サブタイトルは「エナクティヴィズム入門」
エナクティブ・アプローチによる意識の理論について提案している。
意識の理論という範囲に収まらず、広く脳と心の研究のあり方を論じている、ともいえる。
「エナクティブ・アプローチ(エナクティヴィズム)」は、フランシスコ・ヴァレラが提唱したもので、本書でも「オートポイエーシス」から説き起こされている。
本書では、「自由エネルギー原理」とエナクティブ・アプローチを繋げる試みでもあり、その中で、「力学的アプローチ」とも関係しあってる。
本書は、神経科学者の吉田と現象学者の田口との共著であり、「神経現象学」という方法論の実践でもある(なお、神経現象学というのもやはりヴァレラに端を発するらしい)。
本書は、サブタイトルにあるとおり「エナクティヴィズム入門」であるが、それと同時に「オートポイエーシス入門」でもあり「自由エネルギー原理入門」でもある、という構成をとっている。
また、田口が提唱する「行為的媒介」論でもある。
本書は、オートポイーエイス(本書では「生物学的自律性」とも)、自由エネルギー原理、行為的媒介、エナクティブ・アプローチが渾然一体となって、意識の科学を立ち上げている本である。
意識という観点でいうと、意識には境界線がない、という指摘が面白かった
これは言われてみれば全くその通りの点であるし、一人称的世界(主観的世界)と三人称的世界(客観的世界)の違いというか、なぜその間にハードプロブレムが横たわっているのか、ということをうまく言い表しているようにも思う。
そして、そこを乗り越えるのに、生物学的自律性や媒介が関わってくる、と。
一方で、個人的には、意識の謎として一番興味があるのは、意識として現象している内容が感覚的な質を持っていることであって、その点についての説明はあまりなかったなあと思った。
本書はどちらかといえば、そういう質を伴った意識内容を可能にしている意識の構造を問題として取り上げているのかな、という気がした。
そう考えるとそれ自体はとても重要な問いであるなとは思った。
しかし、意識とは何か、という定義は人によってまちまちとはよくいうけれど、意識の特徴というのは色々な特徴があって、その中のどの特徴をまず解明するか、という点でも研究者によって違いが出てくるなあ、と思う。
意識の主な特徴として、現象性、一人称性、統一性(統合性)あたりがあるかな、と思う。
本書は、主に一人称性に着目しているかなという印象。統一性もわりとその範疇か。
ところで本書は、オートポイエーシス、現象学、力学系などがキーワードになっているわけだけれど、この系譜の心の科学・心の哲学・神経科学って、名前とかは知っているけれど、そういえば全然ちゃんと知らなかったな、ということに気がついた。
自分がこれまでちゃんと触れてこなかった系譜の知識がどどんと盛り込まれているので、その意味では、結構難しかった。
(これらの系譜についての自分なりの整理・感想は記事の最後に)
ただこの本は、上述したとおり、諸分野の入門であることも同時に目指している本なので、その点では非常にありがたかった。
また、他の意識理論との比較なども、適宜行われていて、その点でも本書の立場の相対的な立ち位置を明かしてくれていて、その点では、読みやすかった。
意識の理論について、色々な立場を知りたい、と思っていたところなので、よかった。
はじめに 神経科学と現象学をつなげるわけ
Ⅰ 表象することから自律性へ──意識は外界のコピーではない
Ⅱ 自律性とはなにか──開きつつ閉じている、われわれと環境
Ⅲ 世界を経験するとはどういうことか──切ることによってつながる、行為による媒介
Ⅳ 「予測」を展開する
Ⅴ エナクティヴィズム――行為的媒介による相互決定
Ⅵ 意識の謎に挑む──諸学問が融け合うとき
補論1 北海道大学 人間知・脳・AI 研究教育センター(CHAIN)について
補論2 エナクティヴ・アプローチと生態学的心理学と認知科学
あとがき 吉田正俊
主要参考文献(日本語書籍のみ)
はじめに 神経科学と現象学をつなげるわけ
Ⅰ 表象することから自律性へ──意識は外界のコピーではない
1 進歩する意識の科学
2 「意識とは、出来合いの現実があって、それに対する表象を作ること?」
3 意識のなかの「予測」――環境への働きかけによる結果を予測する脳
4 生物の基礎としての自律性――予測によって作動する感覚と運動のループ
本章では、近年の意識研究についてまとめた上で、多くが表象主義であるとする。
本書の立場は、表象主義ではない。
意識とは、意識のハードプロブレムとは
スーザン・ブラックモアの対談集『「意識」を語る』*1が何度か引用されている。
NCCや両眼視野闘争などの解説があったあと、NCC研究は「表象主義」を前提にしている、と続く。
眼球を動かすことで視覚経験が構成される=アクティブ・ヴィジョン(例えば盲点の補完とか)から知覚における「予測」を、仮現運動から「後付け再構成」を説明
