大澤真幸『不可能性の時代』

よいまとめ、と言ってしまうと身も蓋もないか。
「理想の時代」「虚構の時代」「第三者の審級」といった大澤語が、わりとよくわかる。


際立って新奇な、というか、「おおっ!」というようなことが書いてあるわけではないのだけれど、各時代の事象というものを、単純な原理によってきれいにまとめて説明しているところが、すごいし面白い。
新奇なことが書いてあるわけでないのだけど、「そうか、そういうことだったのか」と思える。
「資本主義」の運動によって、「第三者の審級」ないし「他者」ないし「現実」というもののプレゼンスが減衰していったのが、「理想の時代」→「虚構の時代」→「不可能性の時代」という流れで、
「不可能性の時代」の不可能というのは、「第三者の審級」ないし「他者」というものを感じることの不可能であって、それの帰結として、多文化主義原理主義という全く相反するものが出てくる。
この二つは、相反するものだと考えられているけれど、それらが現れた原因というものは同一である、と。


見る/見られるという関係があるとして、私たちを見ているはずの、「第三者の審級」が減衰してしまい、見ると見られるということが一致していく。
そして、私たちは「見られる」ことを望むようになる。
一方で大澤は、その一致に活動的な民主主義の可能性を見ているようでもある。

不可能性の時代 (岩波新書)

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