ダニエル・デネット『自由は進化する』

非常に面白かった。
基本的な方向性としては、僕はデネットとそれほど違わないので「マジかよ」みたいな衝撃というか新しい発見はないけれど、勉強になった部分はかなりあった。


何か長くなったので、目次。

  • 内容と関係ない感想
  • 前提
    • この本は哲学の本か科学の本か
    • 進化論について
  • 内容
    • 決定論因果律は異なる(両立主義)
    • 視点位置の変更ないし志向システムとして捉えること
    • 延長のない実体を想定しないこと
    • ゲーム理論と感情
    • スキナー型生物、ポパー型生物、グレゴリー型生物とミーム
    • 自己認識
    • 政治とか社会設計とか
    • で、結局自由とは何か、山形浩生が一言で答える
  • 哲学者のはまりがちな罠

内容と関係ない感想

勉強になった部分は、後で書くので、最初に内容とは関係のない感想を。


まず文体。このことに関しては、瀬名秀明に同意

翻訳は山形浩生。この訳者は(小説だとふつうなのに)なぜかノンフィクションだとタメ口で訳すクセがあり、読み始めてしばらくはひどく違和感があった。だがだんだん慣れてきた。

http://senahideaki.cocolog-nifty.com/book/2006/04/post_c971.html

そのおかげで読みやすくなっている部分と、そのせいで読みにくくなっている部分がある。
まあでも、別に何の問題もない。この方がむしろ読みやすい、と感じる人も多い気がする。


もう一点、これまた内容とは全く関係ないのだが、
デネットも山形も、ポストモダン系思想が嫌いなんだなあということ。「ポストモダン連中」という表現が、どこまでデネットのニュアンスで、どこから山形のニュアンスなのか分からないが。
あと、デネットは、複雑系に対しても胡散臭さを感じているみたい。
まあ別にいいんだけど、ポストモダニズムはなんか不憫だなあと思う。そもそもこうやって十把一絡げにされてしまう「ポストモダン連中」っていうのは、一体誰のどんな思想を指すのだろうか*1。それが分からないので、こういう部分だけはなんか感情的に見えてしまう。
自然科学系や分析哲学系の「ポストモダン連中」批判というか嫌悪は、科学的な知に対する相対主義的な態度に向けられている。でも、クワインやグッドマンやローティといった分析哲学系の人たちにも、相対主義的な人はいると思う*2
確かに彼らとポストモダン系思想は、そのような結論に到った経緯はまるで異なる。また、分析哲学系で相対主義っぽくなった人は、大抵、これは相対主義ではなくてプラグマティズムだ、と主張している。僕はその主張は全く正しいと思うのだけど、しかしその差は、程度の差にすぎない気がしている*3
そうすると、相対主義的な「ポストモダン連中」は全否定、というような態度はどうにも感情的に見えてしまう。

