F26号特集「動物」
宮沢賢治の童話テクストにおける「狐」たち— 強いられる適応と生存戦略 構大樹
宮沢賢治の作品は「自然との共生」というキーワードで語られることが多いが、実際はどうなのか、という観点で、「狐」に着目する
賢治童話で「狐」は、人間の近代社会に適応しようとする存在として描かれているが、人間社会の中に入った「狐」は、人間にも変化を求めてくる存在である。
「自然との共生」というのは、なんとなくふんわりとした感じで語られがちだが、賢治作品には、人間によって変化を強いられるだけでなく、人間側に変化を強いてくる存在として動物が描かれているのだ、と。
猫なのに、猫じゃない動物―小山田浩子「ねこねこ」を読む 今藤晃裕
主人公とその娘が公園で見かけた野良猫(黒い塊)と、主人公の義母の家で飼われている飼い猫が対比されて、義母が主人公と娘あるいは飼い猫を自分の理想通りに振る舞う存在とみなそうとしてくることを描く作品、のようだ。
公園の野良猫は、娘によって、猫ならぬ「ねこねこ」と称され、動物の他者性が描かれているのだ、というような論だったと思う。
小山田浩子は名前をちょくちょく見かけるけどまだ読んだことない人なので、なるほどー、こういう感じかー、読んでみたいような気もするなー、と思った。
論旨全体にはあまり影響しない点なのだが、娘が野良猫を猫ではないと言ったが、それは別に娘が猫という類概念を理解できていないわけではない、という前段の議論がある(では、何故猫ではないと言ったのか、ということで、祖母の家の飼い猫との対比が始まっていくのだが)。そこで、シニフィエとシニフィアンの話が出てくるのだが、ちょっと違うような気がして戸惑った。
シニフィアンの恣意性って、まずはラベルの恣意性のことをしている(当の動物を「猫」と呼ぶか「cat」と呼ぶかは恣意的)という理解をしているので、話がズレているのでは、という戸惑い。
しかし、そういえば、ソシュールの話って、世界の切り分け方の恣意性(同じ動物がタヌキになったりdogになったり?)という話もしていたから、別にいいのか、と思い直しはした。
ラベルと世界の切り分けは、別レイヤーの話じゃん、と自分なんかは思ってしまうのだが、そういえばソシュールは、そこを同レイヤーと見ているんだっけか。
うん、本論と全然関係ない脱線話なので、このへんで。
『進撃の巨人』私論―家畜的生と自由、あるいは暴力について 冨田涼介
『進撃の巨人』はアニメでずっと見ていたが、原作を読んだり、アニメを見返したりなどはしていなかったので、大きなあらすじは分かっているつもりだが、とはいえ、きちんと整理した形での理解に至っていなかったので、この論を読んで、改めて整理された。
豚のモチーフと鳥のモチーフの対比
エレンの根源的欲求が、自分の自由を奪う者が現れたその者の自由を奪い返す、であり、それをちゃんと理解できていたのはリヴァイだけであり、アルミンもその点では誤解なのでは、ということが述べられていて、そこらへんちゃんと分かってなかったなと思った。
リヴァイ=アッカーマンは鳥なので。
っていうか、オカピの巨人って豚の巨人なんだ……。
『宇宙・動物・資本主義 ――稲葉振一郎対話集』 - logical cypher scape2でも『進撃の巨人』の話していて、エレンの自由観について少し触れられていたので、あわせて読みたい。
フェティシズムと動物たちの「レスキュー」— 呉明益『自転車泥棒』論 大川武司
呉明益の『自転車泥棒』は、いつか読もうかなと思っていた作品なのだが、この論を読んだことで優先度をあげて、読むに至った→呉明益『自転車泥棒』(天野健太郎訳) - logical cypher scape2
三島由紀夫の話とか
「45歳まで生きられない」という台詞があるが、この年齢は、三島由紀夫が死んだ年齢であり、主人公の父が失踪した年齢とも近く、そして主人公自身がこの年齢になろうとしている。
戦争の記憶と失踪者が出てくるという点で村上春樹も似ているが、村上は被害者として戦争を描き、また失踪者も女性であった。村上よりも踏み込んだ形で描いている、と。
「たぬきち」は良いたぬきか、悪いたぬきか 齋藤朋輝
『どうぶつの森』の「たぬきち」について
「たぬきち」は資本主義の権化みたいな存在だけど、もっとやばい(?)資本主義がきたときにも耐えられるように住人たちを守っているのでは、的な話だったかな
(売買の差益でえぐい利益だしている一方で、利子はとらないのは何故か的な)
「地を這う」動物たち―宮崎駿作品における「パートナー」と「他者」 樋口貴太
