君が代

地裁の判決が出て、ブロゴスフィアが何とも喧しくて、ついふらふらとこんなエントリを書いてしまいます。
この手の話をブログで書くのは、正直とても気が重い。面倒だから。でも、なんでか書いてしまう。
この「なんでか書いてしまう」の部分が明らかになれば、とても面白いblog論が書けそうですが、今は何も思いつきません。


で、君が代
これから書くことは概ね、自分が高校生だった頃に考えていたことです(とはいえ、それも結構前のことになってしまったので、それ以後に考えたこともずいぶんと混ざってはいる)。
自分の学校でも多少のごたごたがあったものなので。
ということは、必ずしも一般化できる話ではないのかもしれない、と事前に留保を入れつつ、しかし一般化できるはずだ、とも思いつつ、書くことにします。


この君が代だの何だのの問題は、決して思想の問題ではない。
学校行事の運営を、一体「誰が」「どのように」行うのか、という問題である。
つまり、式次第を書くのは一体誰か、あるいは式の主体は一体誰か、ということ。
そこをスルーすると、「従え」とか「強制するな」とかいう話になる。これは不毛に見える。
問題なのは、ルールを守るべきなのか、あるいはルールの強制には反対するべきなのか、ではなくて、そのルールを一体誰がどのように作ったか、ということだ。
各学校の入学式なり卒業式の式次第というのは、文部科学省や各教育委員会が決めるものなのか、それとも各学校で決めるものなのか。
もし、各学校で決めるものであるのであれば、それは校長が決めるのか、職員会議が決めるのか、あるいはそれとも学校全体で決めるのか。
そういうところが、何とも見えてこなかった、というのが経験上の実感だ。


民主主義における自由とか権利とかいうものとは一体何なのか。
「ルールに従わせる権利」や「ルールを守らない自由」なのではなくて、「ルールを作る自由・権利」だと思う。
そしてそれは、「自分のことは自分で決める」ということだと思う。
僕は、「政治」というものを以下のように理解している。
つまり、ある一定数以上の人数の集団がその集団における意志を決定していくこと。
もう少し詳しく言うと、人間はそれぞれやりたいこととかできることとが違う。そんな人間がある人数より集まって集団を作って何かするとき、各自の志向は当然バラバラになる。それを、集団としてある一定の方向へ整えること。
その際に、一人の人間がそれを全て行うと「独裁」とか言われる。
「民主主義」は、その集団の構成員のできうる限り全員で、それ(=政治)を行うこと、だと理解している。
もう一つ言えば、集団の規模は必ずしも「国家」とか「国際社会」である必要はない。
50人はいれば「政治」は必要になってくるだろう。
だから当然、学校にも「政治」はある。
入学式、卒業式、学校祭、体育祭、遠足、修学旅行など学校行事は色々あると思う。そうした行事に関わる人間は、それぞれ異なる思惑を持っているだろう。しかし、それらの思惑をある程度足並みそろえないと、行事はうまくいかない。学校行事を運営するというのは、もう立派な「政治」だと思う。
学校行事というのを仰々しいものにしたいわけではない。
その逆で、「政治」とか「民主主義」とかいうものを、もっと軽いものにしてしまいたい。
大塚英志は、憲法は使ってなんぼだ、と言う。
その点で僕は大塚に強く賛同する。
「政治」も「民主主義」も、理念でも何でもなくて、単なるツールでしかない。ツールは使わないと意味がない。ツールの名前だけ教えて、使い方を教えなければ、誰もそんなものは使うようにならない。


つまり、何が言いたいか。
行事の運営は、各学校が行うべきことだと思うのだ。
校長、教師、職員、生徒がそれぞれ異なる思惑を持っているはずで、それらの思惑をどうやって調整していくのか、ということを学校でやらせた方がいいのではないだろうか。
民主主義というのは国民に主権があって議員を選んで云々と口で教えるより、実際に使わせた方がよっぽどいい。


ルールを守らない奴がいると秩序が乱れる、ということをよく聞く。
そうじゃなくて、みんなが納得して守ることのできるルールをみんなで作ることで、秩序が生まれるんだと思う。
秩序というのは最初からどこかにあるものじゃなくて、自分たちで作らないといけないものだと思う。
自分たちでルールを作れば、そのルールの妥当性を納得できるから、守ることができる。
妥当性を疑う人間が出てくれば、何度でもルールを作り直せばいい。
そうやって、秩序を何度でも作り直せばいい。


