Bence Nanay ”Inflected and Uninflected Experience of Pictures”

描写の哲学・美学の論文
屈折してる視覚経験と屈折していない視覚経験について
絵を鑑賞している時に、単に絵に描かれている内容だけを見ているのではなく、同時に絵の表面の性質・デザインについても見ている時=屈折
直接(フェイストゥフェイスで)対象を見ている経験と、絵画を通して対象を見る経験との違いは、この屈折にある
ウォルハイムのseeing-inないし二面性という概念と屈折がどういう関係にあるのかという整理
Nanayは、seeing-inには2つの解釈があると考えている。
描かれている対象と絵画の表面のそれぞれの性質の両方を知覚しているというのが二面性だけど、それが意識的かどうかで解釈が2つに分かれる。
多くの二面性批判は、意識的であると解釈した上で行われているけれど、Nanayは、ウォルハイムが単にseeing-inって言ってる場合は、意識的でない場合も含んでいるとしている。
その上で、意識的に2つの性質を付随させているのは、seeing-inの中でも特に、inflected seeing-inなのだ、と区別している。
最後の節で、ちょっと神経美学っぽい感じになってて
脳の腹側皮質視覚路と背側皮質視覚路の話となる。
腹側皮質視覚路は、同定と再認、背側皮質視覚路は、視覚のコントロールと運動とを司っている。
錯視とかは、これのどっちかが欺されたりしている、と。
デザイン(表面)の性質は、屈折していない場合は背側でしか捉えてないけど、屈折してる場合は両方で捉えているんじゃないか、とかなんとか。

付記

屈折という概念を自分はRobert Hopkins「屈折された図像の経験 その取り扱いと意義」 - うつし世はゆめ / 夜のゆめもゆめを読んで知ったのだけど、この記事の最後に、Hopkinsは分割説に対して2つの反論を投げかけている

Hopkinsによれば分割説は、屈折をうまく説明できない。


理由その1。描かれたものが屈折しているとき、それはデザインに本質的に結びついている。従って、屈折したものは、分割説の2つの経験の内、まずデザインの中に現れ、描かれたものの内にも再度現れる。これはおかしい。


理由その2。分割説の支持者は、デザインの経験と描かれたものの経験がともに通常の視覚経験であることを主張する。これは通常の図像の場合は問題ないかもしれないが、屈折の場合は難しい。屈折された対象は、直接見る経験には決して現われないものだからである。これを無理に分割説の枠内で説明しようとすると今度は他の例をうまく説明できなくなる。

Nanay論文は、この2つに対して応答している。
一つ目に対しては、経験の中で二度現れるわけじゃないってことを言っている。Nanayは、デザインと対象の両方に言及しないと特徴付けられない関係的な性質=デザイン−シーン性質というのが、seeing-inが屈折しているときにはあるといっていて、このデザイン−シーン性質は、デザインに対しては帰属せず、対象に帰属されるから、経験の中で二度現れないとしている。あと、多分それが意識的かどうかってのも少し関わっていると思う。
二つ目に対しては、上述した腹側皮質と背側皮質の話を答えとしているみたい。