伊東・井内・中井編『ポーランド・ウクライナ・バルト史』

http://kousyou.cc/archives/6140を読んで、じゃあ黒海周辺の歴史の本とか読んでみようかなーと思って読んでみた本。
他に吉村貴之『アルメニア近現代史』 - logical cypher scape前田弘毅『グルジア現代史』 - logical cypher scapeも読んだ。


タイトルどおり、ポーランドウクライナ、バルト3国、あとベラルーシの歴史だが、今回はとりあえずウクライナ部分だけを拾い読みした。


まず、初歩的なこととして、ポーランドウクライナというのが近しい国だということに初めて気付いた。この本のタイトル見て、なんでポーランドウクライナがセットなのか不思議だったのだが、地図をよく見てみれば隣国である。
たぶん、ウクライナ旧ソ連だけどポーランドはそうじゃないということが、自分の中ではこの2つが離れた国だと思っていた要因なのだと思う。
しかし、この2つの国はどちらも、古くは栄えた国だったのが、他国に支配されるようになり、その後近代になってナショナリズムが芽生えてからは、独立を模索しつつもそれがなかなか実らないという歴史を辿ってきたのだということが分かった。
で、あー、そりゃウクライナはロシアと仲悪いわってのも分かった
ウクライナは西側はポーランドないしオーストリア、東側はロシアの支配下に置かれていて、その後、全体的にロシアの支配下になって、独立をめぐってロシアと対立してきたようで。


9世紀頃、ルーシ商人団とハザール・ハン国の婚姻がなり、ルーシ・ハン国が成立。南北を結ぶドニエプルルートと東西を結ぶ陸路の交点としてキエフがあり、キエフ・ルーシが成立する。宗教はキリスト教(正教)
諸公の争いとモンゴル侵攻で、キエフ・ルーシは衰退
モンゴル支配層は少数で、イスラム化・トルコ化した。彼らをタタールと呼ぶ。
モンゴルがもたらしたものとして、方角を色で表すというのがある。ベラルーシ白ロシア)の語源。辺境を意味する「ウクライナ」という呼称もこの頃。キエフはすっかり荒廃。
リトアニア大公に征服されて、タタールのくびきは終わる
15〜16世紀、ポーランドリトアニアからウクライナへと逃亡してきた農奴らが、コサック集団を形成。先住のタタール・コサックと戦って戦闘力を高めていく。平等主義的な社会。
略奪遠征に成功すると大宴会を開く。コサック・ダンスは、その宴会の際に行われた酔い覚まし兼腹ごなしの体操だった、とかw
ポーランドは、オスマン帝国クリミア・ハン国あるいはモスクワとの戦争を行う兵力として、コサックを利用しはじめる。軍人としての特権を与えた登録コサックの誕生である。
ポーランド政府にとって、戦争の際に兵力は欲しいが、平時には登録コサックへの給料などはただの負担である。一方、コサック全体の数に比べると、登録コサックの数は少なく、そのあたりで軋轢なども生まれていた。
当時のコサックの指導者、サハイダーチヌイは、キエフを復興させ、正教を保護、大学を作るなどして、コサック集団にウクライナ民族意識をもたせた。
17世紀、フメリツキニーの乱が起こる。コサックとポーランドとの戦争。コサックは、ロシアに協力を求める。最終的にウクライナは右岸と左岸に分かれ、右岸がポーランド領、左岸がロシア領となる。
フメリツキニーの乱によって、ヘトマン国家が生まれる。ヘトマンとはウクライナの統領のことで、ロシアから自治が認められていたが、次第に制限されていく。
18世紀にはヘトマンは廃止され、ロシア帝国の直轄領となる。


ポーランド分割後の話
第一次分割→議会活動が行われ憲法作られる→第二次分割→コシチューシコの蜂起→第三次分割
第三次分割後、コシチューシコの蜂起に参加した者たちはフランスへ亡命して、ナポレオン軍に合流。ハイチ遠征やモスクワ遠征で戦う。しかし、ナポレオン体制下で作られたワルシャワ公国は、ポーランド人の期待を裏切るものだった
ポーランドの政治家の中には、親ロシア派もいて、そうした一門の中で生まれたアダム公は、アレクサンドル一世のもとで外相となり、ポーランド再建を模索する
ウィーン体制でつくられたポーランド王国は、当時もっとも自由主義的な国として成立する。アダム公の計画としてはリトアニアと連合、分割前の領土の復活を目指していたが、ロシア側はそういう気がなかった。
次第に、アレクサンドル1世の自由主義路線も後退し、フランスの七月革命に影響されて、ポーランドで11月蜂起が起こる。アダム公を首班とする政府が作られるも、保守派とリベラル派のあいだで統一方針が作れず、結果的にはロシア軍に鎮圧される
アダム公ら支配層貴族はパリへ亡命して、そこに外交拠点を構える
クラクフガリツィアでも蜂起が起こり、ガリツィアでは農民による地主の虐殺が行われた
その後のクリミア戦争とかそういうのを外交的に利用しようとするも、国際社会でポーランド問題は目されるようになっていく。
時間はかなりとぶが、日露戦争の時、ポーランドは対露政策として日本と接触しようとしていたらしい。