サッケード抑制やブラックモアの「くすぐりマシーン」についても
ヘルムホルツの無意識的推論
→ヘルムホルツ自身がそう考えていたわけではないが、ヘルムホルツ的な考えは、意識とは「コントロールされた幻覚」だという考えに行き着く、と。そのような主張の例として、クリス・フリス、アニル・セス、ドナルド・ホフマンが挙げられている。
(これらの立場について、本書の中盤からは「独我論」と整理されている)
古典的表象主義も「コントロールされた幻覚」も、どちらも表象主義である、とする。
前者は外界がまず確固としてあって、外界は主体によって表象されている、と考える(外界→主体)
後者は主体がまず確固としてあって、主体は外界を推論している、と考える(外界←主体)
いずれも一方的な矢印
これに対して本書=エナクティブ・アプローチは、感覚と運動のループ=主体と外界が相互に特定し合う関係として、意識を考える。
Ⅱ 自律性とはなにか──開きつつ閉じている、われわれと環境
1 わたしたちはなぜ環境と同一化しないのか──自律性をひもとく
2 オートポイエーシス――生物における自律性の原理
3 生物学的自律性、生命と精神の連続性
4 脳における自律性――脳は何もしていないときでも活動を止めない
5 開きつつ閉じる――われわれと環境は入出力関係とは異なる形でつながっている
この章は単体でオートポイエーシス入門としても読めるようになっている。
- アシュビーの「ホメオスタット」と「入力も出力もない」ことについて
まず、ホメオスタシスの説明があり、アシュビーのホメオスタットが紹介される。
ホメオスタットは、ホメオスタシスの機能を持った機械である。
アシュビーは、イギリスのサイバネティクス研究者で、本書では何度も登場する
オートポイエーシスの特徴として「入力も出力もない」というものがある
これが、オートポイエーシスを良くも悪くも謎めいたものにしてしまっているわけだが、例えばこのアシュビーのホメオスタットは「入力も出力もない」ものである。
制御サイクルが自己完結していること
ただし、外部からの擾乱はある。
外部とのやりとりがない、というわけではない。
- サイバネティクスの2つの系譜
- ウィーナーらアメリカの系譜
- アシュビーやベイトソンらイギリスの系譜
- 超安定性
予期せぬ擾乱にあっても安定を維持する、オープンエンド性
- アシュビーの「良い制御器」定理
安定性の結果、システムと制御器の間で相互情報量の最大化が成立すること
イオンチャンネルとか、カリウムの濃度が変わるとそれを調整する。
イオンチャンネル(制御器)は、システムのカリウム濃度の変化幅に対応できている、というのが相互情報量の最大化で、このとき、制御器はシステムをモデル化している、という。
おばあさん細胞というのがあるけれど、これについても「良い制御器」定理から説明している。おばあさんと細胞が一対一対応している、というより、神経細胞の安定性の結果だと。
なお、「安定性→相互情報の最大化」であって「相互情報の最大化→安定性」ではない、と。
石は、相互情報量の最大化は成立しているが安定性を保っているわけではない。
石の温度と環境の温度は一致。石は環境に開かれっぱなし
「開きながら閉じる」のが大事であり、そのことが「自律性」
オートポイエーシス
化学反応(例えばクエン酸回路)について、
普通、代謝物を矢印でつないだ図を描くけれど、化学反応をつないだ図を描くこともできる。
この時、反応と反応とをつなぐ矢印は「可能化関係」
「オートポイエーシス=操作的閉包+構造的カップリング」
- 操作的閉包性
可能化関係によって、過程と過程がつなって閉じている
例えば、細胞内代謝ネットワークと細胞膜の空間配置
細胞内の代謝は、細胞膜の空間配置によって可能になるが、細胞膜の配置は、代謝によって可能になる。
- 構造的カップリング
細胞と環境の相互作用のこと。
生物以外にも見られる。自動車の数と都市の大きさ。自動車が増えると都市の道幅は広くなり、道幅が広くなると自動車の数が増える。
メトロノームの同期もまた。
ヴァレラは、構造的カップリングのことを、適合的ないし適応と表現する。
- 組織構成organizationと構造structure
マトゥラーナとヴァレラは、この2つを区別する。
前者の観点から見たのが、操作的閉包
後者の観点から見たのが、構造的カップリング
オートポイエーシスの定義に、進化や複製は含まれない。
ある組織構成がイマココで生きているときの特性として、操作的閉包を挙げている
- 生物学的自律性
ヴァレラによれば、以下の2つからなる
(1)生物とは個体性を構築するプロセス
(2)生物で創発した個体性は相互作用の領域の参照枠を与える
これは、個体性→相互作用の領域→意志・価値→操作的閉包→個体性、という循環構造になっている。
