サブタイトルは、「日米同盟、憲法9条からNSCまで」
防衛政策史研究者による本で、タイトル通り、戦後日本の安全保障政策の歴史を論じた本である。
小林義久『国連安保理とウクライナ侵攻』 - logical cypher scape2を調べていたら、関連する本として出てきたので、あわせて手に取った。
この本自体は、ウクライナ侵攻とは直接関わりはしないが、ロシアによる軍事侵攻、そしてそれを中国が台湾へのテストケースとして見ているのではないかという推測などがあり、日本としてもあまり他人事ではないだろう。
先に国連安保理の話を読んだのも、自分としては、日本の安全保障を考えるにあたって国連による集団安全保障の枠組みが前提になるだろうと考えてのことだが、その一方で、むろん現実としては、国連よりも日米安保が日本の安全保障を実現していたわけで、それについても知っておいた方がよいだろう、と思い読むことにした。
内容としては、まさに(?)政策史研究という感じで*1、政策が成立する過程が緻密に追いかけられている。
日米安保や憲法については政治家レベル(官僚についても国会答弁)の話だが、防衛大綱などは閣議決定文書であることもあって、防衛庁の課長レベルの話などまで出てくる。
本書で繰り返されるのは、日本の安全保障政策の多くが、その場しのぎでの発案がその後の政策を拘束していったというストーリーで、金科玉条のようになっているものも、歴史的偶然によってそうなっただけだから変えていくことができるし、変えるべきだということを示唆している感じになっている(研究者の本なので、こういう風に変えるべきとまで踏み込んだ記述はあまりないが、そのような方向性を示唆しているところはある)。
示唆されている方向性については、信条的にあまり同意するわけではないが、政策の決定過程の歴史を読むのは結構面白かった。
歴史の本を読むという趣味的な立ち位置にたつと大変面白いのだが、一方で、現実問題、民主主義国家の有権者としての立ち位置で読むとなかなか困惑してしまうところもある(何らかの政治思想が導いてきたというよりは、その時々の、よりミクロな事情が影響していたりすることが多いから)。
ところで、全然関係ないが久しぶりに中公新書を読んだ気がする。
ここ数年、『世界哲学史』シリーズや『○○史講義』シリーズを読んでいたこともあり、ちくま新書率が非常に高かった。というか、最近に限らず、自分の持っている新書やこれまで読んできた新書の中で一番多いのは多分ちくま新書なのだけど、その次に多いのはおそらく中公新書で、意図してこの2つのレーベルを読んでいるわけではないはずだけど、気になるタイトルを手に取ってみると結果的にこの2つのレーベルだったことが多い。
というわけで、中公新書はわりと慣れ親しんだ新書なのだけど、久しぶりだな、と*2
第1章から第5章まで下記のトピック別に並べられている。
同盟(1章)、法(2章)、整備(3章)、運用(4章)、組織(5章)ということらしい。
なお、この順序なのは、概ねそれぞれが成立した時系列順。
第1章 日米安保条約―極東地域に「開かれた」同盟
第2章 憲法第九条―「必要最小限の実力」を求めて
第3章 防衛大綱―基盤的防衛力構想という「意図せざる合意」
第4章 ガイドライン―地域のなかの指揮権調整問題
第5章 NSC―「司令塔」の奇妙な制度設計
終章 歴史に学ぶこれからの日本の安全保障
第1章 日米安保条約―極東地域に「開かれた」同盟
日米安保は、日本からみると2カ国間の関係のようにみえ、そのため、極東条項や朝鮮密約に対する不快感や不可解さがあるが、アメリカからみると、極東地域の集団的安全保障の一機能であると、筆者は立論している。
そして、何故そのようなことになったかについて、筆者が提唱しているのが「極東一九〇五年体制」である。いわく、1905年のポーツマス条約までに、大日本帝国が確保した朝鮮・台湾を含む領域について、戦後「力の空白」を避けるためにアメリカが引き継いだという考えである。
日米の2カ国同盟なのではなく、米日・米韓(場合によって米台)の同盟関係は、アメリカを中心としたハブ&スポーク構造となった多国間同盟の様相をもっているのだということである。
日米安保は、日本がアメリカから軍事力を提供してもらう代わりに基地を使用させるという条約だが、日本の防衛だけでなく極東地域での安全保障にも米軍は基地を使うことができる(極東条項)。ただし、その際には日本との事前協議が必要となるが、朝鮮有事の際には事前協議が必要ないという密約がある(朝鮮密約)。