宮崎駿作品には2種類の動物が出てくる、と
キツネリス、ジジ、トトロ、ヤックルなどの「パートナー」動物と
王蟲、シシ神などの「他者」としての動物
前者は飛行、後者は地を這うことと結びつけられている、と。
前者は表情豊かだが言葉は話さない、後者は無表情で言葉を話す、という特徴付けが面白かった。
表情により何を思っているかは理解しやすいが、言葉を話さないことが従属的存在であることを示しており、一方、言葉を話すことは、必ずしも擬人化(人間と同じ存在とみなすこと)なのではなくて、むしろそれ自身に主体がある=人間に従属しない=人間にとって他者である、みたいなことなのだ、と。
ところで、本論文と、小山田浩子を扱った今藤論文は、いずれも動物を描くならばその他者性を描くべきだよね、ということが暗黙の前提に置かれているように感じられた。
つまり「他者性が描かれている、ヨシ」という確認作業のようにも見えるのだが、何故それがよいことなのか、と。
確かに文学での評価基準の1つとして、この「他者性」という概念は度々出てくる。
例えば、登場人物がみんな同じ価値観だったら物語として面白くないよね、というようなことなら分かりやすいのだが、だとすると、動物は別によくない、と思わなくもない。
また、人間にとって都合の良いものとしてだけ登場させるのはいかがなものか、ということなのかなと思うし、それが評価基準の1つになりうるのは理解できるんだけど、どれくらい重要性があるのかよく分からないというか。
動物が言葉を話すのは、その動物が人間に従属しない主体を持っていることを示しているのだ、という指摘は面白みのある指摘だなとは思ったんだけど、でも、「動物が人間の言葉話してくれるの都合よすぎない?」というツッコミがあった場合に、それに勝る説得力があるのか、気になってしまった。
ロスジェネ狩り―シャマユー『人間狩り』と村田紗耶香「コンビニ人間」 樋口康一郎
非正規雇用の「動物」化(差別される存在としての「動物」)
村田「コンビニ人間」→「動物」であることを主体的に選び取る
非正規の教師としての経験がある瀬尾まい子は、交換可能な存在としての非正規教員を描き、そこからさらに「バトンをつなぐ存在」としてとらえなおす。
濱野ちひろ『聖なるズー』 矢野利裕
ズーというのは、動物性愛者のこと。ズーたちを取材したノンフィクション
- 人里が自然に帰るとき 冨田涼介
- 動物はよくわからなくて苦手 石元みさと
- 抵抗と呪いと絶望と―欅坂46の歌唱世界― 千田洋幸
- 「察する」から「伝える」へ―「チェリまほTHE MOVIE~30歳まで童貞だと魔法使いになれるらしい~」試論 石元みさと
神様がいなくても大丈夫 鈴木さとみ
神様=藤子不二雄
F30号特集「フィクション」
『ゴールデンカムイ』私論 冨田涼介
作中で展開される3勢力それぞれの北海道独立構想を比較する。
(1)ウイルク、土方による蝦夷共和国構想
(2)鶴見による軍事国家構想
(3)キロランケによる北方民族連邦国家構想
ロシアに抵抗するという点では同じ
ロシアと北海道の境界をどこに引くかの違い
また、アイヌと和人の間の境界線として、『ゴールデンカムイ』においてブラキストン線=津軽海峡が意識されていることに触れつつ、一方で、アイヌにとってこの線が境界としては意識されていなったことを、東北の中に残るアイヌ地名の話などに触れながら指摘しているのは興味深い。
まあ、大体こんなだったよなあという認識はあるが、改めて整理されていてよい復習になったし、鶴見やキロランケはこんなことを言ってたのかあ、と読み切れていない(覚えていない)ところも捕捉できた。
冒頭で、本作の良さ・面白さと、それと引き換えに現実への踏み込みの甘さが抽象的に触れられているが、『ゴールデンカムイ』を本格的に論じるのは、そこはもっと深く触れなければいけないところではないかとは思った。
とはいえ、このあたり、踏み込もうと思うとむちゃくちゃ大変になるのは確か
最後に、筆者である冨田の祖母が戦前にサハリンの豊原にいたというエピソードが明かされる。何故サハリンに渡ったのか、何をしていたのかについては聞けないままに亡くなったらしい*1が、そうした個人的エピソードがあるがゆえに、ゴールデンカムイ論が書かれたことが記されている。
また、本論のためにオホーツクへ取材旅行して、オホーツク文化の展示等を見たことも触れられている。
自分(シノハラ)は北海道出身ではあるけれど、道東・オホーツクは行ったことがないので、そこからのロシアとの距離感は肌感覚としては全然分からないところがある(まあ、小樽側だって、というのはあるが)。
