ジョン・カルヴィッキ『イメージ』(John V. KULVICKI "Images")前半(1〜5章)

イメージの哲学の教科書
ROUTLEDGEのNew Problems of Philosophyというシリーズの一冊
全部で9章構成で、大きく前半と後半に分けられる。
前半は、描写についての説を5つ紹介している。これらは20世紀半ば以降のもので、ゴンブリッチからの影響を受けている。基本的に英語圏の話だが、とあるフッサリアンに言及がされている項目があったりする。
後半は、イメージについてのトピックをいくつか論じている。リアリズムというテーマから、科学的イメージや心的イメージといった美学ではあまり取り扱われないであろうテーマまで。


英語の本で、日本語の本より読むのに時間がかかるので、前半と後半にわけてブログに書くことにした。
後半:ジョン・カルヴィッキ『イメージ』(John V. KULVICKI "Images")後半(6〜9章) - logical cypher scape


前半は、描写depictionや図像pictureについての5つの説
イメージimageと図像pictureは区別されていて、pictureは写真とか絵画とかで、イメージはpictureではないようなイメージ(図とかグラフとかfMRIイメージとか)も含んだ総称。描写depictionは、図像pictureに対して使われている。
最初の5章で紹介されるものは、描写とか図像とかについてのものだけれど、ふり説と構造説はより広い範囲に適用される。特に、構造説は、図像ではないイメージも扱える。
at_akadaさんが、5つを簡単に要約しているので、そのまま引用させていただく。

経験説
図像は特異な経験によって対象を描写する。主にWollheimの「内に見る」説
認知説
図像は対象を再認する私たちの認知能力によって対象を描写する。Lopes、Schier
類似説
図像は対象に類似することで対象を描写する。Hopkins、Abell
ふり説
図像が対象を描写するのは、私たちが図像を見て、対象を見ているかのようなごっこ遊びをするから。Walton
構造説
記号と対象の関係を特徴づけることで図像を他の記号から区別する。Goodman、Kulvicki
John Kulvicki『イメージ』 - うつし世はゆめ / 夜のゆめもゆめ

1 経験

経験説によれば、図像は特徴的な経験を引き起こすことによって、他の再現reprensentationから区別される。
図像の経験には「二重性duality」がある。図像そのものとそれに描かれているものの両方を経験するということ。2つの経験をどう一貫したものとして捉えるのか、ということが問題となる。
ゴンブリッチ
ヒルウサギの図で、解釈が切り替わると見えるものが変わるように、図像そのものと図像に描かれているものとが揺れ動くと考えた。
それに対して、ウォルハイムなどは、カンバスとその内容を同時に見ているのであって、それらは解釈の違いではないとする。
Ziff
1つの対象に対する2つの質(flatとdeep)についての記述だと考える。
ウォルハイム
1つの対象ではなく、2つの対象についての経験だと考える。さらに、カンバスが属する物理的な空間と、その空間とは関係ない、描かれた空間という、2つの別々の空間にあるものとして経験されている、と。フッサリアンであるWiesingも同じような考えを持っている。哲学ではなく心理学の方にも同様の考え方を持っている人たちがいる。
カルヴィッキとNewall
2つの対象を同一の空間で経験していると考える。
ポランニ
カンバスとその内容を同時に経験するのだけど、それはその2つが融合した、特別な質をもった経験だと考える。
後期ウォルハイム
ウォルハイムは、初期と後期とでちょっと違っていて、2つの特徴的な側面をもつ1つの経験をしていると考えるようになる。これが、「〜の中に見るSeeing-in」で、2つの側面をもっていることを「二面性twofoldness」と呼んでいる。描かれているシーンについての認識とカンバスや紙の表面についての認識が相互依存しているということに着目する。
ポランニとウォルハイムはちょっと似ているんだけど、ポランニがその経験は超自然的な質を持っているとか言っているところが違う。

2 認知

認知説は、図像が、描かれている対象に対する認知的反応と同じ反応を引き起こすという。
SchierとLopesがその論者だけれど、NeanderやSartwellも貢献しているし、ルーツとしてはゴンブリッチがいる。最近では、ホルムヘルツやデカルトに遡ったりもしている。

