『探偵小説のクリティカル・ターン』限界小説研究会

e-NOVELSで限界小説書評を公開していた*1限界小説研究会による評論集。
表紙を見ると、元波状言論スタッフである前島賢波状言論でデビューした渡邊大輔、福嶋亮大の名前が並んでいる*2
東浩紀の影響下に展開された、太田克史いうところのゼロアカ的な批評集ともいうことができるかもしれない。
東以外の書き手が、東の枠組を利用しながら評論を展開するという仕事は、それこそネット上*3では無数に発生していたかもしれないが、商業出版としては意外と珍しいことなのではないだろうか。
上記3人以外に、ミステリ評論家の蔓葉信博、ミステリ作家の小森健太朗、音楽批評家の飯田一史、あとがきを笠井潔が書いている。


第一部の作家論では、西尾維新辻村深月北山猛邦米澤穂信道尾秀介竜騎士07桜庭一樹谷川流矢野龍王がそれぞれ取り上げられている。
第二部のテーマ論では、メフィスト賞以降のミステリ作品の歴史あるいは『ファウスト』周辺の動向、ライトノベルミステリについてが論じられている。
この第二部のテーマ論は、各作品の位置関係が整理されている。また、冒頭には「トリック-プロット軸」「キャラクター性-ストーリー性」軸の四象限にミステリ作家や作品をプロットした図が掲載されている。
これらは、それ単体では評論とまではなっていないかもしれないが、今後このジャンルを論ずるに際して利用できる有用なデータとなっているだろう*4


僕は、ミステリはこれまでほとんど読んでこなかった読者であり、ここで取り上げられいてる作家にも読んでいないものが多いが、それでも十分に楽しめるものであった。
さて、そのようなミステリをそれほどよく知らない立場から、この評論集で論じられている大きな枠組について述べる。
つまりそれは「探偵小説のクリティカル・ターン」とは何か、ということだ。
従来の探偵小説、特に本格ミステリには、それ固有の論理があったのだと思う。
ミステリの論理、それはつまり謎とその解明という形式のことであり、その形式のなかで使われる論理のことである。具体的には、例えば読者に対してフェアであることを要求する、ノックスやヴァン・ダインがあるだろう*5
ミステリは特にその傾向が強いが、このように固有の論理を持っているのはミステリだけではないだろう。ここでは論理という言葉を使うが、リアリズムとか方法論とかいった言葉に置き換えてもよい。だとすれば、例えば純文学には自然主義という論理(ないしリアリズム)があったということができる。
論理というものは複数ありうるのだと思う*6
そして、「探偵小説のクリティカル・ターン」とは、従来のミステリ論理とは異なる論理に従って描かれる作品が増えてきたということを指すのではないだろうか。
これは、リアリズムという言葉を使うのであれば、自然主義的リアリズムで書かれる従来の小説とは異なるリアリズム、つまりまんが・アニメ的リアリズムで書かれるライトノベルが登場してきたことともちろん関係している。
ただし、ここで扱われている小説が、直ちにまんが・アニメ的リアリズムゲーム的リアリズムで描かれた作品であるといえるかどうかは保留しておく。
重要なのは、従来の論理、リアリズムとは異なる論理、リアリズムで描かれる作品が出てきているということである。
従来の論理のままでは、例えば清涼院流水などの作品を脱格や変格といったような言い方でしか捉えることが出来なかった。
そのように捉え損ねられてきた作家・作品を捉えるために、それらの作品が従う論理を見つけ出す作業が、この評論集である。


さて、上で、それがまんが・アニメ的リアリズムゲーム的リアリズムであるかどうかは保留する、と書いたが、それというのもこの評論集で提示されている「新しい論理」は、論者によっても少しずつ異なっているからだ。
福嶋、渡邊、前島の3人が提示するそれは、確かに東浩紀の提示する枠組からの影響を非常に強く受けているが、それぞれに異なっている。
あるいは、蔓葉、小森、飯田の提示する論理も、東浩紀の提示する論理とは異なるものであるし、それぞれにも少しずつ異なっているところがある。


飯田による桜庭一樹論は、桜庭の引用と定型を、「新しい論理」として提示している。
特に、桜庭の定型を整理して、桜庭の法則? のようなものを提示したのはなかなか面白いと思う。


福嶋は、西尾維新の言語の操作に「新しい論理」を見いだす。
これを彼は、「コンピュータとゲームから派生した新しい美学」と呼ぶ。
また、清涼院の無節操な言葉遊びと比較して、西尾の言葉遊びが古い命令をもう一度活性化させて再構造化するものだとする。そんな西尾の再構造化を、死=機械と呼ぶ。
これはこの話だけども十分興味深いけれど、最近福嶋がブログで展開している「神話」とも繋がってくるようだ*7


