鹿島田真希「ナンバーワン・コンストラクション」、島本理生「大きな熊が来る前におやすみ」など『新潮2006年1月号』

卒業して引っ越す先輩のもとから流れてきた、およそ1年前の『新潮』
その先輩も含めて、先輩方のmixi日記やblogを眺めていると、入社式という言葉をよく見かけるようになった。この前一緒に牛タン食べた先輩は、就職活動を始めた。
満開の桜を眺めたり、今年取る授業を考えたりして、ぼんやりと春なんだなあと思っている。
取る授業を並べてみると、ものの見事に哲学の授業ばかりになった。哲学やりたくて大学来たのだし、むしろ今まで全く取ってこなかったのだから、それは別によいことなんだけど、哲学を専攻する人が少ないので授業に人がいるのかどうかが不安(^^;

ナンバーワン・コンストラクション

「ピカルディーの3度」について糸糸山秋子ら数人の合評を読んだとき、確か糸糸山が、「ナンバーワン・コンストラクション」を書いたとき、誰もまともに反応しなかったら、お前ら全然わかってねーなってことで書いたのが「ピカルディーの3度」なんじゃないか、と言っていた。
で、この「ナンバーワン・コンストラクション」はどうやって読めばいいのか、正直分からなかったのだけど、面白い。
多分きっと何かが隠されているのだろうと思うのだけど、それを読み解くことはできなかった。
テーマは「永遠の愛とは何か」なんだけど、そのために建築と絡めた抽象度の高い考察が巡らされていく。
途中で、これは人類史というか近代史を比喩的に扱っているのだろうか、とも思った。M青年の心の動きと建築史(教会→ビルディング→ディズニーランド)とが対比されているからだ。実際、この建築史(?)は作品全体を貫いていく。
ただ、人類史や近代を扱ったものではなく、宗教を扱ったものと考えた方がよいようだ*1
この作品の登場人物は、S教授、M青年、N講師、Nの婚約者である少女と青年の恋人である*2。このアルファベットにも何らかの意味があるのではないか、と思っているんだけど、よく分からない。ちなみに登場する建築物は、T聖堂(直線と永遠性)→Nビル(『新陳代謝』、変化する建築)→ディズニーランド(共通の妄想、無根拠)→新Dアパート(分節と更新、「建築家はピンポイントで都市に革命を起こす」)→Y氏の「拙宅」(綺麗寂び、「広がりすぎたその場所を小さい空間に押し込める」、無意識を意識の中に)である。
SとNの二人の大学教員は、互いによく似ているのだがそれでいて相反する存在である。その二人の間で、少女と青年を交換するという契約がなされる。その4人の関係の中で、従属と支配、友愛関係、永遠に対する考え、理性的自殺、赦しなどの関係や考察が展開されていく。
ところで、偶々目にした小室直樹『日本人のための宗教原論』(GOD AND GOLEM, Inc. -annex A-)を読んで、この作品はやはり宗教的なものなのだと思った。
上の記事によると、キリスト教は「永遠に生きる」ことを目指し、仏教は「永遠に死ぬ」ことを目指すそうだ。
SとNは共に、死を恐れやがて死すべき肉体を罰のように感じる点でよく似ている。Nは、その罰から逃れるために、むしろ他人を罰するという行為をし続けてきたが、少女によって赦される。赦された後のNをSはこう評する。

 多くの人が目を背ける死、その絶望を彼は真正面から見つめていた。彼の皮肉な態度を、自分はなんと痛々しい思いで眺めていたことだろう! もう誰も彼を救うことなどできないと思っていた。それをあんなに小さな少女が救うなんて。なんて美しい矛盾なのだろう。(...)もはや彼は唯一無二を望まない。(...)自己同一性の有と無が両立している。この両義的な世界はなんだ? ここは天国か? ああきっとそうに違いない。彼に教えてやろう。ここは天国なのだと。彼があれほど恐れていた死後の世界はこういうものなのだと。絶望には値しないのだと。

そしてSはどうするのか。

 建築するんだ! 教授は心の中で叫んだ。無意識というどろどろとしたセメントを固めて、鉄筋を立て替えて、意識というビルを建てるのだ。他者の力によって、他者の愛という力によって。だから愛し合おうではないか。