環境:観察者側から見たもの
世界:個体性ができるのと同時に生まれるもの。個体性と世界は互いを定義する
- 感覚運動カップリングとニューロン間ネットワーク
感覚運動カップリングとは、運動が感覚を引き起こすというプロセス(例:アクションビジョン)
感覚運動カップリングとニューロン間ネットワークは、互いに可能化関係にある
脳
刺激があって反応する、というわけではなくて、外部からの刺激があろうとなかろうと、常に活動している、ということがわかってきた(デフォルト・モード・ネットワークとか)
刺激による反応というのは、その活動に偏りが生じる、ということで、「アトラクター」としての脳、と考えられる
- 神経細胞
ホジキンとハクスレー
→神経細胞の活動を力学系としてモデル化
安定的な時間パターン=リミットサイクル
膜電位Vという状態を持つことが、力学系としてモデル化された神経細胞と形式ニューロンとの違い
入力は擾乱
- 神経ネットワーク
神経細胞と同様に力学系として捉えることができる。
→メトロノームの同期と類似。神経細胞は振動子。脳波
じゃあどういう力学系なのかについては、色々な考え方があり、最近、自由エネルギー原理との関係で提案されてきているのが「ベイズ力学」
Ⅲ 世界を経験するとはどういうことか──切ることによってつながる、行為による媒介
1 主観的世界と客観的世界の間に境界線はない
2 主観的世界から観察できない外へ向かう「行為的関わり」
3 媒介とはなにか──切ることによってつなぐ
4 オートポイエーシスとは行為的媒介である
5 不安定さ──「閉じていること」と「外」の経験
6 「外を生きる」ことと「予測」
ここまでシステム論や神経科学の話が続いたが、この章は、どちらかといえば現象学っぽいというか、哲学パートっぽい感じになる。
主観的世界とその外
主観的世界に境界線はない。
例えば、自分の視野に境界線はないだろう。360度覆われていて切れ目はない。
あるいは、ここまでが主観的世界でここからが客観的世界だ、などという境界線を、見たり経験したりすることはない。
しかし「外」はある。
自分の視野に境界線はないけれど、もちろん、自分からは見えていないところ、というのがこの世界にはある。自分から見えていないところ=「外」である。
だが、自分が動けば、その「外」は自分の視野の中に入ってくる。
つまり、行為によって、主観的世界と「外」はつながっている、と。
「外」を知るのは観察によってではなく、行為によって。
媒介
田辺元が提案した「媒介」概念
1.AなしにBはない
2.切ることによってつなぐ
この2つによって特徴づけられる概念。
1の特徴は因果関係っぽいが、媒介は因果関係ではない、より広い関係概念
切ることによってつなぐ、というのも、パッと見わかりにくい言い回しだが、AとBは別物であるというのが「切る」。つながるけど同一にはならない、というような意味かと。
媒介というと、AがCを介してBとつながる、というような三項関係を思い浮かべそうになるけれど、ここでいう媒介は、Cのような媒体を介さない二項関係
本書は、先ほどの、「外」が行為によって主観的世界に入ってくる、というようなことを「行為的媒介」と呼ぶことを提案する。
行為的媒介は、観察的媒介と対比される。
行為的媒介とオートポイエーシス
- 「システムそのものの組織化」と「観察にとって現れてくるもの」の区別
前者の視点から見ると、入力と出力がない。
後者の視点から見たときは、入出力があってよい。
行為的媒介は前者
観察的媒介は後者
科学は、観察から始まる。こういうのを自然的態度と呼ぶ
これに対して、現象学的態度というのがある。
個体性を作ると同時に世界を作る=行為的媒介
不安定さと予測
生命体は、システムの作動という点で外からは閉じているが、外がなければ生命体は生きることができない
相互的擾乱
不安定さが必要
予測誤差とは、不安定さのあらわれ
認識=閉じた内と見えない外との揺れ動き
予測とは行為的媒介でありエナクションの一種
Ⅳ 「予測」を展開する
1 予測的な処理――生物は環境についての予測を知覚と行動によって更新してゆく
2 予測にもとづいた安定性――アロスタシス
3 神経科学・神経計算論における「予測」――予測誤差最小化
4 知覚、運動、情動を統一する自由エネルギー原理
5 能動的推論
この章は、「予測誤差最小化/自由エネルギー原理」入門
まず、「予測」概念の意味を広くとる
「環境と生物との間の相互作用、つまり感覚運動カップリングが持つ、時間的、空間的な規則性を活用して適応的にふるまうこと」(p.163)
大腸菌も「予測」する
ダーウィン型生物、スキナー型生物、ポパー型生物とあるけど、あれらは、環境に対しての適応策として、複数の表現型から選ぶか、複数の行動から選ぶか、複数の反実仮想から選ぶか、という違い。
