John Kulvicki "Modeling the Meanings of Pictures"(2章まで)

カルヴィッキによる画像の意味についての本
言語哲学を応用し、言語的表現と比較しながら論じられる。
具体的には、カプランの「内容」と「キャラクター」の区別を画像にも適用するというもの。


第1章で、本書全体の概要を説明している。
その中で本書をミーニングスレッドとパートスレッドの大きく2つに分けている。
これは、いわゆる意味論と統語論とに対応する。
ミーニングスレッドは、2章と4、5、6章
パートスレッドは、3章と7、8章
また、
理論編が2章と3章、
応用編が4章以降
という別の分け方もできる。
3章まで読んでもらって、4章以降は興味あるトピックだけ読めばいいよ、的な感じらしい。


第3章まで読み終わったらブログ記事を起こそうと思っていたのだけれど、第3章読み始めたあたりで読むのが止まってしまって、現在数ヶ月にわたって読むのを中断している
いずれ再開したいと思いつつ、当面は別の読書している予定でいつ3章読み終わるか分からないので、年末の整理ということで、第2章分までで記事化することにした。


カルヴィッキについて過去に読んだもの
ジョン・カルヴィッキ『イメージ』(John V. KULVICKI "Images")前半(1〜5章) - logical cypher scape2
ジョン・カルヴィッキ『イメージ』(John V. KULVICKI "Images")後半(6〜9章) - logical cypher scape2


カプランについて過去に読んだもの
八木沢敬『意味・真理・存在 分析哲学入門中級編』 - logical cypher scape2
『言語哲学重要論文集』 - logical cypher scape2

1:Pictures, communication, and meaning
2:Character, content, and reference
3:Parts of pictures
4:Pictorial dthat
5:Iconography
6:Metaphor
7:Direct reference in pictures and maps
8:Distinguishing kinds by parts

1:Pictures, communication, and meaning

冒頭で述べたように、本書の構造としてミーニングスレッドとパートスレッドがあることが説明される
で、それぞれのスレッドについての概要

  • ミーニングスレッド

画像は記述のようなもの(ただし、確定記述とか不確定記述とかの区別はない。多くの言語でそもそもこの区別はなくて、画像も同様だ、と)


まず、文脈に独立して記述的内容を持つのか、という問題
ここで、カプランが指示詞や指標詞の分析に用いた、キャラクターと内容という、2種類の意味の議論が参照される
指標詞は、非コンスタントな「キャラクター」をもつ。これは、文脈のなかで「内容」へと肉付けされる
一方、多くの言語表現は、全ての文脈で同じ「内容」をマップする、コンスタントな「キャラクター」をもつ
近年の言語哲学では、指標詞以外にも、文脈に敏感な表現が研究されている。
画像もそのような文脈に敏感な表現。
解釈に開かれているが、何でもありというわけではなく、制限されている。
文脈に敏感ではない意味をもち、それが文脈に応じてより細かい何かに肉付けされる
カルヴィッキが画像についていう「骨だけ内容」というのが、文脈によって変わらない意味=画像的キャラクター
画像的キャラクターが、文脈の中で、画像的内容へと肉付けされる。
さらに、この画像的内容が、特定の個物を内容として持つことができるか、という問題
カプランは、記述が特定の個物を指示する方法としてdthatという用法を挙げている。
カルヴィッキは、画像もdthat的内容を持つことがあるとする。
さらに、dthat以外にも、画像が特定の個物を内容として持つ方法として、イコノグラフィックな内容とメタフォリックな内容を挙げている。
4、5、6章がそれぞれ、dthat、イコノグラフィ、メタファーに対応する

  • パートスレッド

画像の部分が、どうやって画像全体の意味をもたらすか
画像は、文と違って文法はもたないけれど、部分にばらしてそれがどのように意味に寄与しているか問えるという点で、構文論的である。
関連して、地図と画像の違いも論じられる。
地図は画像と異なり、(1)骨だけ内容を持たず(2)よりリッチな意味論的・統語論的構造がある


最後に、この本は描写の理論についての本ではないことが述べられている
(つまり、類似説とか経験説とか構造説とかメイクビリーブ説とかについて説明したり、どれかの立場にたつわけではない、と)

2:Character, content, and reference

まず、カプランの説明
キャラクターは、文脈から内容への関数
内容は、評価の状況から外延への関数
指標詞は、評価の状況にまたがって個体は同じ
確定記述は、評価の状況が異なると、異なる外延を運ぶ。確定記述の内容は、評価の状況から外延へのコンスタントな関数ではない。キャラクターは、内容へのコンスタントな関数


