伊勢田哲治『哲学思考トレーニング』

クリティカルシンキングについての入門書であると同時に、哲学の、特に懐疑論に関する(多分)最新の議論が紹介されているので、色々と読み甲斐のある本。
序にて『だめんず・うぉ〜か〜』から、西洋哲学を専攻している男と付き合っている女性に対する、「実社会にまぁったく役に立たない学問の最高峰だあっ」というコメントが引用されている。
この本は、それに対する反論というわけでもないが、哲学を学ぶことによって得られるスキルの一つとしてのクリティカルシンキングを紹介するということになっている。
まあ、哲学が実社会に役に立たないのはある面では全くその通りで、哲学なんていうのは一部の物好きのための学問だと僕は思っている。
しかしその一方で、『哲学者は何を考えているのか』のジョン・ハリスの章を読んだりすると*1、役に立つこともあるんじゃないかと思ったりする。あるいは、デネットの仕事などもそうだが、要するに議論の交通整理役としての哲学者というのは十分にありうる。


さて、まずはクリティカルシンキングについてだが、本書の最後にクリティカルシンキングの流れがまとめられている。
つまり「心構え」「議論の明確化」「さまざまな文脈」「前提の検討」「推論の検討」である。
ここに書かれていることを読んで、僕は、自分の文章があまりにもなっていないことを感じて「うあぁぁ」という気分になるのだが、それはとりあえずさておき、ブログ上で議論をしたりする上でも、これを読んでおくのは重要なのではないだろうかと思う。
議論の明確化とか推論の検討とか、そういうことはもちろん大事なのだが、心構えだけでもクリティカルシンキングのきっかけとして十分有用である。
「疑う習慣を身に付けること」
「自分が間違えたと思ったら立場を変えるのをためらわないこと」
クリティカルシンキングは協力的な共同作業だという認識を持つこと」
「正解ではなくよりましな回答を探すという考え方をすること」
などであり、特に2番目と3番目は重要だろう。
2番目をもう少し細かく見てみると
「自分の意見に感情移入しすぎないこと」
「自分の意見に対する批判は必ずしも自分自身に対する攻撃ではないということ」
が挙げられている。
また、批判とか議論とかいうと、相手を論破することだと思われがちだけれど、先ほど並べた中の3番目がそうではないことを示している。
つまり、送り手と受け手、自分と相手が、よりよい地点へと到達するための「協力的な共同作業」こそが、批判であり議論なのである。
例えば、相手の視点から物事を見てみようという項が立てられているのだが

こうした作業を自分からすると相手に譲歩することになるのではないか、と心配する人もいるだろうが、必ずしもそうはならない。
(中略)
もちろん、相手の見方を理解することで自分の立場が変わることもあるだろう。それもまた理解が深まったということであって、譲歩したわけではない。最終的にはお互いがお互いについて理解を深め、両者のものの見方を統合した一段レベルの高い視野を獲得するのが理想である。
(226ページ)

と書かれている。
実際に議論が始まってしまうと、こういう態度をとるのはなかなか難しくなる。著者自身、そのことは認めている。しかし、こういうことをどこか頭の片隅に止めておけば、論争している最中はともかくとして、あとで頭を冷やしたときに役に立つはずである。


さて、冒頭においてクリティカルシンキングとは、疑うことだとある。哲学において、疑うといえば、デカルトの方法的懐疑があるし、あるいはヒュームの懐疑論がある。
これらは、確かにその方針として重要であるのだが、いかんせん破壊力が強すぎる。
デカルトは絶対確実なものを探し求めて、ほとんどありとあらゆるものを、確実ではないとしてしまった。
しかし、普通何らかの議論をするとき、つまりそれは哲学的な議論だけではなくて、水伝論争だったりワープア問題だったりラノベとは一体何か論争だったり、とにかく何でもいいのだけど、その度ごとに「考える私の確実性」から始めてたりしたら埒があかない。
つまり私たちは普通、何かの議論をするときに、「このことについては確実」というラインを何となく持っている。そしてそのラインは、どのような議論をするかによって異なってくる。つまり、何が確実であるのか、あるは何が妥当であるのか、ということは文脈によって異なってくる。これを、文脈主義と呼ぶ*2
方法的懐疑を行う文脈であれば、もう徹底して何もかもを疑う。演繹も帰納も疑っちゃう。
でも、科学的な議論をする文脈であれば、演繹的推論と帰納的推論くらいは、確実なもの、妥当な推論として受け容れる(疑わない)。
疑わないんであれば、それはクリティカルシンキングじゃないんじゃないか、といえばそういうわけでない。
その文脈において、どこまでを疑いどこまでを疑わないか自覚的になることこそが、クリティカルシンキングである、と筆者は言っている。
筆者は懐疑論に陥らないための「疑わない技術」「ほどよい懐疑主義」を勧めているが、それはつまり、それぞれの文脈において自明であるものが一体何であるかについて自覚的になることであって、ある文脈においては疑わないものであっても、別の文脈では疑うのである。
また、筆者は文脈の分業というのを提唱している。
ここでは、地球温暖化の問題をテストケースとしている。
地球温暖化には、対策推奨派と懐疑派がいるわけだが、推奨派の主張として、「温暖化への懐疑によって対策が遅れてしまうから、懐疑そのものが望ましくない」というものがある(ありうる)。
だから筆者は、文脈を分けることを提案する。つまり、対策を進めるという文脈とは別に、温暖化についての事実を分析するという文脈を設けよ、というのである。


また、本書では価値主張に関するクリティカルシンキングについても述べられている。
価値主張というのは、「よい」「悪い」といった道徳的価値や「美しい」「かっこわるい」といった美的価値などについての主張である。
こうした主張に関する討論は、結局価値観の違いがあるから不毛だと思われがちであるが、筆者はそうした討論が、たとえ正解をだすことができないとしても、有益にはなるということを示している。
そのためにまた出てくるのが、文脈主義である。
何もかもを疑って、極端に相対主義的な立場に陥るのでもなく、また、疑わずに何もかもを受けれいるのでもなく、その中間的な立場としての文脈主義である。
まず、お互いに一致できるところまで、言葉の定義などを掘り下げていくのである。一致するところが何一つない、ということはまず起こることではない。どんなに些細なことでも、どこかで一致点はあるはずである。互いの一致点と相違点が明確化されるだけでも、それは十分実りのあることである。

哲学思考トレーニング (ちくま新書 (545))

哲学思考トレーニング (ちくま新書 (545))

*1:http://d.hatena.ne.jp/sakstyle/20080404/1207317443

*2:「同じ人の同じ主張が、判定を下す側の文脈で妥当とも妥当でないとも判断できる、という可能性を認めるのが文脈主義」(137ページ)ちなみに、文脈主義は、「知っている」という動詞の分析にもっとも一般的にあてはめられるらしく、以前のエントリhttp://d.hatena.ne.jp/sakstyle/20080421/1208777111のことを考えると、ちょっと気になる