なんというか何がどうなっているのかうまく説明できないし、登場人物たちの台詞はどこかしら堅いし(作者が台詞を書くのがヘタなのではなく、おそらくわざと)、抽象的なんだけど、一方で彼らの思考を辿る作業はそれなりに面白く、よく分からないが魅力はある。
「ピカルディーの3度」では、「ウンコ」と「音楽」をダシにして語っていた考察を、こちらでは「建築」をダシにしつつ語ったのだろう*3。「ピカルディーの3度」よりも迫力はある。「ピカルディーの3度」が二人しかいないのに対して、こちらは4人ということもあるし、恋愛だけでなくむしろ宗教的、つまり実存的なことまで射程に入っているから、かもしれない。
あと、こちらの方がストーリーがある。
SとNの契約によって、青年と少女が交換されてしまうわけだけど、Nの魔力によって引き起こされそうになる少女や青年の自殺を如何に食い止めていくのか、ということで話がドライブしていく。一人だけ俗っぽい、青年の恋人の存在もよい。
さらに言えば、ラストが「ピカルディーの3度」では主人公「おれ」の思弁によって終わったのに対して、こちらではSの行動によって終わっているのも、よいと思う。小説・物語っぽい。

大きな熊が来る前に、おやすみ。

やはり同じ、糸糸山秋子らによる合評では、「あなたの呼吸が止まるまで」>「大きな熊が来る前に、おやすみ。」という評価だった。
この作品に出てくる主人公の恋人、徹平のモデルは、島本の恋人である佐藤友哉である、という噂が以前流れた。そのせいで、この作品はもう、島本理生によるのろけにしか見えない。徹平のことも、あぁユヤタンってこんな感じなのか、と思ってしまう。
島本理生というのは、いわゆる「小説」を書くことがとてもうまい。さらさらと書けてしまうのだと思う。
だからこの短編も、読みやすいし、こうなってこうなってこうなる、というのが非常に分かりやすい。そしてそれ故につまらない。
島本理生佐藤友哉ってこんな感じなのかな、という下世話な趣味で読む分において面白い作品だった。
ちなみにこの徹平には弟がいて肺炎によって死んでいる。現実の佐藤友哉にも弟がいるらしい。徹平が弟の死に罪悪感を抱いているあたりは、「世界の終わりの終わり」で脳内妹の死に罪悪感を抱いているユヤタンと重なったりしたw

奥泉光「神器 浪漫的な航海の記録」

連載の第1話。
第二次大戦末期、軽巡洋艦「橿原」に配属になった上等水兵、石目鋭二を主人公としたミステリ(?)。
歴史時代は本来の歴史とほぼ同じだと思うが、「矢魔斗」と「無左志」という艦が出てくるので、なんとも。
少年時代ミステリのファンで、自らも探偵小説「緑死館殺人事件」を書いていた石目は、しかし海軍に入って以来全くそのことは忘れていた。だが、「橿原」に乗艦してから違和感――「禍々しき死の影」をぬぐいきれない。
連載の第1話なので、話はここまで。歴史小説か戦記小説だと思っていたら、実はミステリ、しかもどうも普通のミステリとは違う感じなのでちょっと面白そう。何しろ、第1話が「天皇陛下が、つかまっていたんだよ」という台詞で終わる。もう少し説明すると、石目が「橿原」で出会った水兵が、「無左志」沈没の生き残りであり、その際に「天皇陛下」が「無左志」の艦底に「つかまって」いたのを見たというのである。

町田康「一般の魔力」

いまだ読んだことのない町田康
この作品は、町田にとっては単なる小品に過ぎないのだろうけど、面白かった。
実際、これは雑誌か短編集で真ん中よりちょっと後ろくらいに収録されるような感じの作品であることは間違いないだろうけど、そういう作品として楽しい。
サラリーマンの休日を戯画化して描いた短編。
悪意なく、ちょっとやってしまう些細な悪事というかなんというかが、たたみかけるように連鎖していく。
阿部和重みたく肥大化したりどんでん返しがあったり、なんてことは特にないけれど。
こういう人・ことあるかも、というのをちょっと誇張している感じ。まあこの主人公、滅茶苦茶嫌な奴だけどね。

*1:上述の合評で、鹿島田がクリスチャンであるというようなことを誰かが言っていたような気がする

*2:今気づいたが、女性には名前がない

*3:発表の順序は逆。「ナンバーワン・コンストラクション」→「ピカルディーの3度」