ウクライナに話を戻す
1860〜1870年代
ヘトマン国家消滅後も、ウクライナ教育、ウクライナ文化出版活動が行われ、ウクライナの民族化がはかられていたが、ロシア側はこれを抑圧するようになる。
ウクライナの政治文化活動の中心は、オーストリア領だったガリツィアへと移る
19世紀末以降、ウクライナでは、ユダヤ人への迫害もおこり、ポグロム(略奪・虐殺)もおきている
1905年、オデッサ戦艦ポチョムキンの反乱、セヴァストーポリで巡洋艦オチャコフの反乱


1917年二月革命以後、ウクライナ中央ラーダ*1を中心にキエフウクライナ民族運動の中心地となる
中央ラーダはウクライナ自治を目指すが、臨時政府はこれを認めず、対立が深まっていく。
十月革命ペトログラードでは臨時政府vsボリシェビキだが、キエフではこの対立に中央ラーダという勢力が加わる。キエフでは当初、中央ラーダとボリシェビキが協力して臨時政府勢力を追放。中央ラーダは、ウクライナ人民共和国を創設し、次に中央ラーダとボリシェビキが対立する。
ソヴィエト軍ウクライナへ侵攻し、キエフを占領し、多くのウクライナ人を逮捕・処刑した。
民共和国は独墺と第一次大戦の講和を行い、ドイツ軍がウクライナに侵攻。ドイツ軍は中央ラーダを無視した穀物徴発を行い、ドイツと中央ラーダは対立。中央ラーダは追放される
1918年、ウクライナでの農民反乱が激しくなり、結局独墺は撤退する。
民族派、白軍、赤軍、農民軍が入り乱れて争う内戦へ
19年にソヴィエト政権成立、20年から大飢饉が発生する
18年、ハプスブルク帝国解体とともに、ガリツィアが西ウクライナ人民共和国として独立するもポーランドと戦争が起きる。西ウクライナは人民共和国の民族派に援助を求めるが、民族派ボリシェビキと戦うためにポーランドとの協力を探っており、ウクライナ統一には向かわず、結果、ガリツィアはポーランド領となる。


ソ連が成立し、ウクライナなどの諸共和国やレーニンは諸共和国の平等な連邦を目指したが、スターリンが中央集権的なシステムを樹立させる。
グルジア現代史』にもあったけど、スターリンが「自治化案」というのを出して、ウクライナベラルーシアゼルバイジャンアルメニアグルジアを独立共和国からロシア共和国内の自治共和国にしようとする。レーニンが反対してこれは修正されるが、結果的にはこれに近いものになってしまう。
ウクライナ共産党ウクライナ化政策をすすめたが、あまり進展せず、30年代には党中央からの批判にあい終焉した
1931、32年、農村の集団化の強行と穀物徴発により、大飢饉が発生。しかし、中央政府は飢饉の存在自体を認めず。400〜600万人が死んだと見られている。
独ソ不可侵条約ガリツィアはソヴィエト領とされる
独ソ戦が起こると、ガリツィアのウクライナ民族主義者はドイツ軍と協力するも、ドイツはそのままガリツィアを占領。その後、ウクライナ蜂起軍はドイツ軍と戦闘を行う。
44年以降は、ソ連ウクライナ蜂起軍の掃討を行う。ポーランドチェコスロバキアとの共同作戦、ウクライナカトリック教会の正教会への併合や農業集団化による蜂起軍支持層の解体
また、独ソ戦の時期には、クリミア・タタール人カザフスタンなどへの強制移住が行われた。


チェルノブイリ原発事故以後、ウクライナでのペレストロイカが本格化する
ウクライナでのペレストロイカは、ウクライナ語の復権ウクライナカトリック教会の復権という、言語と宗教の問題から始まった。
こうした運動は次第に政治化していき、「ペレストロイカのためのウクライナ人民運動」(通称ルーフ)という組織が発展していく。90年の選挙で、共産党の妨害を受けながらも全ウクライナの4分の1の議席を獲得。また、メンバーを28万人から63万人に増やす一方、共産党は同じ1年間に15万人が離党。
91年、モスクワで起きたクーデターに対して、ウクライナ最高議会は支持を表明せず、独立宣言を可決した。独立を問う国民投票は84%が賛成だった。
このときの国民投票で、ほとんどの州で9割が賛成であるのに対して、クリミアだけは54%と非常に低い。ウクライナの東部の州でロシア人住民の割合が多い(3〜4割程度)が、クリミアだけはロシア人とウクライナ人の割合(ロシア人7割)が逆転している。
クリミアは54年までロシア領だったが、フルシチョフウクライナに移管した。
ウクライナ独立当時、ロシアとの対立は多岐にわたっていた
核兵器の移送、黒海艦隊の帰属、クリミア独立、セヴァストーポリ港帰属、ロシアとの二重国籍、エネルギー債務、ソ連資産
核兵器は96年までにロシアへ移送された。
クリミアについては、チェチェン紛争の影響で94年からロシアは支持しなくなった
ウクライナはエネルギー資源をロシアに依存している
96年新憲法制定、高インフレにみまわれていたために新通貨を導入
97年、ロシアとの友好協力条約調印。黒海艦隊分割、セヴァストーポリ帰属問題、債務問題が解決した


そういえば、佐藤亜紀『ミノタウロス』ってウクライナじゃないか、ということを思いだしたが、内容をほとんど覚えていない。内戦の時の話だったようだ。


ポーランド・ウクライナ・バルト史 (世界各国史)

ポーランド・ウクライナ・バルト史 (世界各国史)

*1:ラーダ=評議会、ロシア語のソヴィエト