前提

この本は哲学の本か科学の本か

デネットは哲学者なのだが、この本はサイエンスライターが書いたといっても通じる気がする。科学者の論文や著作からの引用が多いからだ。
ではこの本は哲学書ではないのだろうか。
いやむしろ、優れた哲学者とは優れたサイエンスライターであり、優れたサイエンスライターとは優れた哲学者なのではないだろうか。
最近では、サイエンスインタープリターという言葉があるので、むしろそちらの語を使おう。インタープリターとは、通訳という意味であるが、解釈者という意味もある。
デネットは科学者ではないので自分で実験をしたりすることはないが、多くの、神経科学から経済学に到るまでの研究論文に目を通して、それらをまとめあげ解釈しているのである。
この本に書かれている知見は科学に属するものであるが、この本は全体として紛れもなく哲学に属するものだと思う。
デネットの哲学は、科学的事実に基づいて行われている。
ここで少しおやっと思った人もいるかもしれない。哲学は、科学に先立って行われるものではないのか。あるいは、哲学は単なる事実を超えた領域を扱うのではないのか。
かつて確かにそのような試みとして哲学は行われた。そして、今もやはりそうである。
しかし、哲学は事実に先立って行われることはない。「世界が在る」という事実、あるいは「地上では物体は落下する」という事実、そのような各種事実は疑いようがない*4
哲学は、そうした事実にどのような枠組を与えて整理するのか、ということを行う。
そして科学は、その事実を解明する営みであり、哲学がその知見に基づくのは当然といえばあまりにも当然なことなのだ。
経験的な、事実を扱うのが科学であり、超経験的な、事実の枠組を扱うのが哲学だ。
だからやはり、デネットのこの仕事は、科学ではなく哲学なのだ。
また、そういう意味では、アインシュタインやセーガン、ドーキンスなど、科学者でありながら優れたサイエンスインタープリターでもあるような人は、また同時に哲学者でもあるといえるだろう。
科学(に限らず学問)の世界は、もはやあまりにも細分化、専門化されているので、科学者が同時に哲学者でもいられるようなことはほとんど不可能だ(一部の天才にはそれが可能だとしても)。
であるならば、科学と哲学の分業は不可避である。
そして、その分業体制は、お互いにそっぽを向くようなものではなくて、お互いに補い合うようなものであることが望ましい。*5

進化論について

この本は、自由意志を進化論の視点から解明していこうという試みだ。
そこで、進化論についてざっとおさらいしておく。
僕は最近になってようやく、ダーウィンの思想史における重要性というのを思うようになってきたのだけど、それは決して、いわゆるダーウィニズムのことを指すわけではない。
ダーウィニズムというのは、適者生存とか弱肉強食とかいった部分にフォーカスされているように思われるが、ダーウィンの進化論の肝はそこには全然ない。
最初の哺乳動物はいない、ということをデネットはいう。ある瞬間に突然、哺乳動物(でもサルでもヒトでも何でもいいが)が発生するということはないのだ。
非常に小さな差異が蓄積されていくにつれて、哺乳動物のようなものが次第に現れてくるのだ。
ダーウィンの進化論は、「種」とか「本質」とかいったものを批判しているともいえる。
親と子の間には必ず差異がある。
進化論が認める差異は、たったこれだけだ。この差異が膨大に積み重なることによって、ヒトとサルの差異となったり、哺乳動物と鳥類の差異となったりする。
ヒトとか哺乳動物とかいった種は、厳密にいえば存在しない。
もしそういう種が存在するのだとすれば、その種をその種たらしめているような特徴、つまり本質があるはずだろう。そしてそうだとすれば、その本質を持っている個体と持っていない個体*6との間に境界線が引かれることになる。そしてその個体が、その種における最初の個体だということになる。
ところが、そのような劇的な差異が、どこかの親子の間で起こるということはありえないのだ。どの親子間でも、差異は非常に小さいものだ。その差異が何世代も積み重なることによって、互いに生殖不可能なほどの大きな差異へとなっていく。どこかではっきりとした線が引けるわけではない。


このダーウィンの発想は、非常に大きな転換点だ。
18-19世紀というのは、博物学的な思考が支配的であった。そこで生物学というのは、「種」に分類するという作業を行っていた。ある集団における最も典型的な特徴を取り出して、それによって種を特定していく。この最も典型的な特徴(をもった個体)が一カ所に並べられたのが、博物館だ。
この発想には明らかに時間の観点が欠落している。そして、本質主義的である。最も典型的な特徴(これがすなわち、その種の本質と見なされることになる)を、同時的に一つの空間に並べる、という思考なのだ。
だが、進化論は、全ての個体を時間的な系譜の中に配列しなおしていく。そうすると、ある何らかの「本質」によって「種」という集団を特定することができないということがわかる。全ての個体は、進化の系統樹の中でシームレスに繋がっているのだ*7

内容

前置きが長くなってしまった。
内容はポイントをおさえて、短くまとめたいと思う。

決定論因果律は異なる(両立主義)

