ジョン・カルヴィッキ『イメージ』(John V. KULVICKI "Images")後半(6〜9章)

イメージの哲学の教科書
ROUTLEDGEのNew Problems of Philosophyというシリーズの一冊
全部で9章構成で、大きく前半と後半に分けられる。
前半については、ジョン・カルヴィッキ『イメージ』(John V. KULVICKI "Images")前半(1〜5章) - logical cypher scape


前半では、描写について、経験説、認知説、類似説、ふり説、構造説の5つの説についての紹介がなされた。
後半では、以下の4つのテーマについて紹介される。

  • リアリズムと非リアリズム
  • 科学におけるイメージ
  • 心の中のイメージ
  • 写真と対象の知覚

科学におけるイメージや心の中のイメージは、美学や描写の哲学ではなく、科学哲学や心の哲学において扱われるテーマであり、本書でも科学哲学や心の哲学での議論に言及されているが、そのようなトピックに対して、美学・描写の哲学からアプローチしようとするものである。
写真についてのトピックも、知覚の哲学へと接近していくものになっている。
後半は、「イメージ」というテーマを立てることで、本書を美学の教科書というよりは、美学とそれ以外の哲学分野を横断するものにしている
筆者のカルヴィッキが、構造説の立場にたつこともあり、後半では構造説の立場からの解説が多い。特に、科学におけるイメージと心の中のイメージについては、構造説だからこそ扱えるトピックともいえる。


前半でも書いたけど、図像pictureとイメージimageは区別されていて、図像は、絵とか写真とか。イメージは、図像以外に、表やグラフなども含めた広い意味で使われる。
representationは、基本的に「再現」って訳そうと思っているのだけど、今回は、なんか日本語として変だなあというところは、「表象」を使ったり、あるいは英語そのままにしたりしている。


各章末には、まとめと文献案内がついている
また、巻末には用語集もついている。用語集は、必要なところだけちらちら眺めただけで、全部は読んでない

英語なので、またもちゃんと読み切れていない部分はあるが、とりあえずまとめ

リアリズムと非リアリズム

リアリズムについて「内容のリアリズム」「方法のリアリズム」「種類のリアリズム」の3種類にわける

  • 内容のリアリズム

情報量が沢山あるかどうか(informativeness)で判断するのが、内容のリアリズム
ShierやHymanがこの立場
色々な要素について描いてあると、よりリアルということになる。カラー写真は、白黒写真に比べてリアル、とか
この立場は、対象を正確に描いているかどうかは関係ない。
Hymanの考え方は、ゴンブリッチにルーツがあるけれど、ゴンブリッチは「リアリズム」という言葉は使っていない。
ウォルトンのrichnessでvivacityなごっこ遊びというのも、このリアリズム
グッドマンの批判
補色になるような描写システムがあるとする(色が反転する写真のような)。これ、情報量という意味では普通の写真と同じだけど、これをリアルな図像とは呼ばない。
情報量の観点だけだど、非リアリズムについても説明ができない

  • 方法のリアリズム

正確性で判断するのが、方法のリアリズム
Sartwellは、類似をリアリズムとしてあげている。
ウォルトンは、知覚的なインタラクションをあげていて、これも方法のリアリズム
正確性というのが、リアリズムにとって重要
リアリズムかどうかというのが正確性があるかどうかで判断されて、その後に、情報量がそのリアリズムの尺度になる、というのが方法のリアリズムの立場
Abell、Lopes、カルヴィッキのそれぞれの立場の同じところと違うところがまとめられているけれど、ちょっとよくわからなかった。正確性の判断をどの点からするか、みたいな話っぽい? 対象の概念とか、見る人がどう見てるかとか、見る人の関心とか
方法のリアリズムは、非リアリズムについて、単にリアリズムの欠如としてではなく、リアリズムと並行したものとして捉えられる。リアリズムと非リアリズムのミックスとか。トマトを赤く描く(リアルに描く)一方で、形の点では非リアルに描くことはできる。