大腸菌のようなダーウィン型生物は、表現型によって予測している
予測、というと、脳内での思考のように(つまりポパー型生物だけが行うことのように)思えるかもしれないけれど、ここでいう「予測」はそういうものではないので、もっと広い意味で捉えてね、という前提の説明
(大腸菌の「予測」は、進化による適応を学習の一種と呼ぶのに似ているような感じもする。脳内だけで行われるもの、みたいに限定しないでね、という話)
- アロスタシス
あらかじめ定められた適正値に応じて調整を行うホメオスタシスに対して、予測に基づく適正値によって調整を行うのがアロスタシス
適正値がホメオスタシスと違って変動する(ただし、ホメオスタシスの提唱者キャノンも適正値が変動しないとは考えていなかったらしい。サイバネティクスの影響で静的なホメオスタシス観が定着した、と)
予測を生成するためのモデルが必要
ここでいうモデルとは、「良い制御器」定理で出てきたモデルと同じ
制御器の活動パターンと外部環境の多様性の関係は、一対一対応=環境を表象というわけではなく安定性の結果によるもの
- 予測誤差最小化理論と自由エネルギー原理の関係について
予測誤最小化ネットワークは、階層構造になっている
どの階層の予測誤差を最小化すべきか
→その指標を与えるのが、自由エネルギー原理
自由エネルギー原理の式自体には、予測誤差はでてこない
→自由エネルギー原理にとって、予測誤差最小化は手段の一つにすぎない
内受容感覚の予測誤差は、自己の概念
アニル・セスも言っている
- 自由エネルギー原理
もとはカルマンフィルターとしての知覚や最適制御理論としての運動制御の代替、として考えられてきたもの
しかし、自由エネルギー原理は、それらとは目的が違う
生物が環境と安定的であり続ける条件や、知覚・運動・情動の関連に見通しを与えるための理論
- 能動的推論の時間的推移
将来の変分自由エネルギーが確率的に下がる行動選択
そのために、反事実に基づく予測(反実仮想)を行う(アロスタシスと同様)
Ⅴ エナクティヴィズム――行為的媒介による相互決定
1 エナクティヴィズムとは
2 感覚運動随伴性
3 予測誤差は消せない。差異を食らうネットワーク
4 エナクティヴ・アプローチから自由エネルギー原理を見直す
5 現在から過去へ、意味づけする意識
ヴァレラのエナクティヴィズム
『身体化された心』(1991)で提唱された
enactは、制定する・役を演ずる、という意味だが、ヴァレラは言い換えとして「bring forth(生みだす)」という表現を使う
エナクティビズムでは
「知覚とは、知覚的に導かれた行為のことである」
という定義がある。
知覚の定義の中に知覚が入っていて、循環的定義になっているが、この循環性がエナクティヴィズムのポイント、らしい
ノエの感覚運動随伴性仮説
知覚能力は、感覚運動随伴性の所有によって構成される。
「感覚運動随伴性の所有」とは、技能的なものである。
エナクティヴィズムにでてくる、感覚運動カップリングとほぼ同じもの
夢の中の経験を説明できないと反論されるが、技能をもっていればよいので夢の中でも経験は生じる
水槽の中の脳は、最初は意識を持つが、徐々に意識を失うだろう、と予測(外部との関係がないので、感覚運動随伴性が徐々に失われていくだろう、と)
メカニズム的説明ではない、という批判がなされることもある。
- ノエとヴァレラの違い
ノエ:自律性にはコミットしない。ギブソンを受け継ぐ直接知覚論。分析哲学系であるマクダウェルなどに依拠
ヴァレラ:現象学に依拠
感覚運動随伴性としての習慣
ジェイムズ「生物とは習慣の束」
エグバートのロボット
- 逆さ眼鏡
感覚運動随伴性の崩壊と再獲得
- 現実感
HMDによる実験(鈴木啓介)
眼前にいる人と会話している途中で録画と切り替わる
→現実かどうか疑わしくなると、自分の手や身体を動かして自分の動きが映るか確かめる
→現実感の確認に、感覚運動随伴性が用いられている
その後のエナクティブ・アプローチ
ディ・パオロらが発展させている
自由エネルギー原理とエナクティブ・アプローチの関係について
本書は、予測誤差最小化ではなく予測誤差「消費」理論を提案する。
大腸菌の例
予測誤差を食らうことで維持する
予測誤差の消費=ほかの階層の予測誤差消費を可能にする
操作的閉包をできるだけ長く維持することが、予測誤差の消費、ということ。
フリストンは、自由エネルギー原理をヘルムホルツの無意識的推論からの系譜として論じているが、一方で、自由エネルギー原理自体は、ヘルムホルツの無意識的推論に対してもエナクティブ・アプローチに対しても中立だという。
- エナクティブ・アプローチと自由エネルギー原理が整合するか
そういう観点で研究も進められているが、相性がいい点もあるが、まだうまく整合性が詰められていないところもあるという
