続・君が代!と思いつつぐだぐだ

昨日のあれはブクマ欲しさについカッとなってやった。今は反省している
というか、頑張って時事ネタのつもりで書いたのに、1userしかブクマされなかったことに絶望した!
辺境ブログには注目エントリになることも許されないのか?!
普段は、別にブクマとか気にせずに書いてるんですよ。ブクマされるような大層な記事も書いてないし。
だから、1でも2でもブクマされれれば、それはとても嬉しいことです。
でも今回は、5くらい欲しかった。
別に10とか20とかはいらない。でも、5をもらって注目エントリにはあがりたかった。
ブクマが欲しい、というか、今回は他の人とは違う視点で何か書けそうだ、と思ったというのもある。
はてブで盛り上がっている話題とか時事ネタとか、脊髄反射的に飛びつきたくなることは結構あるんだけど、人のブログを読んでいると、まあ別に自分がここで書かなくてもいいか、と思うから書かない。
(最近、mixiニュースに脊髄反射するためだけの別垢がちょっと欲しいw)
いつもは、人に読んで欲しい、と思ってブログを書くことは少ない。
あるいは、特定の誰々に読んで欲しい、と思って書くことは時々ある。大抵、そういうときは、想定外の人からのコメントが残るんだけど。
で、今回は珍しく、もうちょっと広い人にも読んで貰いたいかも、と思って、ブクマを期待していたわけですが。
もうどうでもいいや、と思いつつ、今ちょっと悪あがきして、該当記事に少し書き足した。


で、少し真面目に君が代
もとより、君が代に嫌悪感を抱くような「サヨク的」教育を受けてきているので、それほど好きではないのだけれど、まあ高校時代に色々あった頃、一人でうだうだと理論武装をした結果、かなりラディカルな考えを持つに到ったので、まあそんな咄を少し。
まず、入学式・卒業式で何故国歌を流して欲しくないのか。というか、流すべきではない、と考えているのか。
国歌というのは、国というある特定の集団を象徴するものであり、集団への帰属意識を高めるという機能を持つ(といか、少なくともそのような機能が期待されている)。
しかし、入学式・卒業式などの公共性の高い空間においては、そのような集団への帰属意識を持たない者が一定数いる可能性がある。
そして、そのような者がいる中で、特定集団への帰属意識を強要させうる機能を働かせるべきではないのではないかと考える。
公共性、というのは、思想や帰属意識の異なる者がいる可能性、と捉えている。
つまり、公共性が高いほど、異質の者たちが多い。そして、そうした空間においては、異質の者への配慮を欠くとトラブルを招く可能性が高い。
公共性が高ければ高いほど、特定の集団を強く持ち出すべきではないのではないだろうか。
というのが、おおよその流れ。
ちなみに、これを他の事例に演繹的に適用した結果、自分はオリンピックではいかなる国の国歌も流すべきではない、という考えを持つに到りました。
あともう一つ。
帰属意識、ということに関していうと、自分はどうも2〜30人程度の集団にしかそのような意識を持つことができない。それ以上人数の大きな集団になると、帰属意識というものが希薄になる。これは、多分人間の認識能力の都合上致し方のないことだと思うのだが。
で、国民国家というのはその歴史的役割を終えているのではないか、ということをうっすらと考えているので、わざわざ国民国家に対して帰属意識を繋ぎ止めようとする、国歌なるシステムもその役割を終える時が来ているのではないか、とも思っている。これは日本に限らず、ありとあらゆる国において。
というわけで、自分は、最初は君が代斉唱に反対していたのだが、それを理論的に正当化しようと試みた結果、全ての国歌の斉唱に反対する立場へと到ってしまった。
このあまりの風呂敷のでかさに、自分でもびっくりしているのだが、その大きさにうっとりしている自分がいるのもまた否めない。
そういえば、国歌に似たシステムとしては、日本には天皇というシステムがありました。
やっぱり時事ネタですが、皇室で最近子供が生まれましたよね。
あれに対する反応としては、典型的な発言は「おめでとうございます!!」で、それを見ている一部の天の邪鬼が「皇室報道うざい」って言っていて、そのほか大多数がスルーしている、というふうに思います。
で、自分は一体どう思っているのだろうか、しばらく考えた結果、どうも自分は天皇を有名人の一人だと思っているのだと分かりました。
だから、子供が生まれたことでメディアが騒ぐのは仕方ないけど、自分は別に天皇のファンじゃないからスルーしとこうっていうスタンスになる。あと、天皇のファンって案外沢山いるんだなあ、とか。
それって国民統合の象徴か。特別指定無形文化財とかにする方がいいんじゃないかなあ、とか思ってる。宮内庁を特別行政法人かなんかにしておけば、国家予算で天皇家を存続させることはできるでしょう。でも別に天皇家が国家機関でありつづけなくてもいいんじゃないか、とか思ったりしてる。
必ずしも、国に対する帰属意識を国民全てが持ちうるわけではなくなっているし、またその帰属意識をもたらすシステムが有効に働いているとも思わない。その機能不全のことを「大きな物語」の崩壊というのだと思う。
「俺は国に帰属意識を持つ」とか「私は天皇を尊敬してる」とか言っている人がいるのは別に全く構わないんだけど、国や天皇が全ての国民に対して同じ効果をもたらしているか、といえばそうではない。「国に帰属意識を持たない人」や「天皇を尊敬していない人」が存在していることは、誰もが認めると思う。その状況のことを「大きな物語」の崩壊と呼ぶ。そして、そういう状況に陥っているのだから、その効果を失った国歌や天皇はその立場から降りた方がいいんじゃないか、と思う。
君が代を歌ったり、天皇を尊敬するのは、それをしたい人がローカルな集団を作ってやってればいい。
繰り返しになるけど、そういうローカルな集団の価値観をnationという特殊な集団へと投影することはもうできなくなってしまったのではないか、とそう思っている。
ところで、宮台真司はそれでも天皇を「縦の力」を持つものとして扱うけれど、彼の場合は、天皇から「縦の力」を感じると言っているのではなくて、「縦の力」を感じるものを「天皇」と呼ぶことにしよう、と言っているのだと思われるので、何だかちょっと違う。

帰属意識に関する追記

mixiには、自分の出身小学、中学、高校、在学中の大学のコミュがある。でも、入っていない。
略歴に関するプロフをネットに晒す気がない、というのと、その手のコミュの使い道が特にない、というのが主な理由だが、それ以外に、出身の学校に帰属意識を持っていないから、というのもある。
別に、帰属意識は持っていないけど、それらの学校を卒業し、また今この大学に通っているのは事実だ。
日本という国に帰属意識を持っていない、というのもそれと同様だと思う。
自分が日本人であることは事実だけど、だからといって「私は日本人です」というコミュに入る気にはならない、ということ。