アレステア・レナルズ『反転領域』(中原尚哉・訳)

フィヨルドを北上する帆船は、「大建造物」を探そうとする探検隊を乗せている。主人公である船医は、探検隊と契約して乗船しているものの、この探検にあまり気乗りしない。果たして「大建造物」が彼らの前に姿を現わすが、しかし……という長編冒険小説
アレステア・レナルズというと、ハヤカワSF文庫で1000ページ超えの「レヴェレーション・スペース」シリーズで知られるが、長編の翻訳は長いこと行われていなかった。久しぶり(17年ぶりとからしい)に邦訳された長編である本作は、文庫で400ページほどであり、1冊で完結するので、手頃に読める。


この作品は、ネタバレを避けて読むのが推奨されるタイプの作品で、巻末の解説にも、注意文が付けられている。
ところで、このブログは、読んだ自分の備忘録としての読書メモというのを目的としており、その点、ネタバレへの配慮はあまりしてない。
今回のこの記事も、そういうタイプの記事になる。書影より下からネタバレが始まる。


帯に「超絶展開SF」という惹句が書かれているが、まさに次から次へと展開していく作品であり、
「ああ、なるほど、そういうことね」「いや、どういうことだ」「えー、そういうことだったの」「で、ここでもう一ひねりするのね」「おお、そういうふうに落着するのか」
という感じで進む。
とりあえず、18世紀あたりを舞台にした海洋冒険小説だって思いながら読み始めてもらいたい。
レナルズってそういう作風だったっけ、と訝しむ人も、とりあえずそれはそれとして、読んでもらえればと思うが、ちゃんとSFになっているので、そこは。


フィヨルドを北上する帆船デメテル号は、「大建造物」を目指して航海を続けている。
船医のサイラス・コード、雇われ警備担当のラモス大佐、探検隊長のトポルスキー、地図制作者兼数学者のデュパン、測量器具製作者のブリュッカー、女性言語学者エイダ・コシル、ファン・フュフト船長、マーガトロイド副船長、モートロック船員の9名が主な登場人物である。
「大建造物」を発見し、船を進めていた時、マストが折れてコードは死んでしまう。
死ぬ間際、エイダが、また死んでしまうなんて、と謎めいた言葉を投げかける。
そして、次の章で、今度はデメテル号は蒸気船となっていて(コードがさっきまで書いていた物語の中のように)、パタゴニア沿海を航海している。
舞台設定は異なるものの、物語の要素や構造は、先ほどのフィヨルドでの航海の話のほぼ同様の繰り返しで展開される。
エイダの謎めいた台詞ともども、これはいわゆるループ物か、という展開が繰り返されることになる。
しかし、ループを繰り返す度に、時代は少しずつ進んでいく。
蒸気船の次は飛行船になり、南極から空洞地球を目指すことになる。
このループは一体何なのか、どうやったら脱出できるのか、コードにはループのうっすらとした記憶があるが、どうもラモス大佐にも同様の記憶があるらしい、では他のメンバーはどうなのか
などの疑問が色々と頭に思い浮かぶが、それはそれとして、個々のループにおける冒険の描写がワクワクするものであり、また、「大建造物」の異形っぷりはレナルズの面目躍如といったところがあり、それを読んでいるだけでも結構楽しい。これは渡邊さんによる巻末解説でも「さまざまな時代を臨場感たっぷりに読むことができる、とても贅沢な味わいのある作品」と評されているところだ。
コードが、趣味で物語を作っているというのもメタフィクショナルな趣向を感じさせるかもしれない。
物語の中盤を超えたところで、いよいよこのループの正体が明らかになる。
彼らは実際には、木星の衛星エウロパにある異星由来物体を調査する宇宙飛行士だったのだ。
先行のエウロパ号の乗組員達が行方不明となり、デメテル号の乗組員達が彼らを探すため異星由来物体(「大建造物」)に入り込んだのも、その通りだったが、彼らを助け出せるのは、コードのみであり、しかし、コードはそこから逃避していた。
ここまでのループは、コードが逃避していた「夢」の中だったのだ。
そして、エイダは繰り返し、コードに対して現実に向き合うように仕向けていたのである。
だが、何故デメテル号のミッション・エンブレムにコードとエイダの名前がないのか。何故、コードだけが彼らを助けることができるのか。
ここで、コードが何から逃げていたのか、つまりコードの正体が明かされる。
コードの正体が明かされた後、さらにもう一回、より未来を舞台にした「逃避」が始まったりする。こちらは、エーテル波通信とか出てくる古いスペオペ風になっていて、これもまたコードの逃げ込んだ夢だということは、読んでいて分かるのだが、これによりディック的状況(本当に人間なのかどうか)が演出されているのが面白いなと思った。それでいてそこは本題ではないので、あっさりと終わるんだけど、そのあっさりさも含めて。
肉体を持たないコードが動かすのは、エウロパ号の乗組員の遺体が入ってる宇宙服っていうホラーっぽい絵面がまたなんとも。これが、コードがループ内で見ていた夢の正体でもあり。


最後は、時間制限ありの脱出ミッションとなる。
そしてコードは、トロッコ問題的な倫理的ジレンマに直面することになる。
ここまで数学者の青年デュパンは、どのループでも、球を裏返すという数学的パズルに取り組み、それによりひどい体調不良に陥っていた。
これ、現実世界でも同様で、脱出するためにはこの異星由来物体の三次元的構造を解明する必要があり、それが出来るのはデュパンだけであり、彼に解決して貰うため、意識の閾値レベルを度々あげていたのだが、それは宇宙服の生命維持装置の限界を超える行為であり、彼の命を文字通り削っていた。
(ループ内で起きていた出来事について、現実世界の何が原因だったのかが次々と明かされていくのは、まあ伏線回収みたいな楽しさはある)
本書タイトルの『反転領域』の原題は、Eversionであり、これはまさにこの数学的パズルのことを指している。
もちろん、物語全体の構造、特にコードの正体について、反転するという比喩的な意味合いもこめられている。


物語の結末は、そういう落着の仕方をするのかーというものだった。
まず、「大建造物」であり衛星エウロパにあった異星由来物体の正体は、明かされないままに終わる。まあ、何らかの異星人による情報収集装置っぽいのだが、完全にただのマクガフィンであったということで、それはまあよい。
最後の最後で、脱出できるのは、ラモス大佐ら人間だけ、ということになるのだが、これが成功したのかどうかも明かされない。
さて、残されたコードとエイダはどうなるか。
彼らはもはや助からず、いずれ船ごと終わりを迎えるが、計算リソースを集中させて主観時間を延長させることは可能で、それによって、この物語の一番最初の帆船のエピソードの世界を舞台にした幸福な「夢」を見ることを選ぶ。
同一AI内で走っている2つの人格プログラムが、仮想世界で「幸福な」「結婚」をする
夢が反転して現実になる物語だったけど、最後のオチで、それが再び反転する感じ
マトリックス』など仮想世界での「幸福」を批判するSFは多いけれど、これは批判しようもない世界でもある。
AIしかいない仮想世界というのは、飛浩隆の数値海岸シリーズを思い浮かべるけど、むろんそれとも違う。
どこまでも括弧付きの幸福ではあるが、しかし、これくらいの幸福を許される権利が彼にはあるだろう。