この朝鮮密約というのは、そもそも朝鮮戦争の際の国連軍という奴が事実上米軍と同じだったというところからなる。
第2章 憲法第九条―「必要最小限の実力」を求めて
憲法9条は、国体護持のバーターであったことを踏まえつつ、この章の主な論点は、「集団的自衛権違憲説」が、自衛隊の合憲性を守るために唱えられた「手品」であった、と。
自衛隊の合憲性としては、芦田修正と呼ばれる9条解釈に基づくという説があるが、政府の正式見解として芦田修正がとられたことはなく、ゆえに筆者は、自衛隊の合憲性の根拠は芦田修正ではなく集団的自衛権行使違憲説にあるとしている。
芦田修正の方が、自衛隊の合憲性を主張するにあたっては素直な解釈だが、芦田修正が政府見解とならなかったのは、当時の憲法解釈からは隔たりがあり、この見解へ移行するのは難しかったためだろうとしている。
もともと、政府は侵略のためであれ自衛のためであれ戦力を持つことは禁止されている、という見解をとっていたが、自衛隊設立において、自衛権は認められるとした上で、必要最小限の戦力なら認められるという解釈をとった。
そこで持ち出された「手品」が、集団的自衛権であったという。
そもそも、個別的自衛権と集団的自衛権は、自衛権の種類の違いであって、その2つは並行的なものである。しかし、当時、自衛隊の合憲性を守るためにこの図式を転倒させ、この2つが程度の違いであるようにしたのがこの「手品」なのだ、と。
つまり、集団的自衛権は個別的自衛権よりも上の自衛権で、9条で許される必要最小限の戦力は個別的自衛権までだ、という上限をそこに設定することで、集団的自衛権は違憲だが自衛隊は合憲であるという解釈を作り出したのだ、と。
PKO参加の際も、やはり同様の必要最小限論から、「武力行使との一体化」は許されないという論がなされた。これに対して、小沢一郎(を中心とした調査会)が、PKOは国際平和のための活動で9条が禁止している戦争ではないから、自衛隊のPKO参加は9条に抵触しないという議論(小沢理論)を展開した。しかし、これは政府見解としては採用されなかった。筆者は小沢理論と芦田修正が似ているが、結局、政府見解としては採用されなかったという同じ流れがあったことを指摘している。
第3章 防衛大綱―基盤的防衛力構想という「意図せざる合意」
防衛大綱は、自衛隊の装備についてその規模などを定めるための指針で、1976年に策定され、その後何度か改訂されている。
それ以前は、5カ年ごとの防衛力整備計画というものがあった(一次防などと略され四次防まである)。
もともと○次防は、「脅威対抗論」に基づき、脅威(要するにソ連)に対抗するためにはどの程度の整備が必要かという観点から作られてきたが、70年代にデタントが進むという国際情勢の中、「脱脅威論」に基づき「基礎的防衛力構想」による防衛大綱が策定されるようになった、というのが定説的な見解であったが、実際の政策課程はそうではなかった、ということを論じている章となる。
○次防は5カ年計画であり、防衛庁側からすると5年分の予算の前取りという認識であったが、四次防についてこれが守られなかった。防衛庁としては、ポスト四次防を作るにあたって、大蔵省がこれを守ってくれないのであれば○次防は作る意味がなくなってしまった。
○次防を止める代わりにどうするかといった時に、防衛大綱を作ることとし、では何故防衛大綱に代えるのか、という名目作りとして、基盤的防衛力構想がでてきた、という。
つまり、デタントによる国際的情勢の変化が脱脅威論を生み、そのために防衛大綱を作ることになった、という定説的な見解と実際とでは、目的と手段が逆転していたのだという。
脱脅威論を提唱したのは、当時の防衛局長(のち防衛事務次官)であった久保卓也で、通称KB論文と呼ばれる論文を著し庁内に配布したという。
しかし、これがそのまま庁内のコンセンサスを形成したわけではない。
実際には、整備計画担当の課長が、先の理由で五次防を作らないための大義名分として、このKB論文に目をつけたということになる。脱脅威論に同意したと言うよりは、プラグマティックな理由で脱脅威論を利用したのである。
だが一方で、制服組は脱脅威論には同意できなかった。軍事的には、脅威があって必要な装備を考えることができるので、脱脅威論という考えにはなじめなかったのである。
そしてその後、「基盤的防衛力構想」は脅威対抗論とも脱脅威論ともとれるような両義的なものとして扱われていく。
そして、そのように両立してしまったからこそ、長く続いていったのだと。
ところで、一九九五年大綱で「限定小規模侵略独力対処」を削除するとき、それに最後まで反対したのが、社会党と自衛隊だったという。
