中村桂子『生命科学』

1975年に書かれた、中村桂子による生命科学マニフェスト
現在の中村は生命誌という言い方をするが、基本的な考え方はおそらく変わっていないのだと思われる。
マニフェストと述べたが、まさにこれは宣言書といった雰囲気が強い。
従来の生物学ではなく、人間や生きものの生命ないし生きているということはどういうことかという問いを中心に据えた学として、生命科学をこれから立ち上げていく、という意思表明である。
それ自体は面白い試みであるが、まだ意思表明の段階なので、「生命科学は環境問題について考えていなければならない」とか「人文・社会科学との連携が必要となる」といった、もっともな主張ではあるけれど、一体具体的にどうなっていくのか分からないなあという部分は結構ある。


ただし、そういうことを差し引けば、生物学全体の見取り図を得るのに有用な本である。
もちろん75年に書かれた本なので多少古びている記述はあるが、大筋で問題はないと思う。
特に、生命科学やライフサイエンスという言葉が生まれてきた、生物学史的背景についてや
分子生物学史についてまとめられているのが、よかった。
分子生物学創始者が、ボーアやシュレディンガーの影響を受けていたこと。つまりは、分子生物学者はその初期において、物理学者や化学者が主要な働きをしていたことなどは面白いことだと思う。
また、分子生物学の中には、アメリカの情報学派とイギリスの構造学派という分裂があったらしい。
1960年代後半には、「分子生物学は終わった」と言われるようにまでなったらしい。
モルガンやグリフィスといった、高校生物で習った人名が、生物学史の中に収まったのも心地よかった。
それから、セントラルドグマは当然として、細胞の話、生物の行動、動物社会学生態学などにも触れられている。
まあここらへんは、生物の教科書という感じがしなくもない。
ニコ・ティンバーゲン自閉症の研究をしていたっていうのは知らなかった。ここでは、肯定的に捉えられているけれど、ちょっとどうなのだろうと思わなくもない話だと思う。
それから、動物社会学を人間の社会学にアナロジカルに応用できないか、という期待を著者はかすかに持っているっぽいけど、それは難しいんじゃないかなあと思う。
生態学の話も特に目新しい情報はないけれど、実に最近になって始まった分野なのだなあということにちょっと驚いてしまった。考えてみれば当たり前かもしれないけれど、生態系とか環境問題とか小さい頃から触れていた身としては、新しい学問という感じが全然なかった。
沈黙の春』が60年代だもんな。


上に書いたとおり、著者オリジナルな部分は、宣言に終わってしまっているところがあるのが残念だけれども、そもそも「これから生命科学を始めたいと思う」という本なのでそこを求めることは出来ないので仕方がない。
むしろ、これだけ広範に生物学全体をスケッチしようとしたというのがすごいことだと思う。
まさに分子から環境までを一望に望もうとしているのである。
そこから、いわゆる「(自然)科学」の領域から多少はみだした感じのものを構築しようとしている。
そもそも、生物というものを総体的、全体的に捉えようという考え方からして、科学というよりは哲学・思想的な雰囲気を感じる。
そこをどうやって詰めていくのか、というのがなかなか面白いところだと思う。
ただ、著者的には、環境問題や生命倫理の方にかなり興味が強いらしい*1。世間一般としても、まあそこが一番関心のあるところだろう。
とりあえず、環境問題や生命倫理の問題も大事だけどそれはそれとして置いておいて、生命とは何かということを全体的に捉えるということを理論として組み上げるためには一体どのような概念を要するのか云々かんぬんといったことに興味を持ってしまうのは、哲学系の人間の性なんだろうかなあ(^^;
それはさておき、環境問題や生命倫理の話は、結構な部分、人文・社会科学の方に丸投げされてしまっている感じも否めない。
どっちかというと、人文・社会科学の問題ですらなく、政治の問題のような気もするのだけれど、科学社会学とかエピステモロジー系の生物学哲学の方で扱ったりしるのかな。


こうやって生物学全体を俯瞰して、生命科学という新しい学を作ろう、という話なので、学問論としても興味深い。


生物学全体を俯瞰しているわけだけれど、進化論に割かれている頁数は非常に少なく、進化論的な視点が抜けている感じがした。


モノー『偶然と必然』からの引用が多い。
読まなければと前から思っていたのだが、さらにその思いが強まったが、果たしていつ読むことになるのか。
モノーって、哲学者だと思いこんでいたのだが、分子生物学者だったみたい。


さて、僕は中村桂子の本は、以前『ゲノムが語る生命』という本を読んだことがあったのだが、内容を忘れていた*2のと、75年に書かれたことが04年にどのようになっているか気になって、パラパラっと眺めてみた。
生物学の各分野の細かい話は『生命科学』の方がよいけれど、そのエッセンスを取り出して、さらに本として面白いのは『ゲノムが語る生命』の方だ。
先にこれを再読すれば、別に『生命科学』読まなくてもよかったんじゃないか、と一瞬思った(^^;
ほとんど丸投げだった、人文・社会科学との繋がりがより明確で具体的になっている。
分子から環境までを繋ぐ概念として、生命誌あるいはゲノムという考え方をはっきりと打ち出している。遺伝子ではなくゲノムだというのだが、それは環境なり歴史なりといった文脈が重要になってくから。
複雑さについての言及でも一章使っている。
また、最後の章では、生命科学とは「語る科学」であるということを提示している。
野家啓一デネットの「物理的構え」「設計的構え」「志向的構え」を取り上げて、「志向的」な「語る科学」について論じている。
そのような「語る」ことについてと、遺伝子との類似性、あるいは人間の特質を考える上で、言語について着目するのが重要だとして終わっている。
参考文献をみると、大森荘蔵坂部恵中沢新一野家啓一、セン、デネットフッサールあるいは川端康成是枝裕和塩野七生夏目漱石宮崎駿茂木健一郎の名前が挙がっており、かなり広範にわたって勉強しているのだなあと思う。

生命科学 (講談社学術文庫)

生命科学 (講談社学術文庫)

ゲノムが語る生命―新しい知の創出 (集英社新書)

ゲノムが語る生命―新しい知の創出 (集英社新書)

*1:科学の功罪について割いているページがわりと多いという点で、『人物で語る物理入門』と似ているかもしれない。どちらの著者も、30年代生まれの女性であるのは関係あるのかないのか

*2:忘れていたと思っていたのだが、いくつかの箇所ではっきりと覚えているところがあった。この本が元ネタだと分からずに、自分の中に入っている知識だった。読んだとき、かなり印象深かったんだろうなあと思う