  • 認知の6つの特徴

(1)視覚的認知なしでも、視覚的に知ることができる。(ジェラルドがどんな見た目の人かは知らないけれど、隣の部屋で酒を飲んでいる人がジェラルドだということは知っている。それで、隣の部屋へ行って酒を飲んでいる男を見ることで、ジェラルドを知ることになるけれど、それは視覚的に彼がジェラルドだと認知したわけではない)
(2)何かを認知したとしても、それが何であるかを説明するのは難しい。
(3)認知は経験に影響する(一度認知すると、経験が再構成されて戻せなくなる)。
(4)認知は相互に一貫性を必要としない(錯視や錯覚)
(5)認知は多くのコンテクストを横断する(ジェラルドを認知できるようになったら、昼だろうと夜だろうと帽子をかぶっていようと認知できる)。
(6)認知は時々失敗する(そこにないものを見てしまうことがある。絵は、見てるものを欺そうとしているわけではないけれど、認知が失敗して、絵に描かれているものはそこにないけれど認知する)


PがOを描写しているのは、適切な状況下において、Pが、見る者のOを視覚的に認知するための適切な能力を引きだす時である。
認知説にとって本質的な主張は、(例えば猫を)視覚的に認知する能力が、その絵に何が描かれているか(猫が描かれていること)を理解するのに中心的な役割を負っているということである。
認知は生成的=上述の(5)。これがあるから、一度イメージの読み取り方が分かると、他のイメージも分かるようになる。言語と違って、習得しなくていい。
絵は見る者を欺しているわけではない。見る者は、絵がフラットであることなども認知しているから。


Lopesは、図像的システムを他のものから区別しているものが何か説明するのに、2つのレベルがあると考える。内容認知content recoginitionと主題認知subject recognitionである。

  • 類似説との関係

同じ反応を引き起こす=似ている?
Neander
自分では類似説を名乗っていて、また、図像が描かれているものと特徴を共有しているとも考えているので、認知説ではない。類似と認知的反応
Sartwell
個々の図像は、それが描写しているものと性質を共有しており、それが図像がどのように認知的反応を引き起こすかを説明する役割を担っている
類似説は、NeanderやSartwellとは区別される。類似説は、認知を中心的な役割と考えないし、類似が図像にとって特徴的なもの、中心的なものと考えている。


  • 経験説との関係

認知説による説明は、経験説よりも広い範囲をおさえる。ウォルハイムは、だまし絵について、二面性の経験がないので図像だとではないとするけれど、認知説はそのような見方には与しない。


  • 認知説の起源

ゴンブリッチ
認知に注目していた。描写における類似は、性質の共有よりも認知的反応によると考えていた。
ヘルムホルツ
絵による心理的反応と対象それ自体による反応が同じ
ShierやLopesよりは、NeanderやSartwellに近い
デカルト
イメージは似ているからそのように見えるのではなく、そのように見えるから似ている、と。


3 類似

類似説は、類似を描写についての説明の中心におく。
Abell、Hyman、Hopkinsがいる

  • グッドマンによる批判

類似は、遍在性、対称性、多種多様さ、反射性があるけど、再現representationにはそれがない
言葉と図像の違いを説明するのに「類似」を持ち出すとしても、その類似は描写と独立でないと役に立たない。

  • Abell

類似とコミュニケーション意図
グライスのコミュニケーション意図を用いて説明する

  • outline shapeとocclusion shape

この2つが何のことか全然分からなかったので、英文をそのまま引用

outline shape
The solid angle that an object subtends from a point in space. Objects typically have many outline shapes, corresponding to the different points aroud them. Outline shapes are two-dimensional, in that they can be difined in terms of two values, but they are not flat.

occlusion shape
Fromt a point, the shape on a plane, perpendicular to one's line of sight, that would completely occlude a given object. Occlusion shapes are flat.

あるポイントからだと、1つの対象は1つだけのoutline shapeを持ち、複数のocclusion shapeを持つ
内在的特徴が異なっても、同じoutline shapeを持つことがある(柄の違う2つの立方体)
これら2つの形は、相対的だけれども、主観的ではなく客観的である

  • Hyman

occulusion shape principle(OSP)
「描写されている対象Oと、Oを描写している図像の最小部分であるPの、occlusion shapeは同一」
図像の特徴は、図像の表面と描写されている対象の関係で、それは見る者の心理的反応に依存しない
OSPはつよすぎるのではないか