デネット唯物論*8である。唯物論とは、世界は全て物質によってのみできているという考えであり、また物質の振る舞いについては物理学によって全て説明されるという考えである。
物理学によれば、物質の振る舞いというのは(量子力学によって考えられるような特殊な状況を除けば)決定論的である。決定論とは、ある状況aがあったとすれば、それは必ず状況bを引き起こすのであって、状況aからは状況b以外の状況は決して引き起こされないというものである。
そして、決定論と自由意志論というのは、哲学の世界ではずっと相対立してきた。
デネットは、両立主義という立場をとる。これはその名の通り、決定論と自由意志論は両立するという立場である。
この両立主義を主張する上で、まず確認されなければいけないことは、決定論因果律については、別問題として考えなければならない、ということだ。
確かに、決定論において、状況aは必ず状況bを引き起こし、決して状況b以外を引き起こすことはない。しかし、このことは直ちに、状況bが引き起こされた原因は必ず状況aである、を意味しない。状況bを引き起こすような状況は、状況aだけではなく、状況cや状況dもそうであるかもしれない。

視点位置の変更ないし志向システムとして捉えること

両立主義を考える上で、次に、そして最も重要になってくることがこの二つである。
生命は原子や分子といった物質によって、そしてそうした物質のみで構成されている。そうした物質は、物理学の決定論に従う。そして当然、生命体もまた物理学の決定論に従っているのである。
だが、デネットは、生命体を単なる物体としてではなく、志向システムとして捉えることを提案する。
ここでライフゲームが紹介されるが、ライフゲーム上の生命であろうと地球環境上の生命であろうと同じことである。
一つ一つのセル、あるいは一つ一つの原子や分子は決定論的に振る舞う*9。それらがある程度のパターンを持った集合になったとき、他のセルないし物質の集合を回避するような動きをとるようになる。
この動きは、各セルないし細胞ないし原子や分子の決定論的な振る舞いによって起きている。例えば、接近してきた集合体の分子が隣の空気中の分子を押してそれがその集合体の分子を押して、といった風に、物理学的にも記述可能な動きである。
だが、それはその集合体が別の集合体を避けようとした動いたように見える。というよりも、生物学であれば、避けた、と記述されるだろう。
その回避行動は確かに物理学によって詳細に記述することも可能だろうが、ある生命体をそのような分子の固まりとしてはみなさず、ある志向システムとして捉えることの方が一般的だろう。
そしてそのような志向システムとして捉えれば、確かにその集合体は別の集合体を回避したのである。
ここに、ただ「ある」だけの物質ではなく、何かを「する」行為者が現れる。


そして視点の変更が促される。
それは、神の視点から行為者の視点への変更だ。
行為者の視点においては、全ての物理学的な情報を知りえることはできない。事実上、物理学的な記述というのは不可能なのだ。
決定論的カオスというのも同様の考え方である。いわゆるバタフライ効果とか何とか言われる奴であるが、完全に物理学の決定論的な法則に従っているものの、その動きを予測できるだけの十分な情報を得ることができないために、あたかも非決定論的な動きに見えるのがカオスである。
のちにデネットは、疑似ランダムという言葉でこれを指す。
決定論から自由意志を擁護しようとするある非両立主義者は、非決定論的な*10完全なランダムを人間の心の中に組み込もうとする。しかし、デネットは、決定論的な疑似ランダムでも十分同じ機能を果たすことが可能であることを論じている。