オホーツク文化については、北大博物館で少し見た記憶がある。
このあたりのこと、もう少し勉強したいなとは思っているのだけど、なかなか手をつけられずにいるな。
『少女革命ウテナ』・「革命」のパフォーマンスとその行方 千田洋幸
何故ウテナだけが革命者になりえたのか
それでいて、何故ウテナはあのような結末を迎えたのか→物語秩序の中にウテナの居場所はなかった。
90年代作品の特徴
ウテナの運動性とアニメの形式性のコンフリクト
答え合わせとしての「文学」――高校文芸化する純文学の「傾向と対策」 樋口康一樋口康一郎
現役の高校教師でもある樋口康一郎(helpline)さんは、これまで、ロスジェネ世代の文学に着目した論考を多く書いてきており、今回もロスジェネ世代の作家が紹介されているが、今回は、高校文芸というテーマを取り上げており、面白い着眼点だと思った。
自分の高校には、文芸部がなかったので高文連が文芸コンテストをやっているのは知らなかった。ただ、北海道には有島青少年文芸賞というのがあって、自分の入学前だが、自分の高校で受賞者がいた(今、調べてみたら該当しそうな年は最優秀賞該当作なしだったが、優秀賞なり佳作なりだったのだと思う)のは知っている。
まあそれはそれとして、高校文芸に尽力することと、実際にプロの作家になることとの間に乖離があることを、本論は指摘している。
例外的に、高校文芸出身でのちに作家となったくどうれいんという作家が、高校文芸コンクールで高校生たちに語った講演が引用されている。
高校文芸のコンクールは「高校生らしさ」というものが求められる、そういう競技になっている。
一方、プロの作家になるにあたって求められるものとして、例えば性や暴力などの要素があり、そうした要素は高校文芸のコンクールでは評価されないし、逆に高校文芸のコンクールに適応しても、プロの作家としてデビューできる可能性は低い。
ところで本論では、返す刀で、いわゆる純文学の世界も、それとは別のルールではあるが、ある種の競技と化しているのではないかということを、荒木優太「文學界新人賞を獲るにはどうしたらいいのか?」を参照しながら論じている。
天皇とフィクション――近代日本の精神史(2) 大川武司
「近代日本の精神史(2)」とあり、(1)は『F』の別の号に掲載されていたようだが、さりとて連載だったり続編だったりすると、そういうわけでもなさそうで、本論文は、もともと横光利一文学会に投稿したがリジェクトになったものを、修正を加えて『F』に掲載することになったものらしい。
論文タイトルからだと分かりにくいが、横光利一『旅愁』論である。
戦後すぐ、自分が天皇だと名乗る者が続出した。これは一般的には、天皇の人間宣言と全国行幸がきっかけになったとされているらしいが、本論では、むしろ戦前の国家家族観からの論理的帰結である、としている。
先駆的な議論として、穂積八束の天皇主権論に対する北一輝の批判が紹介されている。
穂積は天皇の肉体に主権が宿るとするが、北は、天皇が死んだら国も滅びるのかと指摘し、さらに万世一系の系統に主権が宿るとする論に対して、北は、天皇であることが天照大神の子孫であることに根拠があるとすると、実際、傍系に継承されたこともあり、天皇たりうる者が多数存在しうることを指摘する。そして、究極的には国民全員が天皇たりうる、これはつまり民主主義だ、とまで論じているのだという。
続いて、本論では、国家家族観を取り上げる。天皇を父として慕うべし、という戦前の考えだが、ここには、天皇の祖先と国民の祖先が同じであるとされる場合がある。これは北のいう「民主主義」と紙一重である。
国民みなが天皇である、という考えは無論、戦前の日本で許容されるわけもないが、国家家族観はそうした考えを帰結しうる。戦後に自称天皇たちが何人も現れた背景に、そうした論理があったのだ、と。ただし、国家家族観は、そこをなんとかうやむやにして乗り切っていたわけである。
森鴎外「かのように」、南北朝正閏問題と熊沢天皇
さて、横光の『旅愁』であるが、主人公が故郷の山を見て、祖先の姿を幻視するシーンがある。故郷や祖先と主人公との視線の交換が描かれているわけだが、その祖先が、京都の方に目を向ける描写がある。
主人公の祖先が藤原基経であるという設定があり、祖先と天皇家とを結びつけるような示唆がある。がしかし、『旅愁』は天照大神には触れない。
ここで筆者は、『旅愁』において、主人公の父の死がキリストの死と結びつけられていることに着目し、日猶同祖論との関連を指摘する。アダムの子孫がのちに日本にやってきたという考えで、天皇と国民とが同じ祖先を持つ集団としつつ、天照大神には触れないことになる。