例えば、自由エネルギー原理では、生物の自律性をマルコフ・ブランケットから説明しているが、これは、因果関係が循環していないので、操作的閉包ではない(エナクティブ・アプローチとの不整合)
一方、アシュビーの超安定性を捉えているという点では自由エネルギー原理はいい、とも本書は評価している
(サイバネティクスには、制御工学につながったウィーナー的側面と、人工生命研究につながったアシュビー的側面とがある。自由エネルギー原理は制御工学的な道具を用いてアシュビー的なことを再興しているとも見れるのではないか、と指摘している)
- ベイズ力学
フリストンらが提唱している力学系
ベイズ力学の力学系と脳の内部状態の力学系は、センサー値を共有している
2つは強く関係している
このあたり、マジで何言っているのかよくわからないのだが、筆者自身も、このあたりの数理をちゃんとは理解できていない、と告白されていた。
変分原理としての自由エネルギー原理と目的論の部分的復権
自由エネルギー原理は規範性を持つ=変分原理と同じ構造
→未来に向けての最適化なのではないか。だとすれば、それは最適な一つに収束していき、多様性を失う原理なのではないか、と筆者は疑問を呈する。
筆者は、これに対する答えになりうるものとして、以下を展開する
- 渡辺慧による目的論の部分的復権
渡辺慧(1910~1993)は、「醜いアヒルの子定理」で知られる物理学者・情報科学者
本書の記述やWikipediaの記述をあわせるとこんな人
ド・ブロイのもとに留学し、ハイゼンベルクに師事し、ボーアらとも交流があった。
ベルクソンの影響を受けて時間論や生命論も書いている。
パターン認識の先駆け
シャノンに先駆けて、エントロピー概念を用いた情報理論を展開した、と。
つまり、物理学にとどまらず幅広く研究を行った人で、戦後、思想の科学研究会の発足時の同人の1人だったとのこと。
渡辺によれば、生命のようなエントロピーの減少する系では、因果律の逆が成り立つ、と。
つまり、エントロピーが増大する系では、現在の状態から結果(未来)が推定できる(因果律)のに対して、目的(未来)から手段(過去)の推定ができる(因果律の逆)、と。
この、目的から手段の推定のことを「遡言(retroduction)」と呼んだ。
目的から遡って価値が生じる
→能動的推論と合致
→エナクティブ・アプローチとも合致(生物が自分にとっての価値を生成)
物理的因果の世界:時間方向に物理的な自由エネルギーを下げる
心的世界:時間を遡って情報的な自由エネルギーを下げる
=生物は負のエントロピーを食う
「予測」とは現在から過去、未来から現在への意味づけ
(なお、変分原理は、解析力学によって無時間的な軌道としても捉えることができるけれど、現在主義と永遠主義の関係っぽいよねと注釈した上で、『スローターハウス5』や『あなたの人生の物語』が紹介されていた。確かに、自分は変分原理を『あなたの人生の物語』で知ったクチなので思い出してはいた)
想定外の事態も取り込んでいく
Ⅵ 意識の謎に挑む──諸学問が融け合うとき
1 「意識を理解する」ことの意味とは
2 神経科学と現象学をつなげる
3 具体的問題に挑む1――意識の問題への提言
4 具体的問題に挑む2――精神疾患などの意識経験の変容の理解へ
5 人文知、脳科学、AIがつながる
意識の本、という意味では、この章が本題となる。
第2節が、一番中心的なところ
第3節は「意識の分布問題」について
第4節は、統合失調症にかんするサリエンス仮説の検証について書かれている。以下では省略した。
第5節は、補足的な議論がいくつか
意識をどのように捉えるか
意識:説明できないが自明な概念
→隠れた前提を主題化するのが現象学
表象主義のような実在論にも独我論のような観念主義にも与しない
意識を「もの」化しない(=脳状態と対応するような対象として捉えない)
意識とは行為的媒介を生きられた経験から表現したもの
神経現象学
現象学的説明と認知科学が相互に拘束条件を与えるという関係
その形式化に非線形力学を用いる
なお、認知を計算と考えるか、力学系として考えるかという区別があるが、現在、RNNが力学系を表現できるので、この区別の再検討が必要という注釈あり。
オーラ経験(てんかん発作前の症状)の脳波計測
意識状態と脳波を対応させるのではなく、ベクトル場の対応として捉える
(同型ではなく、位相同型)
脳の状態と意識の状態の対応ではなく、脳の過程と意識の過程の絡み合い(循環的構造)
可能化関係
例えば、大砲を撃つとき、砲弾の向きの束縛条件に大砲の筒がある。仕事(火薬の爆発)がなければ束縛条件は見えない。束縛条件は数式化されない。
可能化条件は行為的媒介そのもの
信念ユニットと生成モデルと予測誤差
- 信念の集合体=イマココで生物が知覚しているもの
- 生成モデルの集合体=学習、発達、進化で獲得した世界のモデル
「予測的処理」
