ゴールデンカムイ(完結)

雑誌連載の最終話まで読み終わったので軽く感想
なお、自分は、前回と今回の無料公開時に読んでるだけなので、大雑把な話しかできません


ここでは、『ゴールデンカムイ』で何が描かれていなかったのか、ということについて思いついたことを書こうと思う。
ただし、なかったことについての指摘は、必ずしも作品へのネガティブな評価ではない。
作品を成り立たせるための取捨選択の結果として、以下のことは描かれなかったのだと思うし、これらの要素がなかったことは必ずしも作品の瑕疵とはいえないし、また、下記の要素が付け加えらえることによってより作品が面白くなるわけでもないだろう。
では、何故そのようなことを指摘するのか。
一つは、作品内では不要な要素であったとしても、作品外において、つまり我々にとっては必要な要素かもしれないから
もう一つは、作品内では描かれていなかったとしても、それについて色々と考えさせるということ自体は、作品のポテンシャルとして捉えられるから。


まず、当然に誰もが思いつく点として、アイヌと和人との関係がある。
これについては、以前、ゴールデンカムイ - logical cypher scape2でも書いた。
アシリパが直面する近代アイヌの問題は、あくまでも環境問題であって、差別問題ではなかった。
本作の北海道は、おそらく現実の歴史が辿った北海道とは異なり、アイヌと和人とのコンフリクトが比較的少なかった、ある種のユートピア北海道だとも言える。
しかし、この点についていうと、作品内でそういうことを描くべきであったのか、フォローすべきであったとまで言えるかどうかは、個人的には微妙かなとは思っている。
この作品の主題は、アイヌではないので、そのあたりの取捨選択があっても、というところで
どちらかといえば、むしろ作品外でのフォローアップがなされるのがよい点ではないかと思う。
この作品がどうかは知らないけれど、マンガの単行本だと解説ページがつくことがあったりすると思うので、そういうところで触れたり、あるいはこの作品とコラボする博物館の企画などは、そうした啓蒙の場になりうるのではないかと思う。
そういった作品外でのあり方まで追えていないので、実際どうなっているのかはよく知らないが。


ただし、描かなかったことが正解だったかというと、それはそれでなんとも言えないところ。
本作はあくまでもエンターテイメント作品なのだから、必ずしも史実通りに描く必要はない、というのはその通りだが、史実通りに描くとエンターテイメントとして成り立たなくなってしまうのか、といえば必ずしもそうではないとは思う。
エンターテイメントであることと、現実の差別問題を描くことを両立させるのは大変難しいので、やろうとすると、二兎を追う者は一兎をも得ずとなってしまう可能性は高く、それを避けるために、取捨選択が行われることは批判できないとしても、一般論として「エンターテイメントなんだからそれでいい」とスポイルしてしまうような考えが増えてしまうと、それはマンガというジャンルのポテンシャルをむしろ低く見てしまうことにもなりかねないのではないかなと思う。


繰り返しになるが、本作が、アイヌの差別問題を描かなかったこと自体は、即座に問題になるわけではない。
しかし、そうすることによって、何が描かれなかったのかということはもう少し考えてよい。
個人的には、それは「近代日本」との向き合い方、であったと思う。
以前書いた感想にも書いたが、ウイルクやキロランケの先住民族独立構想は、対日本ではなく対ロシアとして構想されている。
また、アシリパは、北海道アイヌが直面している問題は環境問題だと捉えているので、北海道を日本から独立させるという方向で考えない。
アイヌと日本とのコンフリクトを描かないようにしているので、「近代日本」というものが透明化されている。


まあ、いうて本作は、アクの強いキャラクターたちが金塊を巡って縦横無尽する物語なのであって、「近代日本」なるものは物語そのものとは何の関係もないのではないか、といえばそれはそうなのだが、しかし、もう少し物語そのものにも関わりをもちうる可能性があったのではないか、ということを書いてみたい。


まず、鶴見中尉について
この点に関していうと、単に自分の予想が外れたというだけの話でしかないといえばそうなのだが
以前書いた感想でも触れたが、鶴見中尉ってもともとスパイやっていたわけで、「中央」とのつながりが何かしらあるのではないか、という想定を自分はしていたのである。
鶴見中尉の、対ロシア防衛として、北海道や北東アジアに緩衝国家を作る構想というのは、ある意味では、後の満州国と似た考えだし、単に「中央」に反抗してやったというより、「中央」の一部には、志を同じくする者がいたりしたのではないか、と*1
ただ、彼は最後まで、中央の奴は何も分かっていないみたいなことを言っていたし、鯉登少尉も、我々は反乱軍だ、みたいなことを言っていたので、「中央」と何らかのつながりをもった上での謀略というよりは、本当に鶴見単独犯だったんだなという感じで終わったわけだが。
「中央」という言い方が、作品における雰囲気作りに一役買っているところはあり、あくまでもフレーバーとして終わる、というのはそれはそれでありのだが、
一方で、ここまでずっと日本政府が「中央」というと匿名的・抽象的な存在としてしか描かれていなかったのが、最後の最後になって、伊藤博文西園寺公望という特定の名前があがってきて、急に具体化されたりしたわけで、「中央」というのを抽象的なフレーバーとしてすますのではなくて、もう少し特定して、解体しても面白かったのではないかなあと思う。
明治史に全然詳しくないので、鶴見グループに薩摩系の軍人がいることの意味が、あんまりよくつかめていなくて*2、鶴見と藩閥との関係とかどうだったんだろうかとか。
(つまり、鶴見は「中央」と十把一絡げな言い方をしているけれど、実際には、その内部の勢力争いとも関係していたのではないか、と。特定・解体というのは、具体的に○○派とか出てくれば、「中央」という抽象的な塊から、具体的な派閥の話になるだろうということ)
まあ、ここらへんを入れ込もうとすると、話が函館では終わらなくなってしまうし、収拾つかなくなる可能性はあるが