結局、君が代とかで問題が起きたりするのは、各学校が秩序を作るのに失敗しているから、だと思う。
さっき「自分のことは自分で決める」とちらっと言ったけど、似たようなことは宮台真司も言ってる。
彼は、地方自治の原則を主張する。
つまり、市町村で決められることは市町村で決める。もし、市町村レベルでうまくいかないことがあれば、それは都道府県レベルにあげる。もしそれでもうまくいかなければ、国レベルにあげる。
可能な限り、小さな単位で決めていった方がいい、という考えだ。
ならば、学校のことは、学校という単位で決めればいい。もし学校の中で上手くいかないことがあるなら、それは教育委員会なりなんなりにあげればいい。あるいは、裁判所に持って行ってもいい。
でもそれは、学校の中では上手く処理することができなかった、ということでもある。
そして、経験から察するに、そもそも学校の中で処理する気など誰にもなかったのだろう。
教育委員会の言うとおりにやってれば、運営はうまくいって秩序が保たれるのか。
あるいは、裁判所の判決が出れば、混乱は収まるのか。
運営するのも、秩序を作るのも、混乱を収拾するのも、まずは当事者同士のやることだ。


随分長くなってきた。
式次第の中に、国歌(君が代)を入れる方がいいと考える者とそうしない方がいいと考える者が、一緒になって式を運営するんだから、まずその両者で話し合いをするべきだ。
式次第は、誰がどうやって決めるのか、と。
そういうことって明確になっているのだろうか。まあ、多分校長が決めることになっているんだろうな。
もしそれすらはっきりしていないのなら、そこから決めるべきだ。
別に校長が決めるなら、それはそれで構わない。
ただ、それがどのように決定されているのか、という過程が透明化されていなければ、その決定に対する妥当性や信頼性は得られない。
「多数決」は一つの方法としては有効だ。「多数決」は、透明性には優れている。どうしてAを選んだか、Aの得票が最も多かったから、と理由を簡潔に示すことができる。
しかし、「多数決」は方法の一つに過ぎない。
行事に関わる者が、信頼しうる方法であれば、どのような方法でも構わない。
じゃあその方法はどうやって決めるのか、やはり当事者同士で決めていくしかなるまい。
民主主義というのは、かくも面倒だ。でも、それでも民主主義の社会に生きたい、と思うのならば、実践するしかない。面倒で仕方がないなら、教育委員会にでも一任してしまえばいい。
実践してみないと分からないはずだ。
そして、いきなり国レベルで実践するのは危ないから、市町村レベルとか学校レベルとかでまず実践した方がいい。
だから、国歌(君が代)を学校行事で流すかどうかくらい、学校の中で決めろ!
(当然だけど、事は国歌(君が代)以外にも適用できる。校歌は?来賓挨拶は?証書授与は? 妥当性が疑われるものがあるなら、全て議論の俎上にあげればいい。そんなのは面倒だ、といっておざなりにしたら、後でトラブルになったって仕方がないだろう。それをもって秩序が乱れる、などというのはおかしい。そこには最初から秩序などなかったのだ)

追記

ずいぶんと長くなってしまった。
自分が、国歌(君が代)あるいはそれを流すことに対して、どう思っているのか、ということも書こうと思えば書ける。それなりに考えはある。
でも今は書かない。
そうした考えを公言するのは、そうした考えが何らかの集団の意志へと反映される時でいい、と思っている。
今回、問題にしたかったのは
国歌(君が代)を学校行事で流すのは是か非か、とかいうことではなくて
そうした是非を論じる場が学校の中にあったのか、ということ。
賛成でも反対でもいいんだけど、そうした意見が集団の意志決定に反映されるような場・機構が備わっていなければ、そんな意見をいくら叫んだところで意味がない。

追記2

はてブid:massunnkさんのコメント

なんかこれ思い出した→http://blog.japan.cnet.com/kondo/archives/002209.html

近藤さん!!
僕が、はてなに入れ込んでるのは、ひとえに近藤淳也ファンだからに他ならないからなんですが。
それは、はてなという会社が実に「民主主義」的だなあと思うからです。
参考:http://d.hatena.ne.jp/sakstyle/20051122/1132650792