モリス・ワイツ「美学における理論の役割」、ケンダル・ウォルトン「芸術のカテゴリー」

それぞれ、若手美学研究者である松永さんと森さんが翻訳をnoteで公開して、話題になっているもの。
M. Weitz「美学における理論の役割」|まつなが|note
K. Walton「芸術のカテゴリー」|morinorihide|note
これらの論文については、上記noteにおいて、訳者自身によって要約が書かれているので、要約はそちらに任せたいところ。
「芸術のカテゴリー」についてはさらに
ウォルトンのCategories of Artを全訳しました。補足と解説。 - 昆虫亀
Kendall Wallton「芸術のカテゴリー」 - うつし世はゆめ / 夜のゆめもゆめ
上が訳者あとがき的な解説となっており、ウォルトンに対する反論とそれへの再反論の紹介と、Laetzによる解説の紹介
下は、高田さんによる解説記事

モリス・ワイツ「美学における理論の役割」

読んでみたら、結構短い論文だった。
芸術理論というのは、芸術とは何かと定義しようとする。ここでワイツは、形式説、情動説、直観説、有機体説、主意説を取り上げているが、そもそもそうした定義は芸術については不可能なのだと。
芸術やその下位概念は「開かれた概念」だという。
「開かれた概念」というのは、概念の適用条件が改訂可能・訂正可能であるもの。だからこそ、そもそも定義することが論理的に不可能
「閉じた概念」は、完全に定義されているもの。ワイツは、そういうのは論理学や数学にしかないと述べている。
例えば、「『フィネガンズ・ウェイク』は小説か」と(『フィネガンズ・ウェイク』が現れた時に)問うたとして、これは、小説というのが定義されていて該当作品がこれに当てはまるかイエスかノーで事実として答えられる、というものではない。むしろ、これを含むように小説という概念を広げるか否かを「決定」しなければならないのであり、それが「開かれた概念」である、ということ。
まあ、だから、「芸術とは○○である」と定義するのは論理的に不可能だ、ということなのだけど、それじゃあ、そういう理論を作ることは無意味なことなのか、といえばそうではない、と。
つまり、「美学における理論の役割」というのは、芸術の定義を決めることではなく、別のところにある。
「これは芸術だ」っていう時、それは記述であることもあるけど、評価でもある。つまり、「これは芸術だ」っていうのは、「これは○○という定義にあてはまる」と言いたいというよりは、「これは素晴らしい」の言い換えだったりする。
そういう場合に、「芸術とは○○だ」と芸術を定義する理論というのは、「今まで誰も○○について見てこなかったけど、お前らこの○○に注目しろよ」と言うことであって、それはちゃんと価値あることだ、と。


ところで、「開かれた概念」について論じるにあたって、ウィトゲンシュタインの「家族的類似」の議論を紹介しているのだけど、その際に『哲学探究』が「最近の著作(new work)として紹介されていて、なるほどそういう時期なんだなあーと思った。
哲学探究』が1953年、この論文が1956年。

ケンダル・ウォルトン「芸術のカテゴリー」

森さんも高田さんも面白い、面白いと言ってたけど、実際、面白かった。
ゲルニカス(この翻訳では「ゲルニカ式」)の思考実験が出てくる。


芸術作品の美的性質について、ウォルトンはこれが知覚されるものだと考えているのだけど、当の作品だけをただ見たり聞いたりしてればそれで判断できるのか、という問題
カテゴリー知覚があって、カテゴリー知覚のもとで、美的性質も知覚される。
カテゴリー知覚というのはつまり、「この作品は絵画だ」とか「映画だ」とか、もっと細かく「キュビスム様式の絵画だ」とか
標準的特徴、可変的特徴、反標準的特徴というのがあって、
標準的特徴は、それがあるとそのカテゴリーだなって分かる特徴
反標準的特徴は、それがあるとそのカテゴリーじゃないなって分かる特徴
可変的特徴は、それがあってもそのカテゴリーであるかどうかに関係ない特徴
例えば、「平面的」なのは、絵画にとって標準的特徴、何か出っ張りがついてたりすることは、絵画にとって反標準的特徴、どんな色で塗られているかは、絵画にとって可変的特徴
美的な判断にとっては、可変的特徴が関与してくる。
つまり、この絵がいいかどうかは、何色で塗られているかとかそういうことが大事。平面であることは、絵だったらみんなそうだから、美的判断には関わってこない。
美的判断は、カテゴリーに相対的
ここで出てくるのが、ゲルニカ式という思考実験。
ゲルニカ式という芸術カテゴリーがある。これは、『ゲルニカ』のような色で塗られている立体作品のカテゴリー。
絵画として『ゲルニカ』を見ると、それは激しいという美的性質を持っていることになるけど、ゲルニカ式として『ゲルニカ』を見ると、むしろそれは(平面的であるので)おとなしいと判断されるだろう、と。
そして、議論としてはさらにもう一段階あって、ある作品が何のカテゴリーに属しているかというのは、正しさがあるだろう、と。
ゲルニカ』を、ゲルニカ式として見ることは不可能ではないけど、やっぱりそれは間違ってるでしょ、と。
じゃあ、その作品が何のカテゴリーに属しているかどうやって判断するのかというと、それには作者の意図ととか作られた当時の社会通念とかそういった歴史的事実が関わってくるのだ。と。ここで、「意図についての誤謬」論への反論がなされている。
それじゃ、正しいカテゴリーが分かれば、それで正しく美的性質を知覚できるのか。というと、そうではなくて、訓練も必要だという話もしている。同じカテゴリーに属する他の作品を沢山見ることによって、美的性質の知覚が訓練される。


歴史的事実を知らなければ、正しく作品を鑑賞することは絶対にできない、という強い主張ではない。
歴史的事実を知らなくても、たまたま正しいカテゴリー知覚をしていて、正しく鑑賞できるという場合も認めてる。
ただ、何が正しいカテゴリーなのか、ということを決めるのには、歴史的事実が関与している。


描写・再現についても、標準的性質と可変的性質というのを使って説明している
絵画が何かを描写しているのはどうしてか、というものに対して、類似しているから、というのがあるけれど、絵は平べったいわけで、その意味では描かれているものと全く似てはいない。
これに対して、絵が平べったいっていうのは絵の標準的性質だからそれは、「何を再現しているのか」には関与していない。可変的性質が関与している、と。一方で、標準的性質が、どういう種類の再現なのかを決定するのに役に立つ、と述べている。
グッドマンの説とはもちろん違うのだけど、「どの種の再現なのか」というあたりに、どこか通じるところもあるような感じがしている。
ウォルトン自身は、慣習によってたつ点で自分の説はグッドマンと似ていると述べている。


ちなみに、英語論文は以下のアンソロジーに収録されてる

Aesthetics and the Philosophy of Art: The Analytic Tradition: An Anthology (Blackwell Philosophy Anthologies)

Aesthetics and the Philosophy of Art: The Analytic Tradition: An Anthology (Blackwell Philosophy Anthologies)