僕が個人的に一番面白いと思ったのは、渡邊大輔による3本の評論である。
彼は、辻村深月米澤穂信、『ファウスト』について論じているが、ファンタジープラグマティズム、無意識の地政学、あるいはデータベース=「図書館」的な環境といったものは、複数性を内在した論理として提示されているのではないか。
ファンタジーの複数性、無意識の情報処理装置の複数性である。
これは、ミステリの中に従来の論理だけではなく他の論理が混ざってきたこと、さらにその他の論理も様々な種類があること、つまり論理の複数性を示しているようにも思う。
そうしたとき、渡邊がミステリだけでなく、川上未映子らの作品にも言及していることは興味深いことだと思う。
辻村論では、そこからさらに「責任」の問題へ、『ファウスト』論では「意図」の問題への移行に触れている。
プラグマティズム的、無意識的、環境的な論理の支配する世界の中で、「責任」や「意図」が如何に可能であるのか、それらをうまく掬い上げることができるのか。この点に興味を持った。
個人的な好みもこめていうと、そうした試みはなかなかうまくいかないのではないだろうか、と思っている。


ところで、福嶋がブログにおいて渡邊の論を一部批判している。
この福嶋による批判のほとんどは、あまりピンと来なかったのだが、最後の一文に福嶋と渡邊の違いが見て取れるかもしれない。

批評は、そういう未来の余白込みで書かれなければならない。「適応している(売れてる)から偉い」というのなら、統計だけ読んでいればいいのだ。
「未来の東アジア文学」(仮想算術の世界)

http://blog.goo.ne.jp/f-ryota/e/9703298d28aa26295ae5e35a61595dd4

上で、「意図」を掬い上げる試みはうまくいかないのでは、と書いたが、渡邊に言わせれば、しかし「環境」を描く作品から「意図」を描く作品へのシフトは実際に起こったのだ、ということになるだろう。
その点で、渡邊は現状分析型ないし帰納型といえるかもしれない。
一方の福嶋には、「コンピュータとゲームから派生した新しい美学」という「未来」ないしコンセプトが先に設定されているように思う。もちろんそれは現状分析から見いだされてはいるだろうが、理想提示型ないし演繹型といえるのかもしれない。


最後に、笠井が批評について文を寄せている。
簡単に言ってしまえば、批評不要論に対する笠井からの反論である。
エンターテイメントと目されている分野*8では、特に批評、評論というのが、あまり重要視されていない。作品のオマケ、作品がなければ何もできないものと思われている。
しかし僕は、評論もまた創作と同様に一個の独立した作品であると思っている。
僕はこの記事の冒頭で「ここで取り上げられいてる作家にも読んでいないものが多いが、それでも十分に楽しめる」と書いたが、それはまさにこれらの評論がそれ自体として一つの作品たりえていることを証していると思う。
評論とか批評って何だろうな、と思っている人には、是非読んでもらいたい文だと思う。
この文章について、千野帽子がブログで書いている。こっちを参考にするのもよい。

ほとんどすべての批評の腹の底には、
「××(批評の、全否定ではない言及対象)は、ただそれだけで無意味に美しい」
という気持があるんじゃないでしょうか。
(中略)
批評というものが(b)しばしば独善的ドグマ的に見えたり、(c)なんだかぐだぐだと読みにくかったりするのは、この
「『××は、ただそれだけで無意味に美しい』を言っちゃ、そこで対話がおしまいになっちゃう」
という危機感、蛸壺のなかでの独語や仲間どうしの慰撫的同義反復を回避しようという、この「つぎの一歩」のせいなのです、きっと。
「批評のこと(5)」(研究会日乗)

http://d.hatena.ne.jp/noririn414/20080124

「××はただそれだで美しい」というだけでよい、という有栖川の言葉は、「批評という「他人の言葉」から守ってくれる絶縁体、耳栓」になった。だが、「××はただそれだけで美しい」という発言は美しくないのではないか、という趣旨の言葉が続く。*9


細かいところ。
西島大介の手による、限界小説研究会のロゴマーク(限界くん)が描かれている。
また、笠井翔がDTPを担当している。彼は笠井潔の息子で、1986年生まれである。
何が言いたいかというと、この本は、書き手だけでなく、スタッフも東浩紀周辺あるいは若手なのであるということ。


探偵小説のクリティカル・ターン

探偵小説のクリティカル・ターン

*1:現在は見られなくなっているが、場所を移動中らしい。参照:http://d.hatena.ne.jp/cherry-3d/20080111

*2:ちなみに、それぞれ82年、81年、82年生まれである

*3:俗にブログ論壇などと言われているが、何だか得体のしれない言葉だと思う

*4:ただし、各作品を比較するための軸や歴史を提示する点では批評的である

*5:もちろん本格ミステリの論理は、ノックスやヴァン・ダインだけで尽くされるものではないだろうし、また逆にそれらが完全に守れてきたわけではないだろうが

*6:論理学の中にも、二値論理があったり多値論理があったり様相論理があったりするように

*7:実を言えば、僕はこの「神話」の話にほとんどついていけていないのだが

*8:しかし、エンターテイメントと非エンターテイメント(アート)の違いを明確にするのはなかなか難しいだろう

*9:この記事は、5回に分けて投稿されているが、上記引用とリンク先は5番目のもの