  • Hopkins

S(表面)の中の一部分PがOに見ると言うことは、Pがoutline shapeにおいてOに似ているように見えることである
実際の類似よりも、そのように経験されることがポイント
カリカチュアは、歪んだバージョンと類似
Hopkinsは、特別な種類の経験を図像のコアだとしている点でウォルハイムとも似ている

  • グッドマンへの反論

Hymanは、描写から独立しているという
Hopkinsによれば、outline shapeの経験された類似というのは、対称性、反射性、遍在性を満たしてない


1)図像は、対象と全ての点ではなく、いくつかの点で似ている
2)図像が対象と似ている点は、それらが何を描写しているかということと関係がある。形は、何を描いているかと関係あるけど、図像の重さは関係ない。
3)Qという質において似ているということは、図像がその対象をQであるとして再現しているということ
類似に気付くことによって、図像の内容を知る

4 ふり

ごっこ遊びは、我々の想像と世界とのあいだのコラボレーション
フィクショナルに真というのは、世界のあり方に依存してたり、想像から独立してたりする(石をりんごだとするごっこ遊びで、石が2個あったら、ごっこ遊びの中でリンゴは2個あるのあって、1個だったりすることはできない)。


ゴンブリッチは、遊びが再現という実践の中心であることを『棒馬考』で示してる。
おもちゃの馬は、馬を再現representしているのではなくて、遊びの中でそれは馬なのである。再現としてではなく代理物として使っている。
図像を代理を使った遊びのバリエーションと捉える。
図像は、視覚だけを使ったゲーム。ものそのものの代理物というよりは、ものとの知覚的な遭遇の代理物


絵を見て女性の姿を見るというごっこ遊びをする。葉っぱを見て、女性の姿を見るというごっこ遊びはできるか。葉っぱを見て女性の姿を想像することはできるが、葉っぱはその過程を助けてはくれない。葉っぱは、視覚的なごっこ遊びのよい「小道具」ではないのである。
図像の内容は、ごっこ遊びで真になっている何か
ごっこ遊びにおける真は、図像の性質からきている
現実世界の知覚的な行動が、ごっこ遊びの知覚的な行動となる(?)
この過程は、self-conscious
Pであることを「ごっこ遊び的に知っている」なら、Pが「ごっこ遊び的に真であること」を知っている
図像自体の性質からごっこ遊びのシーンを明示的に推論する必要がないと、内面化されている


類似とごっこ遊び
図像と対象の類似が、図像を素晴らしい「小道具」にするのに役割を果たす


内面化されたルール→世界と知覚的にインタラク
描かれたものと知覚的にインタラクトする行為は、対象自身に向き合ったならするだろうのと同じ行為
図像は、それらの対象と、dsiplacedまたはindirectな知覚的インタラクションをさせる。これを、ここでは「Waltonian mimicry」と呼ぶ
この種のmimicryによって、実際に見ることによってえられるのと同じ情報を図像から得る


ごっこ遊び説に対する反論
ウォルハイム、Shier、Lopes
ごっこ遊びによって、描写は説明されるのか
小道具であるということがあるものを図像にするのであるということに同意しなくても、それが視覚的なごっこ遊びの優れた小道具であることに同意することは可能


音のごっこ遊びもある


グラフや図といった、広義のイメージにもごっこ遊びは使える
例えば、天気図。色を見ることで、嵐の強さをごっこ遊び的に示す。でも、その色は嵐の色を示しているわけではない。
純粋に視覚的ではない。
グラフのノードの関係を見ることは、メンバーの関係を見ることにはなるが、ノードを見ることがメンバーを見ることにはならない

5 構造

意味論的特徴と統語論的特徴と付随的特徴の3つがある
セピア写真は色合いを持ってるけど、色をrepresentしてないので付随的特徴。図像の重さとかも付随的特徴


グッドマンは、図像の特徴として、相対的充満と統語論的稠密、意味論的稠密をあげる。
カラー写真で色は統語論的特徴だけど、白黒写真において色は付随的特徴、このとき、カラー写真は白黒写真よりも充満
図像が統語論的に稠密だとすると、アナログ画像しか認めないのか。デジタルはイメージ生産の手段で、できた物は統語論的に稠密なものとして解釈される