画像について説明するにあたって、3枚の椅子の写真をあげる。ただし、これ見た目は普通に椅子の写真なのだが、椅子の写真の写真だったり、張り子の椅子の写真だったりする
これら3枚の写真は、ある意味では同じなのだが、異なる内容を持つ。
画像の特徴には、画像が何を表しているのか関係する特徴とそうでない特徴があり、前者を構文論的特徴と呼ぶ。例えば、明暗のパターンは構文論的特徴
これら3枚の写真は、構文論的には区別できないが、意味論的には異なる。


骨だけ内容(bare bones content)は、台形の形をしていることは特定するが、斜めから見た四角なのか、正面から見た台形なのかは特定しない
画像には、文脈によって異なる内容と文脈によらず同じ内容がある
骨だけ内容は、文脈によらない意味論的な何か。画像的キャラクターpictorial characterである
画像は純粋な指標詞というわけではないが、同じようなもの
画像的内容は、骨だけ内容(画像的キャラクター)を、適切で認識可能に明確化したもの
明確化は、コミュニケーションの文脈に依存しないが、適切さ・認識可能であることには依存する。
画像的内容(pictorial content)は文脈に応じて変わる。言語における、文脈に敏感な表現と似ている。ただし、何でもありというわけではない。
画像的内容は、特定の個物やシーン(paricular individuals or scenes)を含まない。
画像が他の表象と異なるのは、特定の個物の表象だからではなく、いかに統語論的特徴が骨だけ内容を制限し、骨だけ内容が画像内容を制限しているかという点が異なっているから。
画像が、指示的に用いられることはある。その場合、個物は、画像の内容(contents of picuteres)になっていることはある。しかし、画像的内容(pictorial content)ではない。これについて詳しくは4章以降で扱う。
指示代名詞は、個物を提示する方法。つまり、ここや今から、このように見えるものとして個物を提示する。異なる文脈では異なる個物を切り取る、非一貫したキャラクターである
画像は、指示代名詞のように、個物ではなく特徴のパターンを選び出す


画像が満たす特徴をあるシーンが持っていることをもってのみ、画像は特定のシーンを指示する。これは記述と同じである
言語的記述には、確定記述と不確定記述があり、この二つの違いをどのように解するで言語哲学に論争がある(意味論的に違うのか、語用論的な違いなのか)
画像には、aやtheのような統語論的なマークはない。画像は記述的だとしても、確定記述でも不確定記述でもない


解釈者が、画像が指示するものがなにか知ることができるのかという心配
例えば、画像の特徴を完全に満たす実際のシーンはあまりないし、ニクソンを指示しているが、ニクソンを含むシーンは指示していないような絵をどのように解するかという問題もある
詳しくは3章になるが、画像の場合、言語と違って、解釈者はディテールを無視することをいとわない。
チャリティではなく、共有された基準に基づくことが多い

この本を読んだ経緯や感想など

obakeweb.hatenablog.com
上記の記事が、第5.2節において、「ところで、当の問題については、先日シノハラさんもTwitterで提起されていた。」といって、当時の僕のツイートを引用した上で、グッドマンやビアズリーの見解とともに、問題を整理してくれている。
この記事は、最後にこのようにしめくくられている。

私が問題にしたいミニマルな内容は結局Kulvicki (2006)の「骨ダケ内容(bare-bones contents)」に相当する水準かもしれない。しかし、当の水準に関するKulvickiの説明はどうもクリアでなく(そもそも元ネタであるHaugelandの説明がクリアでなく)、正確にどのような内容なのか分かりかねている。引き続き言語とのアナロジーを探ることは、骨ダケ内容の実質を明確化するためのヒントともなるだろう。おそらく、Kulvickiの新著もこれが目的のひとつとなっているのではないかと予想している。

ここで言われている「Kulvickiの新著」が本書である。
本書は、骨だけ内容を、カプランのキャラクターという概念で明確化しようとしていると言えるだろう。
その上で本書は、(普通は画像は個物を指示しないが)(ある場合において)どのように画像が個物を指示しうるのか、ということを概ね論じているのかな、という感じである。
ただ、この銭さんの記事第5節や僕のツイートでは、個物の指示ではなくて、画像は一般指示をするのか(するとしたらどのようにしてか)、ということを問題として取り上げていて、それに対する直接の回答は本書にはなさそう、という気がしている。
とはいえ、カルヴィッキは、画像は記述のようなものだとか、画像は指示的に用いられることはあっても基本的には個物を指示していないとか述べているので、そのあたりはヒントになりそうである。
また、これとは全然関係なく、画像と地図の違いの話は気になるなあと思った。