  • 種類のリアリズム

カラー写真の方が、白黒写真よりリアル
という意味では、内容のリアリズムに似ているのだけど、種類のリアリズムは情報量で判断しているわけではなくて、構造説がいうところの、統語論的特徴と付随的特徴で判断する。
カラー写真は、色も統語論的特徴だけれど、白黒写真は、色は付随的特徴でしかない。つまり、カラー写真の方がより充満。
Chasidが、充満の度合いで、図像的リアリズムを論じている。付随的な特徴がほとんどないとき、図像はリアル。
表現主義の画家の絵における色とか、カートゥーン的な線画における線のディテールとか、そういうのを統語論的特徴としては無視することで、図像とすることができる
種類のリアリズムの重要なところは、描写の理論のディフェンスに使えるところ
「あなたの理論だとXは図像pictureということになるけど、Xは全然図像っぽくないから、あなたの理論は間違ってるんじゃないの」と言われたとして、「確かに、わたしの理論でXは図像だけど、それはリアルな図像ではない。図像の範例にはなってない」と反論できる、と。
例えば、全然充満じゃない、線画とか図像っぽくないかもしれないけど、それは図像の範例ではない、ということに過ぎない、と。
グッドマンがこういう論法を使っている。グッドマンにとって、リアルな表象というのはより親しいものかどうか、教えられたものが範例になっている、と。これは種類のリアリズム。
ウォルトンもそういうことを言っていて、よい小道具というのは、知覚的な習慣をうまく利用しているものだ、と。


統語論的特徴を無視すること
図像のある特徴を、統語論的特徴として無視したりすることについてみると、種類のリアリズムと内容のリアリズムとが結びつく
まず、カラー写真と白黒写真の違い
白黒のものを、カラー写真と白黒写真でそれぞれ映したとすると、見た目では区別つかないとしても、何を再現しているかは異なる。白黒写真は、白黒のものとしてそれを写しているわけではない。色という特徴は無視されているから。
統語論的特徴を無視することで、意味論的に分かりやすくなる。おおざっぱな線画とか、線の細かい特徴は無視して、大雑把な形で捉えることができる。
統語論的特徴を無視するという過程は、言語表現にはない。
統語論的特徴を無視するとその特徴は付随的になるけれど、表現的・美的な役割は果たす。表現主義の画家の描く色が、感情とかを表現しているように。
この過程は、逆にも働く。付随的な特徴を統語論的に捉えることをLopesが論じている。
図像の特徴を、統語論的・意味論的に捉えたり、あるいは無視したりすることは、図像以外のイメージについて考えるのに役に立つ。


この章については、以下の記事も。
映像のリアリズムについて - 9bit
Kulvicki『画像』 - うつし世はゆめ / 夜のゆめもゆめ


Lopesのリアリズム(情報量によるもの)については、以下の記事も。
Lopes「図像的写実主義」 - うつし世はゆめ / 夜のゆめもゆめ

科学におけるイメージ

科学哲学では、表象を、構造の保存という観点で捉えるのが強いトレンド
例えば、Hughesのモデル
「denotation」「demonstration」「interpretation」の3つで捉えるモデル

  • denotation

統語論的特徴と付随的特徴を区別して、統語論的特徴を対象となる領域のどの部分にあたるかを分類する。
例えば、ガリレオの図をとって、縦軸の距離が時間を、横軸の距離が速さを指示denoteしてる、とか

  • demonstration

表象の全体と部分について
より左にいくと赤くなって、右にいくと青くなるようなイメージで、点が移動すると赤から青に変わっていくんだな、とか。
推論の代理物になる。

  • Interpretation

対象となる領域に結びつける。demonstarationの部分での、表象における推論が、対象領域における推論となる。


科学的に役に立つ表象というのは、対象と性質を共有している必要はないけれど、構造を共有しているのがいい。
こういう同型isomorphismと結びつけた議論は、図表の説明としては一般的。Giere、Hesse、Fraassen、Contessa、Bailer-Jones,Weisberg
一方、これと違うのが、Suarezの推論生成アプローチ。統語論的-意味論的構造ではなく、推論を促しているかどうかという観点で理解する。


