『物語の(無)根拠』第3章

これからおそらく毎週月曜日が、『物語の(無)根拠』の日になるかと。
年内には終わりますね。
物語の(無)根拠
第3章 不自由な佐藤友哉

操りの問題
作者の転落
言語ゲーム」と「規則に従う」
クリスマス・テロル』から「世界の終わりの終わり」へ
ミステリと「脳内妹」による隠蔽
脳内妹」の消滅
家族=血統の物語
ミナミ君とハサミちゃんの呪縛
強者から遠く離れて

章題にあるとおり、佐藤友哉についてのパート。
本論にとって中心的な部分であると同時に、本論をややトリッキーにさせている部分でもある。
自由意志についての問題と「小説を書く」という問題を短絡させてしまっているからだ。
その短絡は、はっきり言ってしまえば不可解ではあるが、僕の中では何故か切実なものとしてある。
そしてそれ故に、僕は佐藤友哉の小説を読むのである。
僕は、この章を通じて再三、佐藤友哉の小説は私小説として読むべきではない、と主張した。何故なら、そこに描かれる「佐藤友哉」ないし「僕」は、キャラクターとしての「佐藤友哉」と見なされるものであって、作者としての佐藤友哉と見なされるものではないからだ。
しかし、そのような主張に反して、やはり僕は佐藤友哉の小説を私小説的に読み解いている。
それはつまり、そこに非常に私的な問題が描かれている、という点においてだ。
そしてその私的な問題が最も凝縮されている部分こそ、『水没ピアノ』と『クリスマス・テロル』であろう。
この二作で提示された問題をいかに解決するのか。
それが、佐藤友哉作品全体を貫いている。
その問題とはまさに、「自由に生きる」=「強者となる」=「小説を書く」ことはいかに可能なのか、という問いだ。
何故、「自由に生きる」と「小説を書く」が等号で結ばれるのか。それには、鏡家サーガとミステリの構造が関わっている。
つづく、『世界の終わりの終わり』『灰色のダイエットコカコーラ』は、「小説を書く」ことを可能にさせているものが、まさに鏡家サーガとミステリの構造なるものによって隠蔽されてしまっている様が描かれている。
第4章では、そうした隠蔽をキャンセルした後に現れるものを描いた作品として『1000の小説とバックベアード』を読んでいくことになる。


僕は、包括的な佐藤友哉論を書くことを目論んでいた。
それはもちろん実在する佐藤友哉についての論ではない。佐藤友哉の全作品を貫くような論だ。
僕は確かに、ある一本の線を引くことができたと思っている。
しかし、ここに『水没ピアノ』と『子供たち怒る怒る怒る』は含まれていない。
水没ピアノ』に関して言えば、福嶋論文にのっかる形で第2章で言及しているものの、『子供たち怒る怒る怒る』には言及すらない。
これは要するに、この作品をこの線にうまく組み込む方法を見つけられなかった、ということだ。
だが、この作品はこの作品で、「自由に生きる」=「強者となる」とはどういうことかを問い直そうとしたものとして読むことができる。そしてそのためには、ここで展開したのとはまた異なる議論を必要とするだろう。

読んでいる最中に「これは『水没ピアノ』浮上編だ」などと勝手に考えて盛り上がってました

http://d.hatena.ne.jp/sakstyle/20050831/1125477673


佐藤友哉に関しては、新月お茶の会が特集を組んでいた。
ここでは、佐藤友哉によるフラットなサンプリングが非常に重視されている。
そして実際、それは重視されるべきものであり、包括的な佐藤友哉論であればそのことにも言及し解釈を与える必要があっただろう。
しかし、この点に関しては、単純に僕の知識不足、能力不足で、サンプリングに関しては論じることができなかった。


かように、包括的な佐藤友哉論というにはあまりに不完全なところが多いわけだが、
かなり愚直に、コンスタンティブに、佐藤友哉作品の描いたテーマを論じたと思っている。

関連エントリ

『灰色のダイエットコカコーラ』
『虐殺器官』
第2章とは別の方向から「成熟の不可能性」について論じたのが、この第3章である。
『灰色』と『虐殺器官』は、その点で同様のことを描いた作品だ