延長のない実体を想定しないこと

これは第四章で、非両立主義的自由意志論者への反論として言われていることである。
この部分は、山形の訳者解説でも、瀬名の書評でも、全くといっていいほど顧みられていないのだが、相当重要な部分であると思う。
デネットは「自分を思いっきり小さくすれば、事実上全てを外部化できる」という皮肉を、第四章のみならず本書の多くにおいて、繰り返し述べている。
自分、というのは、肉体というある空間的な広がりを持って存在しているし、もちろん時間的な広がりも持っている。
しかし、デカルトは、思惟と延長という二元論を展開し、思惟は一切広がりを持たないものとして想定されている。
自由意志論は、空間的にも時間的にも広がりを持たない、ある特定のポイントを指定し、そのポイントにおいて何らかの決断がなされる、というモデルを前提してしまっているように思える。
そのような前提において、過去の影響*11や無意識の判断や身体的な反応といったものが、外部化されてしまっているのだ。
遺伝子の影響や環境の影響、あるいは無意識の影響といったものが、科学によって明らかにされる度に、自由意志や自己といったものが脅かされる、と考えられることが多かった。
しかし、そもそも無意識というものは自分の一部に他ならないし、過去の自分もまたそうである。あるいは、遺伝子や環境も自分を構成しているものとして捉えられるはずだ。
デネットが繰り返す皮肉にあるように、そうしたあらゆるものを外部化することも可能だが、その際には自分自身の一部もまた外部化してしまっているのであり、それは当然自由意志というものもまた外部化してしまっているということでもある。
空間的にも時間的にもある一定の広がりを持った自分、であるからこそ、そこに自由意志が宿っているのだ。
リベットの有名な実験に関しても、この点から批判が可能であろう。そして実際、デネットはリベットの実験に関して批判している*12


自己というのを、ある一定の広がりを持つ存在と見なすことで、自由意志論を解決しようとする議論としては、ベルクソンが似ているように思える。もちろんデネットは全く言及していないが。
ベルクソンの自由意志論についてはここに書いた。
ベルクソンデネットが使っている道具立ては全く異なるし、そもそもベルクソン唯物論に対しては批判的だ。どちらかというとベルクソンは、心的一元論に近いかもしれない。持続、という神秘的な概念によって全て説明しようとする。
だが、ある特定のポイントから自由意志を説明することはできない*13という点では、何か類似性を感じさせる。
ベルクソンはちょっと持続というアイデアをあまりにも絶対視しすぎている感が否めないのだが、そこを取り除いてやると、なかなかいい線いっていたのではないか、と僕は思う。

ゲーム理論と感情

ここまでのことは人間にも動物にも当てはまる。ここからは、人間だけに当てはまることだ。
デネットは、人間的な自由意志というのを考える時に、道徳的な行為というのを想定している。利己的な行動ではなく、利他的な行動というものだ。ただし、利他的に思える行動も、長期的、全体的に見てみれば利己的な行動にはなっているのだ。全く一部の隙もなく利己的な要素がないような利他的な行動というのは、ありえないものになるだろう。もし、そのような行動以外は道徳的な行為ではない、などと言ってしまえば、人類はいまだかつて道徳的な行為ができた試しがない。しかし、そんなことはないわけで、最終的には利己的なところがあるからこそ、利他的な行動があるのであって、道徳的な行為においてそのことを否定したり批判したりされる謂われはないのだ。



さて、そういうことを考えるに際して、あの有名な囚人のジレンマというのを考えてみる。
協力するか裏切るか。
特に何も考えてもいないし何も記録したりしないようなエージェントにこれをやらせると、裏切り者が得をするようになってしまう。
しかし、相手が協力的かそれとも裏切るか、ということが分かるようになると、裏切り者は協力者のグループから排除されるようになる。協力者同士のグループは高い利益を得るし、裏切り者同士のグループはうまくいかない。
問題は、どのようにして裏切り者を検知するか、ということである。
フランクという経済学者の仮説が紹介される。それは、裏切り者検知装置として、感情が活用されたという説である。
ある何らかの特徴をもって裏切り者を検知しようとすると、どうしても裏切り者をそれを利用して協力的であるという振りをして協力者のグループに紛れ込もうとする。だから、検知には、裏切り者には利用不可能な、真似のできないようなシステムを使う必要がある。生物学的にかなり固定されたシステムだ。
利他的であるふりをしているだけでは、協力者としてはみなされず、利他的でなければ協力者とみなされないようなシステム。
それが、感情だというのだ。
囚人のジレンマにおいて、自分や相手の過去の行動履歴というのが重要になる。そういった過去の行動を即座に参照するものこそが感情だというのだ。
感情のインストールによって、信頼できるかどうかを判別することが可能になった。
そしてこの検知システムによって、利他的な行為のコストが減り、その利益を受けることが可能になったのだ。


