入不二基義『時間は実在するか』

マクタガートによる、時間の非実在性の証明について解説すると共に、筆者自身による時間論も展開される。
これが、滅茶苦茶面白い!
それにしても、時間について考えるということはなんと困難であることか。それはつまり、どれだけ人間が時間の中にどっぷり浸かっているか、ということでもあると思う。テッド・チャンの「あなたの人生の物語」は、そのことを揺るがして気付かせてくれる、まさにセンス・オブ・ワンダーな作品だ。


マクタガートは、時間をA系列とB系列(加えて、C系列)に分ける。
A系列は、時間的なポジションを、過去、現在、未来によって捉える。そして、これは変化を伴う。つまり、ある出来事は、未来のことであったが、現在のこととなり、そして過去のこととなるだろう。
一方、B系列は、年表のような時間の捉え方だ。つまり、このブログが始まったのは2005年である、というように捉える。2005年である、ということは、変化することはない。
マクタガートは、変化を伴うA系列を時間にとって本質的である、と考え、B系列は派生的なものである、とする。
そして、A系列は矛盾していることを示し、矛盾しているからA系列は存在しない、そしてそれゆえにA系列を本質とする時間は存在しない、ゆえに時間は実在しない、と議論を展開していく。
マクタガートの証明がどうなっているかをここでは詳しく述べることはしないが、上の流れを読むと、当然たくさんの疑問が湧いてくる。
果たして、時間にとって本当にA系列が本質的なのか。
矛盾しているから存在しない、とはどういうことか。
存在しないと実在しない、とは何が違うのか。
などである。


まず、実在(real)という言葉について。
この本では、大きく5つの要素があると述べている。
1、本物性:みかけ(仮象)ではない
2、独立性:心の働きに既存しない
3、全体性:全体が一挙に成り立つ
4、無矛盾性
5、現実性:いききとした現実感(リアリティ)を伴う
さらに、マクタガート形而上学的な体系の中で、存在と実在は以下のように整理されている。
実在は、大きく二つに分けられる。
一つは、「1+1=2」とか「第一次世界大戦終結日は、1918年11月11日である」などのコトないし真理。これらは、実在(real)であるが、存在する(exist)わけではない。
もう一つは、リンゴとか第一次世界戦とか存在するモノないし出来事。
コトや真理は、無時間的に実在する。
一方、モノや出来事は、時間的なポジションの中に存在している。時間的なモノは、存在することによって実在する。
また、矛盾したものは存在しない。例えば、赤くてかつ青いようなボールは存在するだろうか。あるいは、丸い四角形は存在するだろうか。
矛盾したものは存在しない、存在しないものは実在しない、とマクタガートの証明は大雑把にいえばそういうことになっている。
つくづく、実在という概念はやっかいな概念だと思う。
というのも、このマクダガートなりの実在と存在の整理は、僕が思っていた実在概念とはちょっと異なっていたからだ。
マクダガートの考えでいけば、実在の方が存在よりも広い、ないし上位の概念である。
僕なりの理解だと、その逆だった。
科学的実在論の話とかだと、実在というのは本物性や独立性というのが重要になってくると思う。つまり、人間の認識とは無関係に存在するものを実在と呼ぶ。ということは、人間の認識と関係することによって現れるものは、実在するとはいえないが、一応存在していると言えるんじゃないか、と思っている*1


