『群像』『すばる』『文學界』6月号/その他

『群像6月号』

武田将明「囲われない批評――東浩紀中原昌也

群像新人文学賞評論部門
これは面白い
言説と現実はいかにして関係することができるのか。批評は果たして成立するのか。
批評(や純文学)の言説空間に閉じこもってしまわないような、(言説内容ではなく)言説行為を、「ソルジェニーツィン試論」と「点滅……」に見いだす。
古典主義的批評でもロマン主義的批評でもない、第三の批評の道である。
それは、「確率の位相」が明らかになる「事実性」を捉えることである。
ソルジェニーツィン試論」論ないし東浩紀論としても、あるいは「点滅……」論ないし中原昌也論としても読める。というか、そういうふうに読んで十分に面白いし、なるほどそういうことかと思いながら読んだ。つまり、解説として優れている。
だが、そういうレベルには全くとどまっていない。
そもそも批評とは何か、ということを炙り出そうとしている。
それにしても、やっぱり東浩紀中原昌也ってすごいよね。

純粋理性批判を読み砕く

3回目
文芸誌の連載記事を読むというのは初めてだ。
まだまだ始まったばかり。

諏訪哲史のエッセー

うーん、彼はこういう細々とした文章をあまり書かない方がいいような気がした。
かなあーしーの話は、まあそれはそれで、見開きのエッセーとしては面白いんだけど、最後に「アサッテの人」と「りすん」への言及が出てくるのは、正直どうなのかと思う。

創作合評

毎月3本取り上げられるが、そのうちの2本も読んでいた。
メンバーは沼野充義佐伯一麦平田俊子
磯崎憲一郎「眼と太陽」は、うまくいっている部分とよくわからない、うまくいってない部分があるねという感じ。
例えば、異なる言語環境の中にいるという感覚はよく描けているけれど、ハングル語という表現はいただけないなあ、とか。
それ以外にも、タイトルが中身と噛み合ってないとか何でこんなに長く書かれているのかよく分からないエピソードがあるとか。
それから円城塔烏有此譚
こちらは、もう3人とも「よく分からない」ということで意見が一致しているが、一方で「面白い」ということでも意見が一致している。
沼野は、円城の他の作品も色々と読んでいるらしくて、3人の中では一番この作品を解説しているけれど、あまりにも分からなくて腹が立つと言っている。一方で、これほど腹を立ててしまうのは、この作者が優れているからこそかもしれないと述べ、内省的なものだけなく、世界とか歴史とかに関わるような作品を書いて、レムのようになってほしいといって締めていた。

その他

前田塁のエッセーと侃々諤々を読んだ。

『すばる6月号』

円城塔いわゆるこの方程式に関するそれらの性質について

先月の「烏有此譚」と比べると、ぐっと易しくなっている(^^;
というか、円城作品の中でもかなりの読みやすさだと思う。
何しろ、言っていることは相変わらずよく分からないとはいえ、どういう話であるのかは分かる。
この作品は、タイトルの通り「この方程式」についての説明になっている。
その説明のために数学からライプニッツからノヴァーリスから、いつものように博覧強記を発揮しているが、それはとりあえずさておく。
「この方程式」というのは、今野なる人物によって提唱されたらしいが、この今野というのは、今野の父と架空の女性の間に生まれた人物であり、今野が自分自身の実在を主張するための証拠となるのが「この方程式」ということらしい。
その架空の女性というのは、今野の父の同僚がノートに綴っていた理想の女性のことで、今野の父はその女性を同僚から奪って駆け落ちしたのである。さて、この今野の父の同僚の娘に、園君江なる人物がいて、こちらは今野の不在を証明するための研究を行い、論文を発表しているのである。
そしてこの文章の書き手というのは、今野の同僚であり、「この方程式」についての説明を依頼されて書いているということらしい。
「この方程式」というのは、小説を生み出すものではないということにされているけれど、まあしかし、今までの円城作品でいうところの、SelfReferenceENGINEであったり、レフラー球であったりするものと、およそ同じようなものであろう。今回は、それそのものが書いているわけではないけれど、読み手に語りかけてくるあたりは同じだ。
わけのわからない文章の中に笑えるところが混じっているのはいつものことだが、デスノートへの言及があったりした。