人間の心において、感情というものは非常に重要な役割を担っている、はずだ。
しかも、単に非合理的なものではなく、合理的な理由付けをもって。
これだけ多彩な感情を持っている動物は人間だけである。つまり、進化誌において、かなり最近になって生じてきた能力だろう。そしてこの能力は、どうもコストがかかりそうなところがある。わざわざ何でこんな能力が発達してきたのか。進化論的に説明するとなれば、合理的な理由があると考えざるを得ない。
その一つとして、上述したフランクの説は非常に面白い。
ところで、もう一つ、柴田正良による説もある。
彼によれば、感情というのは膨大な数の選択肢を劇的に減らすためのツールではないか、というのだ。状況が複雑になればなるほど、それに対応するための選択肢の数も増える。それら全てに対して、同等の検討を続けていては結果として何もできなくなる(フレーム問題)。それを解決するために感情は用いられたのではないか。
もちろん、この説とフランクの説は両立する。どちらにしろ、感情というのはある個人の行動傾向を反映させるツールなのだ。

スキナー型生物、ポパー型生物、グレゴリー型生物とミーム

これは、デネットが以前から使っていた概念で、この本の中ではあまり出てこない。
この本の中では、ドレッシャーの状況行動マシンと選択マシンという分類が説明されている。これはおおむね、スキナー型生物とポパー型生物に当てはまるらしい。
状況行動マシンというのは、予め行動がプログラミングされていて、ある特定の状況になると決まった行動をする、というタイプである。何かの動物に動いているものを見せると、それが何であれ必ず食いつく、とかそういう行動のことである。
選択マシンは、その名の通り選択をする。複数の行動の選択肢の中から、状況に応じて選択するのである。哺乳動物くらいになると、このタイプになっている。
そして、人間はグレゴリー型生物と呼ばれる。この定義は、この本には載っていないので直接は分からないのだが、選択という行為を反省的に行えるということだと思われる。これを可能にする思考ツールが、文化でありミームによって伝播されていく、とデネットは考えているようだ。


原初の生物は、何かの状況に出くわすととにかくやってみるしかなかった(スキナー型)。
神経系や脳が発達するにつれて、ある程度状況を予想したり、過去の記憶と比較したりして選択することができるようになった(ポパー型)。
そして、人間(グリゴリー型)は、他の個体とコミュニケートすることによって、自分の予想や記憶だけでなく、他人のそれも利用することが可能になった。社会なり文化なりが成立する。
それまでの生き物は、試行錯誤によって可能になった行動は遺伝子によって伝達することしかできなかった。
だが、社会や文化が誕生することによって、ミームによる伝達が可能になる。
遺伝子による伝達は、試行錯誤を世代ごとにした行えない。ミームによる伝達は、その速度を一気に加速させる。

自己認識

コミュニケーションが行われるようになって、人間は、自分の意図を他人に教えるようになった。
そして、それを自分に対して行うとき、自己認識というものが生まれる。
いわゆる自己と呼ばれるもの、あるいは意識と呼ばれるものは、ここに誕生したと考えられる。
単なる選択マシンは、自分が選択しているということを自覚してはいない。
しかし、自己認識の誕生によって、選択そのものを自覚し反省することが可能になる。つまり、より高次の選択が可能になるのである。
これによって、行動の可能性は飛躍的に増大する。


注意すべきは、これもまた、デカルト的な自己を想定すると見誤るということだ。
自己というのは、時間的にも空間的にも広がりを持っている。
そして、その広がりの中で、複数の選択肢が競い合っている。
あるポイントにおいて、そうした選択肢の中でも、もっとも有効と思われる選択肢が表に出てくるのである。
僕は『物語の(無)根拠』の中で「「群集【クラウド】」という喩えを用いるならば、複数のモジュールの集合としての「私」とは、まさにクラウドな「私」であり、そのクラウドを扇動するようなリーダーはいない。」と述べたが、まさにその通りなのである。