役に立つイメージとなるには、どのような特徴が必要か
extractabilityとsalience

  • extractability

水銀温度計の高さは温度をrepresentしていて、それ以上specificなものがない。このとき、representの内容のその部分は、extractableである。
estractableでない例:私の前のある対象は男性で、分子のかたまりで、細胞の集合で、バイオリニストで友人で云々、これを略して、Fredと呼ぶことにする。Fredはバイオリニストである、けれど、Fredという名前からはバイオリニストだということは分からない。Fredという名前の部分は、彼がバイオリニストであることをrepresentするところがない。(グッドマン)
一方で、生物学的な動物の分類名は違う。分類名の部分から、それが何に属しているかが分かる。名前の集合が、動物学的な分類と構造を共有している。

  • salience

水銀の水たまりの温度計があったとする。その水たまりの温度は、周囲の空気の温度を意味している。類似をうまく利用した表象システムの例であるけれど、役に立たない。温度は目に見えないから役に立たない。水銀を、細長い円柱に入れると、その高さが見えるようになる。これが、統語論的なsalientでも、温度と高さの関係がランダムだったら役に立たない。これが対応しているのが、意味論的なsalient


あと、図像との比較とか
構造説以外(ウォルトンとか類似説とか)による説明とかも紹介している


図像は透明性がある。知覚的性質を再現している。知覚的な代理物として有用。
非図像は、mimeticだけど透明性はない。透明性がない=イメージのイメージと対象との統語論的特徴が同一じゃない。
fMRIの色は、脳活動の色とあってるわけじゃない。でも、色は脳活動と構造を共有している。


Lopesの、石のイラストレーションについての研究は、非図像的イメージの性質を示している。この再現は選択的。考古学者にとって重要な石の特徴をハイライトしてる。

この章については、以下の記事も
John Kulvicki『イメージ』7章「科学的イメージ」 - うつし世はゆめ / 夜のゆめもゆめ

心の中のイメージ

心的状態と人工物との違い
人工物には、作り手がいる(意図をもって作られている)。心的状態は、人工物のように使われない(読んだり見たりされない)。
経験説、類似説、ふり説、認知説では心的状態の説明は難しい。
心理学者のKosslynや、哲学者のソーバー、フォーダーの考える「イメージ」と構造説から、心の中のイメージについて論じる
また、知覚は非概念的内容を持つかどうかの論争。

写真と対象の知覚

写真は、意図と独立に、機械的に作られという特徴を持っている。スクルートンは、写真は表象representationじゃないとも言っている。
写真はイメージであると同時に痕跡でもあるという2つの性質を持っている。写真についての哲学は、芸術の哲学、認識論、科学哲学、知覚の哲学といった色々な哲学を横断する。
ここでは、ウォルトンの写真の透明性*1の議論から、知覚の哲学と関わってくることについて紹介している。


ウォルトンの議論
写真を見ることを通して、文字通り、写真に写っている対象を見ることができる、というもの
写真の対象を、間接的な方法で、見ている。
写真は、視覚的なアシスタント、補助道具。鏡が、反対側をみることができる補助道具であるように、写真は、過去を見ることができる補助道具。
写真は、写された情景に、反事実的に依存している。
もし写された情景が違うようであったなら、写真も違っていただろう、と。
カメラの仕組みと光の物理によって、反事実的な依存counterfactually dependenceは作られている。
もし、機械的に情景を記述する機械があったとする。意図から独立して、情景に反事実的に依存して、情景を文章化する機械。しかし、その機械によって書かれた文章によって世界を見ることができるとはいわない。
写真は、視覚的なごっこ遊びの小道具。実際の事物にたいしてやりがちな見間違いと同じような見間違いをする。
言葉だったら、馬horseと家houseを見間違う方が、ロバdonkeyと見間違うよりありそうだが、写真であれば、馬horseと家houseよりも、ロバdonkeyとの方が見間違う。


ウォルトンへの反論

  • デイヴィッド・ルイス

見ることの条件について、反事実的な依存をあげることまではウォルトンと同じだが、ルイスは「目の前にある」というのを条件に付け加える。記憶が、反事実的な依存によっているとしても、記憶を通して過去を見ているわけじゃない、と。だから、写真を通して見る、というウォルトンの考えを却下する。