ここで、限定小規模侵略独力対処について、社会党は上限と考え、自衛隊は下限と考えていた、というのがちょっと面白かった。
これは、基盤的防衛力構想が、脅威対抗論とも脱脅威論とも捉えられる両義的なもので、そのどちらとして捉えるかで、同じ概念が防衛力の上限を定めるものとも下限を定めるものとも捉えらえるという例であった
さて、この「限定小規模侵略独力対処」が「自主防衛論」と考えられることがあるが、実際はどうかという話もしている。
筆者は、自主防衛か日米同盟かというのは正しくなく、整備か運用かという軸で考えた方がよいとする。
つまるところ、整備のための予算を獲得するためには、独力で対処するための装備として説明する方が都合がよいが、実際の運用を考える場合には、米軍なしでやるということにはならない、と。
第4章 ガイドライン―地域のなかの指揮権調整問題
第3章が整備の話だったのに対して、第4章は運用の話。
ここでは再び第1章で出てきたような日米同盟が、アメリカの極東地域安全保障体制の一機能であるという観点が出てくる。
日米安保は、原則的には人と物(軍隊と基地)の協力だが、人と人(軍隊同士)の協力がないわけではない。
その中で一番重要となってくるのが指揮権調整問題。
もし何らかの有事があって、複数の国の軍隊で共同で動く場合、連合軍司令部が設置され、その司令官が各国軍に対して指揮することができる、というのが一般的である
しかし、日米同盟においてはそうなっておらず、米軍と自衛隊はそれぞれ指揮権を有することになっている(指揮権並列)
アメリカとしては、指揮権並列という考えにそもそも馴染みがないので、日米関係においてはたびたび指揮権の統一を要求してくるのだが、日本は、同盟の「対等性」を維持するためにこれを拒んできたという経緯があるらしい。
実際のところ、この指揮権をめぐる話はもう少し複雑で、米韓同盟も関係してくる。
在日米軍と自衛隊の指揮権を一本化した際、場合によっては、韓国軍もその指揮権の下に入っていて、在日米軍、自衛隊、在韓米軍、韓国軍が事実上一体化する可能性もありえたのだ、と。
実際のところ、米軍側の組織編成によって、在日米軍と在韓米軍の司令部が一体化することがなかった(そういう案はたびたび出ていたようだが)のだが、日米安保は二カ国間の関係だけでなく、米韓との関係も視野に入れないといけない、という話
第5章 NSC―「司令塔」の奇妙な制度設計
NSCとは、2013年に設置された国家安全保障会議のことである。
アメリカにもNSCがあり、それの日本版と言われることもあるが、実際にはアメリカのそれとは結構異なるものであるという。
さて、NSCにはこれに対応する事務組織として内閣官房国家安全保障局などがある。
NSCの前身として安全保障会議があり、これの事務組織は、内閣官房内閣安全保障室だったり内閣官房内閣安全保障・危機管理室だったりする。
さらにその前身としては、国防会議と国防会議事務局がある。
本章では、これらを総称して「内閣安全保障機構」と呼び、内閣安全保障機構にどのような機能・役割が付されているかということを見ていく。
また、日本のNSCはかなり複雑な構成をしているのだが、これが、内閣安全保障機構の役割の歴史から解説される。
内閣安全保障機構は、文民統制のための慎重審議という役割が課せられている。
アメリカのNSCは決定機関だが、日本のNSCは審議機関である。日本の場合、意思決定できるのは閣議(内閣が連帯して議会に責任を負うため)であり、一部の大臣だけで構成されるNSCでは意思決定できない。
NSCは、四大臣会合と九大臣会合という複数の会議体からなるのだが、NSC以前の内閣安全保障機構の頃からあった、慎重審議機能を維持するために、複雑な構成をとるようになった。
さて、この文民統制のためのネガティブコントロールとしての慎重審議というのはどのようにして作られたのか
自衛隊創設を前にして、野党改進党が国防会議を設置するという案を提出する。これは、旧軍人を送り込むための策であった。しかし、これに吉田茂の自由党は反発する。
色々あった結果として、国防会議自体は設置されることになるのだが、当初、改進党が主張していた民間議員(つまり旧軍人)は含まれず、また、事務局も内務省系(警察官僚)が据えられ、自由党の換骨奪胎により、旧軍人を国防に送り込むという策は阻まれる。
ここから、内閣安全保障機構は、文民統制のためのネガティブコントロールとしての慎重審議をするという役割が付されることになった、と。