他人に自分の意図を伝えるとき、自己の中で起こるこのようなクラウド的な現象を、「私たち」という複数形ではなく「私」という単数形によって表現するだろう。
そして、それを自分にも向けるとき、単数的な自己認識となるのだろう。
ただ、それが単数か複数か、というのは結局本質的な問題ではなく、「自分を限りなく小さくすれば何でも外部化できる」し、限りなく大きくすれば何でも内部化できる、といった問題にすぎない。
他に、感情や記憶といった一群も、広がりをもった自己をある程度収束させる役割を担っていると思われる。
しかし、そのような役割が、どこかある特定のポイントに座する特権的で単一的な統覚として集中しているわけではない。

政治とか社会設計とか

最終章で、デネットは人間社会の話をする。
人間にとって、社会に属していた方が利益が大きい。
だから、コストを払ってでも社会に属そうとする。
デネットは、そのコストを支払うことができることを、道徳的な行為者であること(=人間的な自由意志を持っていること)だと考えているようだ。

で、結局自由とは何か、山形浩生が一言で答える

訳者解説より引用すると
「自由とはシミュレーションのツールである」
最初、生物は進化によってシミュレーション(にして実地の試行錯誤)を行っていた。
次第に、脳の中でシミュレーションをするようになって、人間になると、社会や文化もそれをになるようになってくる。
ただ、ある状況が成立するためには、あまりにも莫大な要因が関与している。そこには、単なる偶然や運といったものも含まれている。
これら全てを計算し尽くすことは不可能だ。そこで、実際にやってみる、ということになるのだ。
この実際にやってみる、というのも、まあ広い意味でシミュレーションとここではみなすことにしよう。
生物学的な進化においては、実際にやってみて死んでしまうと、それは失敗でその個体の遺伝子は残らない。
人間の行為にしたところで、実際にやってみてうまくいかなければ、その行為は失敗で繰り返されることはないだろう。これは個人の内部でも起こるし、社会全体でも起こる。
また、デネットは「すべきこと」には「できること」が含まれる、という倫理学の説(?)を引いてくる。彼にとって、自由とは「できること」なのである。そもそも「できないこと」をする自由はない(=今のところ人間には何の機械も使わずに空を飛ぶ自由はない)。
しかし、デネットはこの「できること」の範囲が、進化によって拡大しているということを、この本で述べているのである。「自由は進化する」のだ。

哲学者のはまりがちな罠

「種」にしろ「自己」にしろ「道徳」にしろ「自由」にしろ、それらは言葉によって何となく定められているものであって、何か絶対的で純粋な概念ではない。
ところが、それを絶対的で純粋な概念に仕立て上げようとする時に、哲学における各種の間違いが生じているのではないだろうか。
デカルト劇場とかは、その最たるものなのかもしれない。
じゃあ、何でそういう間違いやら錯覚やらが起きるのか、という問いが持ち上がってくる。
これは言語の特徴のせいなんじゃないか、と思う。
そういう勘違いを生じさせる特徴を排除しようとしたのが、論理実証主義
その特徴を徹底的に分析しようとしたのが、後期ウィトゲンシュタイン
またそれらとは別の意味で、そのことを分析しようとしたのが、エピステモロジーフーコー
逆に利用してやろうとしたのが、デリダ
とか、そういった整理はできないだろうか。

追記(071130)

ブクマの伸びに驚いた。
一気にうちのブログで、最多ブクマ数エントリになったし、そもそもこの速さでブクマがつくのも初。
ホットエントリ入りも初じゃねw
デネットってすげーな
まあそれはともかく(^^;
id:marcelloさんのブクマコメに、解答してみる。

「確かに彼らとポストモダン系思想は、そのような結論に到った経緯はまるで異なる。」むしろ結論の差よりも経緯の差の方が問題では?