相互作用の安定化こそが規範(ベイズ的な最適計算と変分自由エネルギーの最小化と分散する予測誤差の最適調整は必ずしも一致しないかもしれない)
- 表象主義 :意識=信念の束
- 感覚運動随伴説:意識=生成モデルの束
これに対して、第三の道を考える。
- 意識経験の構造(フッサール現象学)
(1)注意を向けられている対象(主題的なもの)
(2)周辺視
(3)視覚世界を成り立たせている非主題的な前提条件
→(1)は信念の束、(3)は生成モデルの束、(2)は両者の相互浸透
- 本書:意識=媒介のプロセス
信念と生成モデルの間の差異が意識を成り立たせる(差異がないと意識は消える)
本書が提案する理論の自己評価
志向的対象と非主題的な前提条件の相互浸透
→「意識の境界は見えない」ことの説明になっている
単一性や一人称性と整合
→知覚の理論ではなく意識の理論になっている
周辺視野も意識経験の一部分に組み込まれる
→アクセス意識ではなく現象的意識の理論になっている
用語法にかんする枝葉末節な感想
意識が「信念」の束と言われると、分析哲学に馴染んでいる身としては違和感がある。
ただ、本書での「信念」という言葉の出所は、予測符号化や自由エネルギー原理の説明の際に出てくるもので、知覚の説明をする際に、信念ユニットと予測誤差と生成モデルのネットワークみたいな図が出てきて、自由エネルギーを下げる方法として、信念の更新、予測の更新、生成モデルの更新があるよ、みたいな話をしていたところだと思う。
ということは、ここでいう信念は、知覚の内容みたいなものに近い意味で使われている感じがする。
分析哲学系の心の哲学だと、基本的に、信念と知覚は区別された概念のはず。
分析哲学だと、信念ってそもそも命題として表されるものだが、知覚の内容は非命題的なので。うーん、ただこれも、一枚岩ではないか……
現象的意識も、その点で、普通は信念ではないと考えられているはず。
予測誤差理論における「信念」がどういう意味合いだったか
まあ、これは単に「信念」が、多義語であって、何に依拠しているかで意味が違ってくるから、それを踏まえよ、という話でしかない
なので別に全然かまわないのだけど、やっぱり、意識の現象性(経験に伴われる感覚的な質)があまり念頭に置かれていないような気もしてしまう。
じゃあまあ、分析哲学系の心の哲学が、そのあたりどれくらいできているか、というとまた話は別なのだが
個人的には、クオリア構造学とかは、そこを説明しようとしているような気はしている。
それとはまた別件
生成モデルを意識と呼ぶのはまた違う気がする。生成モデルは、意識を可能にしている背景であって、意識そのものではないような
そういえば、渡辺正峰は、生成モデル=意識論だったっけか。ノエとはまた全然違う立場だとは思うのだけど。
その点で、生成モデルと信念(知覚)とが互いに誤差を生じさせるプロセスが意識、という本書の立場の方が、理解できる。
個人的には、上述された構造でいうと、(1)と(2)が意識なんじゃないかなー、と思うけれども。
意識の分布問題
分布問題とは、人間以外の動物にも意識はあるかという問い(ギンズバーグ&ヤブロンカ)
本書の理論は、以下のような予想を行う。そしてこれらの予想は、既存の意識理論とは異なる
- 大腸菌やカエル
なんからの意識をもつ
むろん、人間のような意識ではない。感覚運動ループの豊かさが意識の豊かさとつながるのではないか
- サーモスタットや模型の車
生物学的自律性をもたないので、意識ももたない(本理論は汎心論ではなく、統合情報理論とは異なる)
- 人工ニューラルネット
ヤコブ・ホーウィのように、予測誤差最小化ネットワークの信念の部分が意識だと考える立場からは、意識を持つ
本書の理論からは、外部への介入ができないので、意識を持たない
- 水槽の中の脳
もともと意識を持っていた人の脳を水槽の中へと移した場合、当初は意識を持つ
が、外界への介入ができず、感覚運動随伴性が維持できないので、次第に失っていく
- AI
不可能ではないが、実装は非常に困難
生物学的自律性を持たせる必要があるので
自律性を0から立ち上げるのではなく、すでに自律性を持っているものから分化する方法が有望
マトゥラーナとヴァレラについて
以下、補足的な議論が続く。
『オートポイエーシス』などを共著した2人は、『知恵の樹』以降は別々の道へ進む
- マトゥラーナ
- オートポイエーシスを、心的システムや社会的システムへ広げる。この道は、ルーマンやネオサイバネティクスへ
- 基本的にサイバネティクスの人
- マトゥラーナにとってオートポイエーシスは、認識論的転換
- ヴァレラ
- 人工生命研究や神経ダイナミクス研究へ
- 基本的に現象学の人
- ヴァレラにとってオートポイエーシスは、存在論的転換
本書とほかの論者との比較
- クリス・フリスやアニル・セス
- 同じ:予測誤差から考えているとこ