時間のことに話を戻す。
A系列とB系列の話だ。
作者によると、マクタガートの証明に対して、A系列は矛盾していないことを示す立場と、A系列の矛盾は認めるが時間にとって本質的なのはB系列なので時間は実在しているということを示す立場の、二つがあるらしい。
つまり、時間にとって本質的なのは、A系列なのかB系列なのか、という問題がある。
この本には、ほんの一度も出てこないのだが、まさにA系列を時間の本質だと主張したのがベルクソンだったのではないかと思う。
ベルクソンは、一般的な時間理解を、空間化されたものだといって批判するけれど、ベルクソンの批判対象となっている時間というのは、B系列のことではないかと思う。
この本でA系列は、変化、推移、(最終的には)浸透などといった言葉で表現されている。
また、マクタガートに触れる前に、映画の話をしているのだが、そこでフィルムに運動を与えるものとしての映写機の話がなされている。これは、C系列+A系列=B系列のことを言い表しているような気がする*2。そうすると、ベルクソンを参照した、ドゥルーズの『シネマ』とも通じそうな気がしなくもない。
まあしかし、A系列的な時間とベルクソンの言っていた時間が同じものであるかどうかは、それほど重要ではない。
A系列的なもの、つまり変化、推移に時間の本質を見いだす立場があるということが重要だ。
そして、もちろんその逆、B系列的なものに時間の本質を見いだす立場もある。
その極限を、作者は「永遠の現在」と呼ぶ*3
B系列というのは、変化を伴わない。つまり、このブログが始まったという出来事Eが2005年に起こった、ということは、時間変化の影響を受けないということである。2008年の今現在からしても、出来事Eが起こったのは2005年だし、2005年であってもそうだし、あるいは1999年の時であってもそうである。
時間特有の変化や、現在が持っている現実性(リアリティ)といったものを、B系列派はうまく拾うことができていない。しかし、B系列派は、それを人間の言語や認識によるものだとして、独立性の面で退けてしまうのである。
現在というのは認識主体によって違うが、2005年というのは誰にとっても同じである。
B系列派は、そういうものを実在している時間だと考える。
ここらへんの話は、ちょっとフレーゲの指示と意味を思い起こさせた。あるいはクリプキでもいいけど、とにかく指示できる何か実在がある、という考え。
時間の流れというものが、人間の認識による、というのは、橋元『時間はどこで生まれるのか』とか「あなたの人生の物語」とかの考えになる。
そして、こういうどの時点(2005年だろうと2008年だろうと)であっても、同じように指示することができるようなポジションを追い求めていくと、それは「神」とか「永遠の現在」とかいうことになってくる。
また話が逸れるが、「神」とか「永遠」とかいうことに初めて思いが到ったのは、いつだったのかの『たくさんのふしぎ』で「うたがいのつかいみち」というのを読んだときった。といっても、初めて読んだときはそうでもなくて、多分何年か後に読み直した時だと思う。永遠とは、非常に長い時間だと思っていたのだけれど、そうではなくて、時間の始まりから時間の終わりまでを同時に捉えていること、つまり永遠=一瞬(ないし無時間、無変化)だということに気付いた時。それ以来、永遠ということを考えると、何だか厳かな気分になる。


作者は、時間の本質をA系列だと捉えなおかつそれは矛盾していないと捉える立場、時間の本質をB系列だと捉える立場、そしてマクダガートの立場の3つの形而上学的な立場があることをまず指摘し、それらが三つ巴になってしまっていることを示す。
その上で、第4の形而上学的な立場を目指すのである。
この第4の形而上学的な立場であるところの、関係としての時間と無関係としての時間というものは、なかなかうまく理解できたかどうかはわからないが、そこに到るために導入される「とりあえず性」「そのつど性」というものが、非常にスリリングでエキサイティングだった。
時間の本質を、変化として捉えることも、永遠として捉えることも、それぞれ「とりあえず」「そのつど」行われているに過ぎない。時間のどちらの要素を前景化しているかの違いであり、その前景化は絶対的なものではない。
例えば永遠であれば、本当に永遠として捉えることができるのはまさに「神」だけである。人間は、どんなにそれに近いものを想起したとしても、その想起は変化して流れていってしまう。
この「とりあえず」「そのつど」という考え方は、時間論だけでなく、哲学全体に対して非常にクリティカルな批判*4を提出しているように僕には思えた。
哲学、とくに形而上学は、神からの視点から世界を見ようとしたのではないか。もちろん、その神からの視点は「とりあえず」の視点に過ぎない。
どんなに高い尖塔を立てたとしても、それは天に達することはない。だが、それによって天を想起することはできる*5
人間は人間であることから逃れることはできない。だから、形而上学や真理も人間を離れてはあり得ない、と僕は思う。
しかし一方で、神の視点からの形而上学や真理を求めてやまないのも、また人間の性質なのではないかとも思う。
時間のことについて考えたり、ミクロの世界について考えたり、心や知性について*6考えたりすると、その狭間を垣間見たような気になれて、ゾクゾクすることがある。
この本は、そのゾクゾク感を、冷静に言い当ててくれたように思う。
逆に、異様に感受性の高い人がこの感覚を持つと、神秘体験となって、宗教なり芸術なりに繋がってくるのだろうか。

時間は実在するか (講談社現代新書)

時間は実在するか (講談社現代新書)

*1:マイノング主義ではないんだけど、マイノング主義を知ったとき、なるほどーと思った。マイノング主義は、実在しない存在者を認める立場。ただ、それを認めると実は結構厄介な問題を抱え込むことにもなる

*2:C系列=フィルム、A系列=映写機の運動、B系列=映画

*3:ただし、マクタガートも「永遠の現在」という言葉を使っている

*4:これって畳語だろうか

*5:ゴシック建築

*6:それは人間以外のものの心や知性であったりもする