「インタビュー鶴見俊輔・思索の道すじ」

第1回「I AM WRONG」
インタビューの連載記事というのは、他誌にはあまりないような気がする。
母親から徹底的に抑圧されてきて、それに反抗することで自我が形成されてきたというような話がまずある。つまり「おまえは悪い人間だ」と言われてきたので、「自分は悪い人間だ」という不良少年となったみたい。
鶴見は、キリスト教とか共産主義とかを「YOU ARE WRONG」の思想だという。そうやって要するに懺悔させる。でも、鶴見自身はそう言われたら「I AM WRONG」と返す。だから、ある意味でそこで平行線を辿るわけだけど、そこの部分で鶴見は自身がずっと一貫してきたのだと考えている。
これは圧倒的に母からの影響なのであるが、一方で対置されているのが父、鶴見祐輔である。祐輔は、一高・東大出身の政治家である。鶴見は、転向研究の中で、父・祐輔の転向についても書いている。この一高・東大というエリートコースを、鶴見はよくないものだと考えている*1
幕末から日露戦争までのエリートと、それ以降のエリートを区別している。
エリートとは、大衆の中から、大衆によって選ばれて現れてくるものなのであって、エリートコースによって作られるものではないという。
例えば、下級藩士に過ぎなかった坂本龍馬高杉晋作であり、あるいは、鶴見の祖父である、やはり政治家の後藤新平である。鶴見は、祐輔(ないし祐輔的な日露戦争以後の政治家)を批判する一方で、後藤新平(ないし後藤的な政治家)を評価しているようだ。
日露戦争では、日本の政治家は引き際がちゃんと分かっていたが、太平洋戦争時には、そのような政治家はいなくなっていた、とか。
ところで、阿部定事件についても語っている。彼の幼い頃の記憶に残っている、二番目くらいの事件らしい。
僕は、阿部定というのを、事件の概要くらいしか知らなかったのだけど、阿部定ってまだ生きているかもしれないというのを知ってびっくりした。出所以降、ひっそりと暮らしていて、1980年頃に一度確認されたあとは、所在不明なんだってね。「『看取った』という人が出てこないから、まだ生きているかも」ってすごいなあ。

その他

田中和生による『誰かが手を握っているような気がしてならない』の書評。
鹿島田真希による『聖少女』の書評。
女性というのは、主体が飴のように溶けてくっついてしまうことに恐怖を感じない。
『すばる』は、新刊だけでなく文庫の書評も載るんだなあ*2
あと、『すばる』には、読者からの投稿ページがある。
羽田圭介のエッセー。
就職したらしい。っていうか、同じ年だ。

文學界6月号』

宇野常寛「文体の『消滅』について」

見開きのエッセー
今、売れている小説は、キャラクター部分を特化させたライトノベル、プロット部分を特化させたケータイ小説である。で、「ファントム、クォンタム」は、キャラクターとプロットのプロ(?)*3であるところの東浩紀が書いていて面白い。しかるに、キャラクターもプロットもなくて、文体、文体とばかり言っている純文学は何なんだ。もう、文体なんか必要ない。
というのが、大雑把な内容。
ライトノベルケータイ小説を持ち出さなくても、世の中の大多数の小説は昔からずっとそういうものだったのではないだろうか。今時、文体、文体というような文学はおかしいというが、そもそも文学ってそこに注目したい人たちがやっているものなんじゃなかろうか。
それじゃ売れないよって話なら、もう大塚英志笙野頼子論争があったじゃん、と思う。

新人小説月評

蜂飼耳の「ヤドリギの音」の評価が高かったなあ。

その他

『新潮』も読みたいけど、まだ読んでいない。
図書館が、工事の関係か何かで、雑誌の置いてある場所が変わった。バックナンバーの置いてある奧の方の棚になったので、読みにいくのが不便。
ボタンを押すと棚が動く。「人がいないのを確認してから動かして下さい」という注意書きがあって、人がいるのに棚が動いたら、ぺちっと潰されるんだな、怖いなと思う。
文学フリマで買った本もまだ全く読めていない。
本屋に行って、ダブルブリッド10巻の取り寄せを頼む。1週間から10日後らしい。
『モンキービジネス』と『真夜中』の実物を初めて見る。
どちらも隔月刊っぽい。
前者の方は、面白そうだった。新作だけでなく、メルヴィルの「バートルビー」が載ってたりする。
後者は、ラインナップとしてそれほど惹かれなかったのと、やはりA4版に小説がぎっちり載っているのは、読みにくい感じがする。

*1:鶴見によれば、彼は日本では小学校しか卒業していないらしい。あとは、ハーバード大を卒業している

*2:『聖少女』が文庫

*3:宇野が「プロ」っていう単語を使っていたかどうかは覚えていない