- 違う:独我論的なところ
- ヤコブ・ホーウィ
- 同じ:自由エネルギー原理のところ
- 違う:表象主義で、心は脳に閉じ込められていると論じているところ
- アンディ・クラーク
- 自由エネルギー原理、力学系、自己組織化などを取り上げていて、非常に近い
- クラークは表象主義とエナクティブ・アプローチの調停を試みる。本書は、よりエナクティブ寄りだが、目指すところは近い
「予測的処理」という言葉もクラークからとった
(ギャラガーによる分類:ホーウィ「予測符号化」、クラーク「予測的処理」、ギャラガー「予測的関与」)
今後の課題的なもの(1)
自由エネルギー原理は、記憶をあまりうまく扱えていない
中井久夫による認知の分類
- 微分回路(兆候)
- 積分回路(索引)
自由エネルギー原理は、積分原理をすべて生成モデルに押し込めている。
また、「予測」という言葉より「兆候」という言葉の方が、明確な対象でない予感を含んでいる
予測という言葉では、「答え合わせ」モデルを温存してしまうのではないか
今後の課題的なもの(2)
ニューロAI(神経科学とAI研究を融合していく研究動向)との関係
「直接フィッティング」がいわれている(心理学的概念いらなくないか、という考えらしくて、つまり消去主義みたいな考えのことだろうか)
ニューロAIは、自由エネルギー原理を相対化してくれる点で、有用だ、と
また、津田一郎も参考になる、としている。
補論1 北海道大学 人間知・脳・AI 研究教育センター(CHAIN)について
本書の著者である吉田と田口はともに北大のCHAINに所属する教員である。
田口はセンター長を務めており、吉田と田口がこのセンターで行ってきた共同研究が本書へとつながっている。
また、センター内ではそれ以外にも、分野を超えた共同研究が行われているという紹介がされている。
このセンターは研究とともに大学院への教育も行っていて、吉田は「意識の科学入門」という講義を担当しており、この講義の中で「知覚としての意識」「自己としての意識」「感情としての意識」を扱っている。本書は主に「知覚としての意識」を取り扱ったものであり、「自己としての意識」「感情としての意識」までは論じることができなかった旨、補足されている。
補論2 エナクティヴ・アプローチと生態学的心理学と認知科学
チェメロは、エナクティブ・アプローチとJ.J.ギブソンの生態的心理学と認知心理学の3つのアプローチを比較
ここでは、チェメロを踏まえながら筆者たちなりにこの3者の関係を整理している。
特に、エナクティヴ・アプローチと生態学的心理学とは、互いに補完し合う関係のように思えるとしつつ、しかし、安易に統合させるのは難しいだろうということも指摘している。
例えば、認知心理学はギブソンの概念を取り入れてはいるが、本当に統合できているのか、という点で疑わしい、と。
つまり、ギブソンの存在論(環境実在論)を受け入れずに概念だけ用いても駄目なんじゃないか、と。
エナクティブ・アプローチとギブソンも、採用している存在論が違うのだ、としている。
あとがき 吉田正俊
本書が作られた経緯、主に田口との共同研究の経緯が書かれている。
最後の謝辞のところに、平井靖史や池谷裕二の名前があった。平井靖史のベルグソン本もいつか読みたいけど
主要参考文献(日本語書籍のみ)
ここにあげられている文献のうち、特に本書にとって重要なものには、○がつけられている。その○がついている文献だけ並べてみる(ただし、本では筆者五十音順に並べられているものを、ここでは勝手にテーマ別に分類した。分類に誤りがある可能性はある)
- オートポイエーシス、エナクティブ・アプローチ
マトゥラーナ+ヴァレラ『オートポイエーシス』
マトゥラーナ+ヴァレラ『知恵の樹』
ヴァレラ+トンプソン+ロッシュ『身体化された心』
- サイバネティクス
アシュビー『頭脳への設計』
ベイトソン『精神と自然』
- 現象学
ギャラガー+サハヴィ『現象学的な心』
コイファー+チェメロ『現象学入門』
田口『現象学という思考』
- 認知科学
クラーク『現れる存在』
下條『潜在認知の次元』
ギャラガー『身体性認知とは何か』
セス『なぜ私は私であるのか』
ノエ『知覚の中の行為』
西郷+田口『〈現実〉とは何か』
カウフマン『WORLD BEYOND PHYSICS』
田中+鈴木+太田『意識と目的の科学哲学』
渡辺『生命と自由』『知るということ』
いろいろな系譜
この記事の冒頭で以下のように述べた
ところで本書は、オートポイエーシス、現象学、力学系などがキーワードになっているわけだけれど、この系譜の心の科学・心の哲学・神経科学って、名前とかは知っているけれど、そういえば全然ちゃんと知らなかったな、ということに気がついた。
心の哲学(分析哲学系と現象学系)
