ポモとかカルスタとか文学とかでぐだぐだ

本当は、と一続きの記事にしてしまおうと思ったんだけど、やっぱ分かりにくくなるので一応分ける。


今とっている授業で、ドゥルーズの『シネマ』を読む、というものがある。
ドゥルーズの映画分析みたいなことをやっている。
ベルクソンの持続概念を使って、映画について語られている。
何とも、言い回しが回りくどいし、ベルクソンの持続という専門用語も使っているので、何を言っているのかわかりにくい。
しかし、授業でもって先生に解説してもらうと、それほど難しいことを言っているわけでもない。
フレームの話とかショットの話とかをしていて、フレームには固定で撮るものと移動で撮るものがある、とかシーンはカット割りすることでバラバラに分けられるのだ、とかそんなことを言っている。
これはちょっと内容を要約しすぎで、もうちょっと色々言ってるけど、でもこういうことも持続という概念を使って説明している。
自分は、ベルクソンドゥルーズの哲学について知りたいなあ、と思ってこの授業をとったので、別にそういう専門用語を使われても全く困らないんだけど、映画について知りたいなあと思ってこの授業をとった人は大変だろうなあ、と思う(ついでにいうと、映画の話がメインの授業)。
ポストモダンが何故かくも嫌われるに到ったか、の一端を何となく垣間見たような気がしたりしなかったりする授業なのでした。


別の授業で、大衆文化論というものがある。
戦間期の映画とか写真とか、あるいはジャズとか、主に1920年代〜70年代くらいまでのアメリカの文化についての授業。
先生が「質問ありますか」と聞くと、ほとんどの質問がある決まった傾向を持っている。
つまり、階級格差みたいなことを前提とした問題意識を持っている。
この授業は、大衆文化というのは、階級意識とは別のところで発生している、というか、冨裕層と貧困層がごちゃ混ぜになりながら作られていく、ということを軸の一つとしているところがある。
でも、「そういう文化は、貧困層による冨裕層へのカウンターになったのか」的な質問が結構多い。
これがカルチュラル・スタディーズに毒された学生の姿なのか、と思ったり思わなかったりする授業なのでした。
しかし、ジャズはいい。
この授業は、集中授業なので、休日を使ってほぼ一日中講義が行われる。ジャズの回では、一日中ジャズばかり聞き続けた。一応講義なので、流石にジャズ聞いてる時間より先生喋ってる時間の方が長いけど。それでも、ブルース、ラグタイムから戦後のジャズまで、数は聞けてないけど、流れを追って聞けたのは面白かった。


とある知り合いのブログで、「心に感じたことを、言葉にするのは難しいな」的なことが書いてあった。
誰しも、一度は日記やら何やらに書いてしまうことだと思うけれど、これってとても文学だな、と思った。
「心に感じたこと」と「言葉に表されたこと」とのギャップを、いつまでもいつまでも執念深く追い続けているのが、文学やっている人なのだと思う。
だから、文学やっている人は、言葉を器用に使う人なのではなくて、言葉を不器用に使う人なのだと思う。
まあそれはともかく。
文学とか哲学、というのは、そういう日常でふと思う素朴な疑問や実感から始まっている。
だから、文学や哲学というのはとても面白いものだと思うのだ。
今や、文学や哲学は、日常から随分離れた学問だと思われているような節はあるけれど、そんなことは決してないと思う。
最先端の、専門的な研究なんか、全然よくわからないじゃないか、と言われるかもしれないが、あれは日常の素朴な疑問をかなり執念深くしつこくしつこく探求し続けた結果として、パッと見ではよく分からなくなっているのだと思う。
ちょっと本を読めば、専門用語と素朴な疑問がなんとなく繋がっているのではないだろうか、という気になることができると思うのだけど。
「この世界は全部幻だ」なんて言ってる奴がいるとして、それに対して「中二病だね」って流すんじゃなくて、「それは懐疑論というんだよ」とか「幻だとしたら、君は何で言葉を使うことができてるの」とか、そういう受け答えができると、専門的な哲学でももっと身近になるような気がしている。
もう、君が代とかほんとにどうでもよくて、こういう話を細々としつづけたい。