最後に、中村三春「根源的虚構論」についても触れられている。
仮託される〈猫〉=ミームの語りと、もつれと反覆にある虚構――「新しい唯物論」を手がかりに 田中秀憲
猫ミーム動画について論ずるもの
実は、恥ずかしながら猫ミームについて知らなかった。いや、「猫ミーム」という言葉自体は知っていたのだが、宇宙猫画像のことだと思っていて、猫ミームと称される動画群については全く見たことがなかった。
だもんで、あまり本論について何か言える立場ではない。
何故「猫」が選ばれたのか、ということを論じていて、むしろ動物特集感があるが、猫ミーム動画について、ポストメディア状況における虚構化みたいな方向へとつなげていっている。
まず冒頭でデリダが引用され、つづいて、猫と人間の関係を論じた赤川学らによる社会学研究、新海誠『彼女と彼女の猫』が参照され、最終的にバトラーのパフォーマティヴィティ論とカレン・バラッドの新しい唯物論をもとに、「人間」と「非人間」のあいだというかたちで論じられていくことになる
猫ミームのことも分からないが、ここで参照されている論も分からないので、なおさら何もいえないのだが、何故猫なのか、というよりも、どのようにして猫ミームが用いられているのか、という問いに、後半はシフトしていたのかな、という気がした。
現実を生きるための虚構――〈盛り〉という営為―― 齋藤朋輝
いわゆる「顔が盛れている」という際の「盛り」について
ざっくりいうと、化粧は、個性をなくすのではなく、個性の表現なのである、という結論で、それはその通りだと思うが、逆にその通りすぎて、結論があまりにも普通すぎるのではないか、というのがちょっと……
「盛り」という言葉が出てくるのは2000年代らしくて、今が2020年代で、そのあたりの流れを整理したりしているあたりに、この論のよさはあるとは思うけど。
鷲田清一を先行する論者ないし仮想敵として捉えていて、鷲田はこういってるけど、そうでないところがあるよね、という形で先の結論があって、鷲田が適切な仮想敵だったのかというところかなあ
土井隆義のキャラ論と平野啓一郎の分人論をもってきて、これをもとに先の結論をかためている。キャラや分人としての個性というか。
まあ、その路線もなくはないと思うが、化粧とかファッションとかを個性の発露とするの、近年だと、例えばゴスロリあたりがそうなのではないかと思う。
本論でも、量産型女子に触れられているが、あれの源流はゴスロリにあるだろう。なので、量産型女子が、量産型という呼称と裏腹に、あのファッションに自分らしさを託しているのは、意外でも何でもないというか。
自分はあそこらへん詳しくないのでどういう理論武装があるのか分からないのだけど、でもあのあたり、絶対研究の蓄積あるでしょ?
ところで話戻って、キャラと分人についてそれぞれ触れた後、筆者にはキャラと分人の違いがよく分からない旨軽く述べられていたが、確かに言われてみると似た概念っぽいなと思った。
キャラは2000年代、分人は2010年代の頃に言われていた概念という感じ。自分は、分人の方は、鈴木健は読んだものの、平野啓一郎は全然読んでないので、よく分からない。誰か、キャラ概念と分人概念の比較とかしてたりしないかな。と思ってググってみたら、平野啓一郎自身が、違いを述べているな。
https://cybozushiki.cybozu.co.jp/articles/m001405.html
ここで平野が述べている違いは、本論でも触れられていて、しかし、あまり明確な差ではないのではないかと指摘されている。個人的にもそう思う
短歌
とんとんびょうしによる7首と、スズキロクによる7首
「本能は太陽・酸素・海と風だけじゃ満たされなくて、林檎を」
「この短歌(うた)はフィクションですが、実在の人物たちとは関係があります」
いずれも、とんとんびょうし
「まだ動画見てますかってきかれては見てますよって押す、雨が降る」
スズキロク
短歌のこと全然わからないけど、この3首がよかったような気がする。
F30号のあゆみ
鈴木さとみと冨田涼介による、30号・17年間の振り返り
っていうか、ほんと、30号おめでとうございますだし、17年間も続いていてすごいです。
文学フリマ同期(?)なんですが、自分はもう長いこと文フリから遠ざかってしまって、30号のうち半分も手に取ってませんでした。初期の頃は毎号追いかけていたのだけれども……
*1:筆者は、祖母の葬儀の際に母から聞かされ、母もサハリンからの引揚げの話しか知らないとのこと