「心の哲学」というの、文字通りにいうと心についての哲学のことを指すので、分析哲学系の伝統のみを指すわけではないのだけれど、とはいえ「心の哲学Philosoph of mind」という分野名のつけかたは英語圏っぽいし、心の哲学と冠された本はたいてい分析哲学系のそれを取り扱っている。自分にとっても、心の哲学についての知識はこの系譜のもの
しかし一方で、現象学もまた心についての哲学であり、分析哲学系の心の哲学が人工知能研究や認知科学と関わっていたのと同様、現象学もまたそうした経験科学との関わりをもってきた分野である。
また、近年では現象学か分析哲学かという垣根を越えつつもあるようでもある。
例えば、心の哲学ではなく知覚の哲学だが、以下のような本がある。
源河亨『知覚と判断の境界線』 - logical cypher scape2
ベースは分析哲学系だと思うが、現象学の議論も積極的に取り入れているように思える。
現象学系の心の哲学もあるというだけなら知っていたが、しかし、ちゃんと読んだことはなかったなあ、と。
オートポイエーシス・サイバネティクス・システム論
オートポイエーシスの方は、サイバネティクスとかシステム論とかそういった系譜に属するものだと思うけれど、ここらへんもまあ「りろんはしってる」状態というか何というか。昔、現代思想の本とか複雑系の本とか読んで、通り一遍に聞きかじったりはしたけれど、分析哲学の本を読むようになってから、とんと触れなくなっていた気がする。
そういえば、現代思想のウィーナー特集買ったんだけど、冒頭の対談記事読んだだけのまんまになっているんだった……
そこで、ネオ・サイバネティクスというのがある、というのは知ったけど、「な、なにそれ?」状態になった。
ルーマンとかも結局触れずにきたしなー
現代思想とかで結構もてはやされていたような気がするけれど、それが今現在、どうなっているのかよくわからん、というのもあるかもしれない。複雑系とか……。
表象主義vs反表象主義
まず、力学系の神経科学や力学系の認知科学についてはほんとに全然知らない。
以前、『ワードマップ心の哲学』(一部) - logical cypher scape2を読んで、認知における「力学系」という言葉を初めて知った。
本書によると、計算論的な認知観の系譜と力学系的な認知観の系譜というのがどうもあるらしい(アンディ・クラークが『現れる存在』でこの2つの系譜について論じているとか)
でもって、この力学系というのが、もっと広くいうと、反表象主義の中に位置づけられるっぽい。
本書もまた、反表象主義の立場をとる。
反表象主義って、心の哲学とか人工知能研究の本を読むと、立場の一つとして一応紹介されることは紹介されるんだけど、このあたりもそういえばあんまりちゃんと分かってなかったかも、と。
反表象主義というと、個人的には、ロドニー・ブルックスの名前とかが思い浮かぶけど、そういう点でしか認識しておらず、線としてつながってない、というか。
で、本書では主題的に取り扱われなかったけれど、これにJ.J.ギブソンも加わる。
個人的には、ギブソンもまた、「アフォーダンスの人ね」というキーワード的には覚えているけれど、それ以上はよく知らない人なのだが
『現象学と二十一世紀の知』長滝祥司編著 - logical cypher scape2やリチャード・グレゴリー『脳と視覚――グレゴリーの視覚心理学』(一部) - logical cypher scape2といった自分のブログ記事を読み返してみたら、
ヘルムホルツ=表象主義(間接実在論)の系譜と、
ギブソン=反表象主義(直接実在論)の系譜
というのがあるということが書いてあった。
あと、計算論的神経科学は表象主義の流れで、力学系は反表象主義の流れっぽい。
それから、身体性認知・4E認知も、反表象主義の系譜に属するということなのだろう。
予測符号化や自由エネルギー原理が、4E認知とは相性が悪い、というのが『ワードマップ心の哲学』(一部) - logical cypher scape2やフリス「心をつくる」によってpredictive codingについてのモヤモヤをなくす - 蒼龍のタワゴト~認知科学とか哲学とか~に書かれているが、こういう2つの系譜の違いが背景にあるのか、ということにようやく気付いたというか。
で、アンディ・クラークや本書は、この2つの系譜の調停を試みているのだ、と。
反表象主義について、並列的に存在する複数の説・立場の一つだと思っていた(同一説やら機能主義やらとか)。しかし、どちらかといえば、それ自体が一つの知的伝統をなしているような感じなのか
ところで、ギブソンといえば最近柴田崇『サイボーグ―人工物を理解するための鍵』 - logical cypher scape2を読んだばかりだが、これがギブソン論であった。
というわけで、今急速に、自分が見てこなかった系譜の存在感が、自分の中で立ち上がってきている。
現象学、サイバネティクス、ギブソン……
