員だが、元所長のボスが亡くなってしまい、代わりに財団からやってきた新所長は研究所を閉鎖するべく査定しにきたと思しき男で、どうしようかと悩んでいる。
イルカとのコミュニケーションについて障壁があることがわかり、ブレイクスルーを起こす必要があるのだが、行き詰まりに陥っている。
そこに、ジャーナリストの女性がやってきて、話を聞きたいという。
主人公は、イルカとコミュニケーションとれるかどうかが、地球外の高度な知性体とコンタクトするための一種のテストになっているのではないか、という突拍子もない仮説も持っている。
最後、テストされていたのは実は人類じゃなくてイルカの方でしたー、というオチがつく。このオチは、読んでいる途中である程度読めるといえば読めるが、よいSFショートショート

ラリイ・ニーヴン「銀河の〈核〉へ」(小隅 黎・訳)

ニーヴンの「ノウンスペース」シリーズの一部をなす短篇。なので、世界観設定などは省かれているところがあるが、しかしこれ単体で十分に読むことができる。
宇宙船乗りである主人公は、パペッティア人からある依頼をうける。
宇宙船船殻の開発・販売で富を得ているパペッティア人は、新たな宇宙船を開発した。画期的な速度を誇るが、その巨体に対して乗員は1名のみ。この船に乗って、既知宇宙を越えた航行をしてほしいという依頼であった。
こうして主人公は誰も見たことのなかった銀河の中心を目撃することになるのだが、それは同時に銀河に起きている異変の発見でもあった。
主人公が戻ってくると、パペッティア人たちはみな姿を消していた。銀河に起きている異変を知り民族大移動を始めたのだ。
宇宙船の航行の描写(あまりにも速いので次々と衝突可能性のある天体が迫ってきてそれを避けるのが大変)とか、パペッティア人のオペレータが淡々と契約について言ってくるとこ(遅れると違約金発生するよとか)とか、エンタメとして面白いのだが、銀河の中心についての描写もまたよかった。
銀河の中心で天体が互いに衝突していっていて、現代の科学で考えると、ブラックホールだろうと思うんだけど、ブラックホールじゃないものが描写されていて面白い(「ブラックホール」という概念自体は既に物理学の世界で議論されていてある程度知られていたはずだけど、まだ「ブラックホール」という命名される前なので、一般的でもなかったくらいの時代のはず)

ロバート・シルヴァーバーグ「太陽踊り」(浅倉久志・訳)

宇宙文化人類学SFだけど、それにとどまらないというか、「60年代ニューウェーヴ、なるほど」みたいな話である(なんだ、その感想)
これはかなり面白かった。
主人公は、ある惑星を人類の植民地とするべく原住生物の駆除を行っている一団の1人。
メンバーの1人から、この生き物がもし知性を持っていたらどうする、と聞かれて以来、悩み始める。そして実際、何の知性もなくただ植物を食い荒らすだけの害獣だと思っていたこの生き物たちに知性と文化があることを発見し、フィールドワーク調査として参与観察し始めるのである。
太陽踊りというのは彼が発見して儀式的な踊り
しかし、彼はメンバーらによって強制的に連れ戻され、衝撃の真実が明かされる。そもそも原住生物の駆除は行われておらず、これ全体が彼に対して行われたセラピーだったというのだ。
最終的に、主人公は何が本当に起こったことなのか分からなくなってしまう。
この作品は人称が「きみ」→「彼」→「おれ」→「彼」→「きみ」と移り変わっていく形式を取っていて、主人公との距離の取り方が変遷していくのが面白い。
読者は「おれ」という一人称を通じて、この生き物たちの文化的な営みを体験することになるのだが、その後、三人称や二人称になっていくことで、主人公の視点から引き剥がされることになる。
この作品は、地球外生命体との文化人類学的なコンタクトというのも、1960年代的かなと思うのだけど、作中では、記憶編集技術とか幻覚をもたらす酸素花とかが出てきて、サイケデリック・カルチャー要素が入ってきているし、この主人公がネイティブ・アメリカンの出身で、彼の祖先自身が植民地化による虐殺を被っていて、そのショックから立ち直るためのセラピーとして、別の生物を虐殺するプログラムを経験させられていたという、いまいちどういう理屈なのかはよく分からないのだが(彼は、父も祖父も曾祖父もアルコールやドラッグや記憶編集技術に沈んでいたので、そこから逃れるためのセラピーなのかもしれないが)、そういうエスニック・マイノリティについての物語というのを書こうとしているのも、なんとなく時代なのかな、と。

ダニー・プラクタ「何時からおいでで」(中村融・訳)

タイムトラベルもののショートショート

ブライアン・W・オールディス「讃美歌百番」(浅倉久志・訳)

ポストアポカリプスSF
雰囲気がどことなく『ヨコハマ買い出し紀行』とか『第三惑星用心棒』とかを思わせるというか、終末以後の穏やかな世界といった感じで、よかった。
人類は「内旋碑」というものの中に去っている(人格のデータ化のようなものか?)
世界は、人類の残した廃墟と復活した自然に覆われており、そこをラシャデューサはバルキテリウムに乗って巡っている。
生き物の脳波を検知して音楽を流す音楽塔というのが時々あって、ラシャデューサはそれを調査して歩いているのだ。
ラシャデューサは「先達」とつながっている。これは仕組みはよく分からないのだが、意識が直接ネットワークされているような感じで、長命で博識だがラシャデューサの音楽の趣味やら何やらが気に食わない老人で、「先達」のおかげで色々なことを知ることができたが、常に先達から色々小言を言われている。
で、実はこのラシャデューサというのも、その正体はメガテリウムだし、「先達」もイルカらしい。
混交種といって、人類が人為的に、絶滅古生物や架空の生き物を産みだしていて、若干の改造により知性も生まれている。先述した通り、人類はすでにいなくなっており、こうした生き物たちだけが残っている。ただ、天然の生き物たちの方が繁殖しており、こうした生き物は数を減らしている。
最後、ラシャデューサも内旋碑へと向かう。
いまだに『地球の長い午後』を読んでないんだけど、いい加減読んだ方がいいな、と思った。あと『十億年の宴』もなー
っていうか『A.I.』の原作ってオールディスだったのか……。