それはもっともな話で、そういう点でポストモダニズムに問題があるならそれはそれで構わない。
僕が気にしているのは、何故わざわざ言及したのか、という点。
デネットは、各種の議論に対して事細かく批判を行っている*14。それに対して、「ポストモダン連中」への言及は1ページにも満たない。
そしてその数行はあってもなくても、本論には何の影響もない。「「ポストモダン連中」は新しい知識に怯えている」という感じのことだけ。
だったら、単にスルーすればいいんじゃないのか。なんであえてネガコメするのか*15
批判や反論を展開するというよりは、単に嫌悪感を表明しているだけのように読めてしまう。
それが例えば、講義とか講演とかで言ってるなら分かるけど、こういう一般向け啓蒙書であえて文章化しているとなると、
何故「ポストモダン連中」はそこまでの嫌悪感を抱かれるまでになってしまったのか、ということが気になってしまう。
まあ、サイエンスウォーズとかなんだろうけど(デリダ・サール論争とかももしかしてそうかも)。


あと、「経緯が異なる」ことによって、それが問題になる場合ももちろんある*16。でも、分析哲学ポストモダニズムだと、そもそものアプローチや分野や方法論が異なっているので、問題があるのかどうか比較して検証するのはそんなに簡単ではない気がするのだけど……あぁ、だからこそ、それが嫌悪感の原因になってしまうのか。
個人的には、アプローチは異なるのに、結論がわりと近いという点に、両方ともいい線いってるんじゃないか、と思っている。


まあこのことは、僕が東浩紀とか読んじゃって、中途半端にポストモダニズムに好意的に接したことがあるために気になってしまったことであって
この本は、そんなこととは全く関係なく面白く読める本だし、僕自身もそれとは全く関係なくこの本を面白く読んだ。
全体的に、非常に合点がいったというか、なんか一つクリアしたという感じ。


それにしても、もう11月も終わりか。なんもしてねーや。

自由は進化する

自由は進化する

*1:山形は、訳者解説でデネットの考え方とフーコーの考え方が関係するのではないか、と述べている。どう関係するのかは分からないけれど、たぶん山形のなかでフーコーは「ポストモダン連中」と十把一絡げにはされていないのだろうと思う

*2:デネットの「ポストモダン連中」には、クワインやグッドマンが含まれるという仮定もありうるが、考えにくい

*3:パトナムによるフーコー批判は、その点をついていた気がする。方向は同じだけど、程度を逸しているということでフーコーを批判していたのだと思う

*4:そういう事実を疑うのが哲学なのではないか。確かに哲学者は、その手の思考実験をよく行う。しかし、こういう事実を反駁し得たり、こういう事実の外部へと抜け出たような試しはない。この疑いえなさへの驚きが人を哲学へと導くのであり、これを否定したり批判したりする意味で疑うのは哲学ではない

*5:蛇足ながら、さらに私見を付け加えておくと、そのような哲学は、諸科学の上位metaに立つ学ではなく、諸科学の間interに立つ学なのである

*6:おそらくこの2個体は親子だ

*7:とはいえ、今でも生物学者は「種」という概念を使っているではないか。生物学者ダーウィンを理解していないのか。そうではない。この「種」というのは、便利な道具として使われているのである

*8:物的一元主義ともいう

*9:だから、それらで構成されている生命体も決定論に従ってはいる

*10:量子論的な

*11:遺伝子によるものでも環境によるものでもそれ以外によるものでもよい

*12:実験そのものに対してというより、実験の解釈に対する批判である。あの実験結果は、行為の決定に意識や自由意志が役割を果たしていないことを必ずしも意味するわけではない。自由意志があるという形で解釈することも十分可能だ。ただ、被験者に判断の瞬間を報告させるという方法にも、なんか問題があるような気がするのだが

*13:ベルクソンの場合は特に時間的な広がりを重視している

*14:そういう哲学業界への気配りが多すぎて、見通しが悪いと山形に言われるくらい

*15:三浦俊彦もそうなんだけど

*16:論理学であれば、前提や論証過程が異なっていれば問題になる