小島寛之『数学でつまずくのはなぜか』

やっぱり分かりやすい。
学校で習ったのとは違う方法だったり、あるいはその背景にある歴史的経緯に触れているところがとてもよかった。


前著『文系のための数学教室』でもそうだったけど、微分積分を分かりやすく説明してある。前著では積分がメインで、今回は微分がメイン。
微分積分というのは、何だか近代科学の考え方を示しているような気がして面白いなあなどと個人的に思っているのだが、まあそれはさておき、面白かったのは、整合的な微分法が出来る前の、フェルマーによる、プレ(?)微分の話。
フェルマーは超微少量というのを導入したのだが、これの扱いが全くもって矛盾しているのである。これは当時、「魔法の算術」と捉えられていたが、デカルトニュートンライプニッツも平気で使っていたとか。


あるいは幾何の話。
論証をセットで行うギリシア式の幾何と、図形の見たままの事実をそのまま扱うバビロニア式の幾何があるらしい。
多くの人が、面倒くさいと思った証明問題だが、これはギリシア式の幾何をやっているからであって、バビロニア式の幾何ではこんなことはやらないらしい。
論証を説明するために、ホフスタッターのMIUゲームという公理系が紹介される。ここでは、論証がゲームに喩えられている。
さて、そもそも論理とは一体何なんだろうか。
小島は以下のように言う。

(数学者によって論理が何か問題になったのは19世紀の終わり頃から)それまでは論理というものを、「ただなんとなくこんな風に使うもの」と、いわば「習慣的なもの」とみなしてきた。

論理というのは、日常生活の中にも内在しているのである。小島は、数学を習うよりも前からこどもたちは論理を体得しているのではないか、という。
ただし、日常の論理と数学の論理では微妙に異なる。ここが「つまづき」のもとにもなる。たとえば「ならば」は、日常では因果法則を現すもののように半ば前提されているが、数学の論理ではそうではないので、真理表を書くと違和感を覚えることがある。
この「ならば」の違いに対して、小島は前著で、スタルネイカーによる条件付確率を紹介している。条件付確率をつかって「ならば」を定めると、日常的に使っている「ならば」の用法に近くなるのである。スタルネイカーの考え方は、デビッド・ルイスによって反論されてしまうらしいが、小島は

「論理学と人間の認識を近づけようとする試み」は、近い将来、別の研究者によってきっと実を結ぶに違いない

という予感を持っていると言っている。


論理ないし数学というのは、一種の人工言語なのだろうと僕は思う。
ただ、完全に人工的で、人間の経験や認識能力と一致しないような言語があったとしても、使い勝手がいいとは思えない。
そこで、どういう言語(論理、思考のシステム*1)の可能性があって、どういう言語(論理)なら、うまく使えるものとなるのか。


この本の中で一番面白かったのは、自然数の話。
小学校低学年の子どもに、自然数を一体どのように教えるか。
その教育方法に関して、明治から戦後の50か60年代くらいまで続いてきた「数え主義」と、それ以降の「集合算主義」という二つがある。
前者は、ペアノの理論を土台にクロネッカーが考案し、藤沢利喜太郎が日本に輸入した。
一方後者は、遠山啓がフレーゲの理論を土台にして考案した。
後者は、一対一対応によって、数えることなしに、抽象化をなすことによって、数の性質を教えることができるのである。
小学校で、ブロックを使って数を数えたり足し算を習った記憶があるが、これもおそらく遠山流の方法論によるものなのだろうと思う。
その教え方が、フレーゲから始まる集合論を根拠に持っていたなんていうのは、本当に驚きであった*2
さらにこの章で興味深いのは、数認識だけが欠けてしまった障害をもつ、サマンサ・アビールという女の子の話である。
ここで書かれているエピソードは、何だかとても想像しにくい不思議な出来事である。それだけ、人間にとって、数というのが基本的な概念だからなのだと思う。そして、こういう障害には人間の不思議さを感じてならない。
さて、この後、この本の中では、ペアノ、フレーゲそれぞれの自然数の定義とラッセルによって提起された問題点、そしてノイマンによる自然数の定義が紹介されていく。ラッセルあたりまでは何とかついていけるのだが、ノイマンによる定義、超限順序数、デデキント無限は何をいっているのかさっぱり分からなかった。


小島がこの本で繰り返し主張するのは、数学というのが一種のアフォーダンスであるということだ。
つまり、数学というのは、世界に含まれている数理性を人間が切り取って認識しているものだ、ということだ。
だから、一般に数学ができない、とされる子は、数学が出来ないのではなくて、他の人や一般的な教育方法とは切り取り方が異なっているのではないか、と続く。
さて、そうやってアフォードされる世界の数理性とは何か。
この本では、「自然数」「文字式」「論理」といったものが取り扱われてきたが、これらの背景には「無限」があるという。
小島は無限という言葉しか使わないが、僕はこれを「普遍性」などとも言い換えられると思う。例えば文字式というのは、特定の何かについての計算ではなく、あらゆる何かについて普遍的に(無限に)当てはまるものだからだ。
小島は続ける。

(無限は有限的な生の中で経験することが出来ない。にもかかわらず、それを取り扱うことが出来る)このことは、人間にとって希望の光でもある。「無限」がわたしたちの中に本来的に備わっていると言ってもいいからだ。わたしたちには(...)「無限」というものがインストールされている、ということなのである。

例えば人間の認識に沿うような論理を構築するとか何とかにしろ、この「無限」が人間にはインストールされているという考え方は、とても面白いと思う。
小島は、前著も今回もウィトゲンシュタインを援用しているが、確かにウィトゲンシュタインに似ているかもしれない。ただ、インストールされているという考え方は、ウィトゲンシュタインよりもさらに強い主張であると思う。しかし、この主張は、チョムスキーやピンカーとあわせて考えてみるとなかなかいい感じなんじゃないかなあと思う。


数年前、センター試験の数学が終わったとき、これでもう一生数学はやらなくていいんだな、と思った。
そして、微分積分の計算をしたり、幾何の証明をしたりすることはこれから実際にないと思う(そう思いたい)。
僕は、典型的な数学の苦手な文系である。
でもこんな感じで、軽〜く数学に触れている分には面白いものだなあと思う(実際に計算をするのがいやなのだ)。

数学でつまずくのはなぜか (講談社現代新書)

数学でつまずくのはなぜか (講談社現代新書)

文系のための数学教室 (講談社現代新書)

文系のための数学教室 (講談社現代新書)

*1:これは、最近僕がずっとブログで書いていることで、例えば小説の思考とか評論の思考とか科学の思考とか呼ぶものであったり、リアリズムと呼んだりするものである。つまり、人間が認識をどのように表現するかという方法のことである。

*2:ところで小島は、「こどもに数学を教える」ことについて考えるにあたっては、遠山のような「総合的な知識と哲学と創造力」が必要であると主張し、個人の体験をもとに教育について語りたがる「著名人」に対して憤りを隠さない