一方、カルヴィッキは、充満と統語論的sensitivity、意味論的豊富さをあげる。
稠密さは、稠密かそうでないかでしかないが、sensiticityは程度
文章の書かれた紙を描いている絵がある。この文章のフォントを変えたとする。絵においては、それによって統語論的にも意味論的にも変わるが、文章においては、それらは変わらない。絵は、文章よりsensitiveだといえる。
気温のグラフは、稠密だしsensitiveだけれど、充満じゃない
統語論的な要素と可能な意味論的な内容が同じくらい多いとき、意味論的に豊富
icon(宗教画のそれやパソコンに使われているそれ)は、意味論的に豊富じゃない


さらに、これらの特徴を備えているが、図像でないものもあげられる(温度に応じて色がプロットされる平面、Hopkinsによる)。これにグッドマンはちゃんとこたえていない
カルヴィッキは、透明性transparency*1という特徴もあげる。
透明性は、図像の図像が、同じbare-bones contentを持っていることを求める
補色になる写真=葉っぱの緑色が赤色になる。統語論的に同一じゃないから、「透明」じゃない。


透明性をもっていないイメージもある。
fMRIのイメージとか、図像とは呼びたくないけど、イメージではある。
透明性はもってないけど、類似ではある
さらに類似でもなくて、同型isomorphicなシステムもある。例えば、水銀の温度計とか
透明性<類似<同型isomorphic


構造説は、モダリティを横断して説明できる。
科学的イメージや心的イメージも説明できる。


透明性については、以下の記事も
画像的再現のサーベイ論文 (3) - 9bit
画像的再現のサーベイ論文の補足 - 9bit

感想

経験、認知、ふりの3つに、ゴンブリッチが出てくるので、ゴンブリッチが気になってきた。
前からちらちらと気になってはいたけれど、本格的に。このあたりで書かれていることは、『芸術と幻影』とかだろうけど、普通に『美術の物語』も気になる。
あと、類似説に、グライスへの言及があった。美学関連に結構な頻度で言及されている気がするので、いずれ読まなければならないとは思っている。
ウォルハイムの「Seeing-in」とかについて知りたいと思っているのだけど、思ってた以上に難しそうな印象。
っていうか、英語の本読んでいると、よく分からない部分というのは多々でてくるのだけど、内容が難しいせいなのか、自分の英語読解力が低いせいなのかっていうのが分からなくなってくる。
類似説は、outline shape occulusion shapeという基本的な概念がさっぱり掴めなかったので、全体的にもよく分からなかった。
グッドマンへの反論は面白かった。
少なくとも、類似がubiquitasだっていうグッドマンの主張は、ちょっとどうなのという感じはしないでもない。どんなものも何らかの点で似てるって、そうかもしれないけど、そうは言っても、似ているものと似ていないものはあるでしょう、みたいな。
対称性のない類似ってのは、具体例思い浮かばないけど、なんか気になる。
認知説も、あまりちゃんと分かったとは言えないけれど、これが一番有望なような気はする。
カルヴィッキの透明性も、あんまりよく分からないなあ
写真以外にあてはまるものがあるのかということがうまく想像できない
ふり説と構造説は、他の3つとは少し違う感じ
ふり説、というかごっこ遊び説は、描写とは何か画像とは何かというレベルではなく、もう少し高位のレベルで働いている感じ。
あと、自分が、ウォルトンとグッドマンを読んだことがあったから、読みやすかった、それに加えて、それぞれの本には書いていなかったようなところまで書かれていたのがよかった。

追記

トラックバックがとんできてるけど、akadaさんが、outline shapeについて記事を書いてくれました
ありがたい
ありがとうございます

ホプキンズは類似説を取るので、この状況で、二次元の図像が三次元のピラミッドを描写していると言えるのは、図像とピラミッドの間に何らかの類似関係があるからであると考える。
では何が似ているのか?
ホプキンズによれば角度である。

角度だったのかー

描写の定義に関してホプキンズがとる戦略を説明しておくと、ホプキンズはグッドマンみたいな類似説批判(図像が対象に似てるって言うけど、あらゆるものはあらゆるものに何らかの面で似ている)に対し、ちゃんと似ているポイントを定義できると示す。次に、上のような類似が実際に図像と対象の間になかったとしても、「そのように経験されればよい」という形で定義を複雑にする(経験された類似説)。という二面戦略をとっている。

Hopkinsのアウトラインシェイプの定義 - うつし世はゆめ / 夜のゆめもゆめ

*1:ウォルトンのいう透明性transparencyとは違う