鹿島田真希『二匹』/星野智幸『ロンリー・ハーツ・キラー』

二匹

鹿島田のデビュー作
彼女の作品は既に二作読んでいるのだが*1、それらとはまたちょっと違った感触のする作品。
僕が読んだその二作品は、観念的というか抽象度が高い(例えば固有名詞が出てこないとか)のだけど、こちらは具体的な男子高校生の生活を描いていて、その点では比較的読みやすいかもしれない。
文章は必ずしも上手ではない。「うーん、どうだろう」と思ってしまうような言い回しもあった。
一方で、「これはなんかすごいぞ」というような言い回しもあった。
「何だこれは」と思わせる文章で、先へ先へと進んでいく。
そしてそうした表現が、この作品の抽象度を上げていく。
例えば「ピカルディーの三度」に出てくるのは、「おれ」と「先生」で彼らの固有名詞が出てこないことで、ある程度の抽象が行われている。おそらく、「文学」というのは大抵そういうもので、名前を出さないことで普遍的な話にしようとするのだろう。
一方、この作品の主人公には、妻城明と藤田純一という名前が付いていて、抽象的でも普遍的でもないのだけど、彼らの高校生活の背景として描かれていたアキとジュンコ、そして八丈島出身の若い女性ヴォーカリストと重ね合わされていくことで、抽象的、普遍的な話へと持っていこうとしている。
それは、彼ら全てが属しているこの世界あるいはこの共同体のシステムの話である。
非人称的な力(それは中心と周縁という配置によって機能する)がシステムを動かしている。
明と純一は、その力の為すがままに「ヒト」から「狂犬」へと変わっていく。
しかし、その変化ゆえに、彼らはそのシステムからずれてゆく。


作品外についても触れてみる。
陣野俊史による文庫解説には、1999年の単行本についていた帯文が引用されている。
松浦理英子氏 笙野頼子氏 長野まゆみ氏 久間十義氏 《全選考委員絶賛》はやくも“J文学の最高傑作”の声、続出! 聖なるバカに福音を! 女子大生ファイターが贈る学園ハードボイルド 第35回文藝賞受賞作」
まあ何というか、全く読む気のそそられない、すごいセンスの帯だと思う。
さて、陣野は解説で、『二匹』に近いものとして佐藤友哉『子供たち怒る怒る怒る』を挙げている。
佐藤友哉のデビューは2000年である。
だからといって、特に何という話でもないのだけど、片や1999年、文藝賞でデビューすると「J文学」の一員と呼ばれ、片や2000年、メフィスト賞でデビューして後に「ファウスト系」と呼ばれるようになったという違いと、それにも関わらず類似を指摘されていることが何となく面白いなあと思った。

二匹 (河出文庫)

二匹 (河出文庫)

ロンリー・ハーツ・キラー

互いの影響関係はないだろうが、ある意味で『二匹』への批判のようにも読める作品
共同体、社会というのは何か実体のあるものではなくて、不可視で非人称的な力によって動いている。その中で個人は?
これは新しい共同体を構築しようとする話であるが、それはある種の純粋性や完結性によってなされるものではない。そうした純粋性を求めたものとして、『二匹』の明と純一、第一部の井上は類似しているかもしれない。


社会に属している感覚が希薄化していることは、既にもう何十年も前から言われてきたことだが、
この作品は、そのことをもう一度真正面から問い直す。
空白が中心にある。
それは、天皇制のことでもあるし、個人の虚無感のことでもある。中心部、核心部に何か確実なものがあったりするわけではない。それを追い求めようとすると、それは不毛なループへと陥っていく。
純粋で完結した共同体などはありえない。そうしたものを追求しても、やはり不毛なループへと陥るだけだ。
テロとかニートとか、そうした諸々のことでこの社会で実際に起こっていることだ。それが戯画化されているのがこの作品の世界だ。戯画と書いたが、もちろんそれは風刺や皮肉だったりするわけではない。


90年代的なもの、というのが何を指しているのか分からないけれど、ここでは脱社会的なメンタリティということにして
それにも、攻撃的なタイプとひきこもり的なタイプがあり、またそれとともにサバイバル的な、弱肉強食的なメンタリティも現れてくる。
『ロンリー・ハーツ・キラー』は、こうした様々なメンタリティに対して落とし前をどうにかしてつけられないか、と考えている。あるいはそれらに対する責任を負うことである。
この作品は天皇崩御から始まる(ただし、この作品世界は現実の日本ではない。天皇ではなくオカミであるし、まあとにかく色々と現実の日本とは異なる世界なのだが)。そこからして舞台は90年代なのだが、他にもオウムとか凶悪犯罪とかテロとかニートとか人質バッシングとか、現実に起こった事件を想起してしまうところが多々ある。
僕たちは、そうした社会的な出来事と自分個人のあり方をうまく繋げることができなくなってしまっているが、一方でまさにその繋げられなくなってしまっている感が、そうした社会的な出来事と繋がってしまっていることも知っている。
だからこそ、僕たちには責任がある。
しかし、それが一体何に対する責任で、どのように果たせばいいのかは分からない。
それを無理に分かろうとすると、罠に陥る。不毛なループが待っている。
主人公である、井上といろはという二人のカメラマン*2は、共に自らの空白を自覚してカメラを持つ。
空白ゆえに彼らはただ光と音を受容するカメラとなりうる。
しかし、彼らは二人とも、ビデオ(映像/記録)をやめて手記(言葉/表現)を書き留める。
二人とも、それが落とし前の付け方だと思っているし、不毛なループを止める方法だと思っている。
だが、そのどちらも(井上もいろはも/映像も手記も)脱臼させられる。決して有効な方法ではないし、不毛なループの一端を担ってしまってもいる。


そうした虚無感、不毛さ*3を抜け出す一つのやり方を示しているのが、3人目の主人公であるモクレンだ。
彼女は、ビデオでも手記でもなく日記をつける。
彼女は単なる記録でも表現でもなく、実践行為として言葉を使う。
「信用された言葉は、それだけの責任を帯び、人が思う以上に大きな歯止めとなるのです。(199頁)」
彼女は、流動的で、決して純粋とはいえない、共同体を作っていく。

ロンリー・ハーツ・キラー (中公文庫)

ロンリー・ハーツ・キラー (中公文庫)

*1:「ナンバーワン・コンストラクション」と「ピカルディーの三度」

*2:映像作家?ジャーナリスト?

*3:脱社会性とか暴力性とか不信感とか