ジャック・ヴァンス「月の蛾」(浅倉久志・訳)

ミステリー風味の文化人類学SF
異星の奇妙な風習・文化の設定とミステリー・サスペンス風味のプロットと噛み合って、面白かった。
惑星シレーヌは、みなそれぞれ仮面を着用して素顔を隠しており、楽器と歌を用いて会話する。個人主義的で自由な社会とされているのだが、この仮面や会話のルールがやたらと細かい。
仮面は様々な種類があるのだが、その人の地位や威信などをあらわしており、相応しい仮面を着けている必要がある。身の丈に合わない仮面をつけていると最悪殺されることすらある。
会話に用いる楽器も何種類も存在していて、相手との関係や会話にこめる感情的ニュアンスに応じて楽器を使い分ける必要がある(いくつもの楽器を持ち歩いて、咄嗟に持ち替えながら演奏して会話する)
主人公シッセルは、領事代理として着任してきたばかりで、この風習に四苦八苦している。そんな折、凶悪な犯罪者アングマークがシレーヌに向かったから逮捕せよ、抵抗するなら殺すのもやむなし、という命令を受け取るのである。
シレーヌには、外星人が主人公含めて4人しかいない。宙港長のロルヴァー、商事代理人のウェリバス、人類学者カーショールで、彼らはすでにシレーヌ歴が長く、すっかりシレーヌの風習に染まっている。カーショールに楽器の使い方などを手解きを受ける。
で、アングマークなのだが、かつてシレーヌに滞在していたこともあり、到着するやすぐに仮面をかぶって紛れ込んでしまう。さらに、シレーヌにいる外星人のうち1人を殺して、なりすましはじめた。
シッセルはどうにかして、仮面の下に隠されたアングマークを捜し出そうとする、というあたりにミステリーっぽさがある。最後、シッセルはアングマークに逆に追い詰められてしまい危機一髪となるのだが、シッセルがなした数々の無礼がもとで大逆転が生じるエンディングを迎える。
なお、「月の蛾」はシッセルが着けている仮面の名前なのだが、みすぼらしい仮面で、新参者が着用するものとしてはそれが妥当なのだが、領事代理で着任したはずのシッセルにとってはちょっと納得がいかないものなのである。
ところで、ジャック・ヴァンスWikipedia見てたら、エラリー・クイーン名義の作品があるとあってびっくりしてしまった。クイーンは、「ダネイがプロット担当、リーが執筆担当」の共同ペンネームだけど、リーの筆力が衰えたために、別の人が小説書いてた時期があるのか(ヴァンスだけじゃなくスタージョンとかも書いてたらしい)。知らなかった。
Wikipedia見てると、バンジョーとカズーを演奏するヴァンスの写真とかあって、なるほどなーと思った。本作、架空楽器の説明が非常に詳しくて、あたかも実在する楽器かのように注釈で説明が入っていたりする。
金属片を並べたキヴ、共鳴箱に鍵盤のついたザチンコ、他にガンカやストラパン、ヒマーキンなど。

中村融「変革の嵐が吹き荒れた時代」(巻末解説)

1960年代はカウンターカルチャーの時代であり、また、SFにおいてはマンネリ化が指摘され、その打破を目指すものとしてニューウェーブ運動が起きた時代。
J・G・バラードが「内宇宙への道はどれか」でSFのマンネリ化を指摘し、その打開策を提示した。マンネリ化への指摘は多くの人が認めたが、その代わりにバラードが提案したものにたいしては賛否両論。
イギリスで、マイケル・ムアコックが『ニューワールズ』誌の編集長になると、バラードとオールディスを積極的に起用し、ニューウェーブ運動の中心地となる。
ムアコックって、エルリック・サーガの人という認識しかなかったので、名前出てきてびっくりした。
一方のアメリカでは、ニューウェーブは雑誌よりも、デーモン・ナイトの『オービット』シリーズや、ハーラン・エリスンの『危険なヴィジョン』などのアンソロジーで展開された。
そういえば『危険なヴィジョン』ってわりと最近、ハヤカワ文庫から出てて話題になってたけど、SF史に疎いせいで「へーそういう本があったんだー」くらいの温度感でしか触れていなかったが、ようやくどういうものなのか分かった。
60年代はニューウェーブの時代ではあったが、後半になると、スペオペヒロイック・ファンタジーのリヴァイヴァル・ブームもあったらしい。E.E.スミスの再評価とかがあったらしい。
また、カウンターカルチャーへの影響という点で『デューン砂の惑星』と『異星の客』が特筆すべき作品、とのこと。『異星の客』の場合は、マンソン・ファミリーに用いられていたという、どちらかというと負の影響。
このあたりも自分がSF史疎くて知らなかった部分だが、「ああ、マリリン・マンソンの元ネタの名前の由来の人か」とか「オウムとヤマトの関係みたいなものか」とか思った。
また、『2001年宇宙の旅』や『アルジャーノンに花束を』もこの時代とのこと。
自分は現代のSF小説は読んできたけど、SFについて、特にSF史について書かれた本って全然読んできてなかったなあと思った。そのあたりもいつかフォローしておきたい。