鶴見に関していうと、元々、日露戦争後での不遇を理由に反乱を起こそうとしていたという話と、
対ロシア防衛のための緩衝国家として北海道を独立させようとしていたという話の2つがあって、
この両者が彼の中でどういう関係にあるのか、というのがいまいちつかみ切れなかったんだよな、というのがある。
彼は当然ながら、「中央」と「日本」を区別しているわけだけれど、では彼の「日本」観とは一体どういうものだったのだろうか、とか。
まあここらへんは、読者が個々に解釈してくれや、という部類の話ではあるなあとは思うんだけど
やはり本作は、「近代日本」を周到に透明化しているよな、という感触もする。


で、最後に、杉元について
本作は、杉元の物語なのであって、究極のところ、杉元の物語さえ全うすれば、他は枝葉だともいえる。
個人的に最終話で気にかかったのは、3年後も杉元が軍服を着ているということである。
これをどのように解釈すればいいのか。
アイヌの民族衣装を着たアシリパと、軍服を着た杉元が並んでいる絵、というのは、『ゴールデンカムイ』を象徴する絵なのであり、最後だけ杉元が軍服を脱いでしまうと、『ゴールデンカムイ』っぽくなくなってしまうだろう、というのもそれはそれで理解はできるところだが、
ゴールデンカムイ』は、日露戦争から(物理的に)日本に帰ってきたはいいが、精神的に帰るところをなくしてしまった男が、いかに戦争していた世界から平和な世界へと帰還するのか、という物語だったはず。
杉元、谷垣、鶴見という3人が特にあてはまり、谷垣は物語中盤で、フチとの約束を果たしインカラマッと結ばれることで帰還を果たすし、鶴見は軍事クーデターを起こすことでむしろ平和な世界へは帰還しないことを選ぶわけだが、では、杉元はどうか、という物語だった。
アシリパさんとともに生きる、という道を選ぶことで、精神的な帰還が達せられる。
最終話で、干し柿を食べても変わらないということと、「故郷」としてアシリパとの生活があげられるということで、このことが描かれている。
しかし、だとすると何故3年後も杉元は軍服を着ているのだろうか。
あれは、戦争から精神的に帰ってこれていない、「不死身」の杉元を象徴する格好であり、「故郷」へと帰ることができた杉元は、軍服を脱ぐ方が自然なのではないか、という気がしたりするのである。
また、干し柿のエピソードや「故郷」というセリフによって、杉元が第二の故郷を得たことがわかるのだけど、その第二の故郷とは一体どこなのか。
つまり、日本の一部である北海道なのか、アイヌモシリとしての北海道なのか。
あるいは、干し柿や「故郷へ帰ろう」のくだりは、日本が故郷ではなくなったかのようにも読める(干し柿よりもエビフライよりもチチタプこそが、彼の故郷の味となった)
アイヌの食文化により胃袋をつかまれた杉元は、日本から離れてアイヌへと「同化」していく道を選んだでのはないか。
しかし、彼は3年後も日本の軍服を着続けている。
最終話において、アイヌの文化は、アイヌと和人の努力によって後世に残されたというようなことが書かれていたと思う。
だとすれば、杉元がアイヌ化するのではなく、あくまでも、アイヌと和人との協力・共生というユートピア的な理想を象徴するために、彼は最後まで日本の軍服を着た姿で描かれているのかもしれない。
だとしても杉元は、どういうアイデンティティで、アシリパの隣に立ち続けているのか。
本作で透明化されていたはずの「近代日本」は、最後の最後で杉元の服装という形でいやおうなく可視化されたように思う。
それをどのように意味づければよいのか、というのはかなりの難問として自分の前に立ちふさがっている(アイヌと和人は共に生きることができるのだというポジティブなメッセージとして発せられているのだとしても、それを受け取る側はそれがあくまでもユートピアでしかないことを知っている以上、杉元が一体どこに帰還したのかということを受け手側で意味づけない限り、受け止めがたいのではないか、と)。


これ、じゃあ最後に、杉元がアイヌの民族衣装着てればよかったのかというと、そう簡単な問題でもないと思う
アイヌのコタンでアイヌの人たちに囲まれアイヌの人たちと同じものを食べ暮らしたとしても、アイヌになることとイコールではないし
戦争から精神的に帰ってくることを可能にしたのは、逆説的だが、(戦争から帰りきれていない)「不死身の杉元」であったればこそで、その来歴を消すことはできないだろう。
この物語を読んできた者としては、杉元とアシリパが共に生きることになるラストは、納得感があるし、ハッピーエンドに辿り着けてよかったという思いにはなるが、また、アシリパや杉元個人はあまり気にしないかもしれないが、アイヌでありつつ和人でもある、あるいはアイヌでも和人でもない、そういうマージナルな存在にならざるをえないので、それなりに重いものがあるのではないか。
ところで、アイヌのように生きたとしてもアイヌになれるわけではない、来歴を消すことはできないと先に書いたが、それはアイヌと和人を逆転させても本来同じことではなかったのか。同化政策と差別問題というのは、そういう無理を強いた原因と結果ではないか。
本作がそのことを直接描いていなかったとしても、巡り巡ってそのことは考えざるをえない

*1:twitterを見ていたら、鶴見が金塊をせしめてそれが後に満州国建国の資金になるという終わり方を予想していたと言っている人がいて、自分はそこまでは考えていなかったけど、それだったら面白いなと思った。バッドエンド極まりないけどw

*2:同じく、最後の伊藤博文西園寺公望の名前が出てくることでどういう含意がでてくるのかあまり分かっていない