  • カリー

ある時計の針の動きと、他の時計の針の動きが連動するようにしたとして、1つの時計を見ても、もう1つの時計を見たことにはならない、と。
これは、ルイスの反論と同じで、見ているものは目の前にあるという考えに基づいている。
こういう考えに対してウォルトンは、「間接的にものを見る」ということを認めないなら、反論になってるかもね、と反応しているっぽい。

  • 反事実的依存の弱点

反事実的依存という関係は、非推移的

  • カリーとキャロル、Cohen&Meskin、Nanay

このあたりは、みんな同じ考えというより、カリーの反論にウォルトンが反論してそれにさらに再反論してとか、ウォルトンへの反論という点では同じだけど、別の方向で反論したりとか、議論を蓄積していった感じ
写真を通してものを見ても、そのものと自分自身の位置について分からない、というもの
これに対して、長くて色々な方向に曲がってる鏡で見たとしても、自分の位置とか分からない、とウォルトンが反論
さらにそれに対して、確かに自分の位置の情報とかは必要ないかもしれないと認めつつ、自分が動いたときに見え方が変わるかどうかという点から再反論。自分が動いても、写真に写っているものの見える角度が変わったりしない、とか。


知覚の対象と写真の対象
知覚経験には多くの多くの原因がある。太陽の光がなければ、見えないし、網膜のパターンがなくても、見えない。しかし、美しい山々を見ている時に、太陽の光を見ているとは言わないし、網膜上の活動パターンが美しいとも言わない。知覚の対象が何か理解するのは、難しい哲学的問題。
同じ問題が、写真にも言える。
写真の対象について、ウォルトンやスクルートンは、それが存在していると主張している。写真というのは、実際に存在しているものよって引き起こされているのは確かである。このことが、透明性テーゼに新しい問題を作る。

感想

後半の方が、英語で挫折した部分が多い
特に、心の中のイメージの章が極端に少ないのはそれが理由
科学的イメージの章の後半とかもそう。


リアリズムの章は、統語論的特徴を無視することというところが面白い。白黒のマンガを見ても、その対象に色がないとは思わなかったりってことだろうし。
科学におけるイメージの章も、読んでて結構面白かった。
非図像的なイメージの話って、鈴木雅雄編著『マンガを「見る」という体験』 - logical cypher scapeとかレフ・マノヴィッチ『ニューメディアの言語』 - logical cypher scapeとかにも出てきたので、それとなんか絡められたりするかなあと思ってたけど、そこはやっぱりまだ距離がある感じではあるけど。
写真のところ、ウォルトンへの反論のとこの議論は、反論それぞれはその限りにおいては納得できる議論だけれど、自分が動いても写真は動かないだろっていう反論は、オキュラスリフトみたいな、VRシステムが出てくるとうまくいかなくなりそうだなあと思った。


構造説、強い、という印象はある。
図像そのものの説明という点ではいまいち弱いところのあるウォルトンのごっこ遊び説(ふり説)も、他への応用という点では他の説よりアドバンテージがある感じがする。
ところで、構造説はグッドマンが提唱したもので、そのグッドマンというと類似説を強く批判したことで有名だけれども、カルヴィッキの構造説はむしろ何となく類似説へと接近しているところがあるのではないだろうか、というような雰囲気を感じた。


この本については、以下の記事も
John Kulvicki『イメージ』 - うつし世はゆめ / 夜のゆめもゆめ


カルヴィッキの書いたものについては、以下の記事も
画像的再現のサーベイ論文 (1) - 9bit
画像的再現のサーベイ論文 (2) - 9bit
画像的再現のサーベイ論文 (3) - 9bit
画像的再現のサーベイ論文の補足 - 9bit
Kulvicki『画像について』 - うつし世はゆめ / 夜のゆめもゆめ


描写の哲学については、以下の記事も
Lopes『図像を理解する』 - うつし世はゆめ / 夜のゆめもゆめ
Abell, Bantinaki編『描写の哲学的視座』 - うつし世はゆめ / 夜のゆめもゆめ


Images (New Problems of Philosophy)

Images (New Problems of Philosophy)

*1:ウォルトンがいう「透明性」とカルヴィッキがいう「透明性」が意味が異なっている