アンディ・ウィアー『アルテミス』

アンディ・ウィアー『火星の人』 - logical cypher scape2のウィアー、長編第二作
『火星の人』が火星サバイバル小説だったのに対して、『アルテミス』は月面都市犯罪小説になっており、主人公もアメリカ人白人男性宇宙飛行士から、月育ちアラビア人女性密輸業者となっている。
となると、結構雰囲気も変わっているのかなーと思ってしまうが、さにあらず。
おおむね『火星の人』と同じようなノリで楽しむことができる作品となっている。
主人公の属性はずいぶん変わっているが、機転も利き頭もいいがドジもするし、軽い下ネタを含むユーモアを多分に交えた饒舌な語りをするという点は変わっていない。
一歩間違えば死ぬという状況でも、ジョークをとばし、身近にある技術・材料だけで危機を切り抜けていくという点も、やはり前作と共通している。


主人公のジャズ(ジャスミンの愛称)は、ポーター(市内の荷物運び)をやりながら、密輸を生業としているのだが、ある日、得意先の実業家から、密かな仕事の依頼を受ける。
それは、採掘業者の採掘機械をすべて破壊してほしいというものなのだが、大金に目のくらんだジャズはそれを引き受けてしまう。
その仕事は、とある新産業を巡りアルテミスの今後のあり方と関わる企みへと関わっていく。
最終的には、ESAのオタク科学者、仲違いした友人、EVA(船外活動)教官、治安官、職人気質の父親、そして地球にいる文通仲間といった面々とともに、一大破壊工作を行うこととなる。
前半は、これらの人たちに見つからないように行動するジャズだが、後半では、事情が一変してしまい、逆に彼らの協力をあおぐ形となる。
見つからないように、時間内に、正確に、すばやく作業を行い、計画を実行していくハラハラしたスリルを味わいつつ、ジャズの人間関係を巡る問題なども、前半から張られた伏線とともに、うまくハマっていき、ストーリーテリングもうまくできている。

アルテミス 上 (ハヤカワ文庫SF)

アルテミス 上 (ハヤカワ文庫SF)

アルテミス(下) (ハヤカワ文庫SF)

アルテミス(下) (ハヤカワ文庫SF)


舞台となる月面都市アルテミスの主要な外貨獲得手段は観光で、約2000人の人口を、5つのドームに収容している。
超リッチな観光客および一部の富裕層を除けば、人口の多くは、観光業並びにアルテミスを維持するための業種で働く労働者である。
ジャズの父親は、サウジアラビアから月へ移住してきた溶接職人。なお、アルテミスにいる溶接工はみなアラビア人であり、生命維持施設で働いているのはみなベトナム人であり、といった感じで、同じ職種は同じ人種で占められていることが多い。これは、月である職種にたまたま最初についた人が、故郷から親戚・友人を呼び寄せることが多いためである。
その上で、アルテミスは職業ギルドが組まれていることが多い。ギルドに属していないと、悪評を立てられるなど仕事を妨害されてしまう。
アルテミスは、ケニアの元財務大臣が、国土が赤道直下にあることを活かした宇宙産業を興し、KSCという企業を設立した上で、運営している都市である。
どこかの国の法律によって支配されているわけではない。通貨も存在しておらず、スラグという単位が事実上通貨の代わりとなっている。
警察や司法もなく、治安維持は、治安官を担っているルーディの腕っ節によって担われている(彼は元々カナダの騎馬警察であった)。
また、ケニアの元財務大臣であり、そのままアルテミスの統治官となっているグギが、行政や司法を担っている形になっている。


ドームの中の描写も面白い
都市ではあるが、決して大きいわけではない。
ジャズは、人一人が寝るのがやっとというようなスペースで暮らしている。シャワーもトイレも共用だ。
彼女はいつか個人用のシャワーやトレイのついた部屋に住みたいと考えている。
アルテミスは、何しろ酸素で満たされているため、火気の取り扱いにも非常に厳しく、台所なども貴重品だ。
緑や空などもごく一部に限られている(あるドームには天井がガラス張りになっている公園がある。が、そのようなものがあるのはそのドームだけである)。
アルテミスで一番立派なホテルというのも、立派とはいえ3階建てだったりする。


アルテミスから数キロ離れたところに、アポロ11号の着陸地点があり、ビジターセンターが設置され、観光名所となっている。
観光客には、ハムスターボールのようなものに入り込んで、センター外へ赴くことのできるツアーもある。


物語は、ジャズがEVAマスターになるための試験を受けたものの不合格になってしまうシーンから始まる。
EVAマスタは-、観光客を相手にしたツアーを行っており、稼ぎがよいために、ジャズはその資格を狙っていたのである。
彼女は、元々頭がよく、将来を嘱望されていたのだが、本人は周囲のそうした扱いが気に食わず、10代の頃はとにかく様々なやんちゃをしており、治安官のルーディにはずっと睨まれ続けており、父親ともある一件から仲違いをしてしまっている。
彼女は、自由にやれる仕事としてポーターをやっているのだが、その傍ら、葉巻やポルノなどの密輸も行っている。
得意先の1人であるランドヴィクは、地球で財をなした実業家で、娘が事故で脚に障害を負ったことを機に、低重力ゆえに、松葉杖をつけば娘が歩くことのできる月へと移住してきた。
そんなある日、彼から、アルテミスでアルミニウムの製錬を行っている企業の、灰長石収穫機を4台全部破壊してほしいという依頼を受ける。
ランドヴィクは、この企業がアルテミスと結んでいる、酸素についての特別な契約を知り、この企業の買収を企んでいた。
大金に目がくらんだジャズは、この無茶な依頼を受けてしまうのだが、その一方で、ランドヴィクの元を訪れいていたジン・チュウという謎の男が持っていたZAFOという箱を目にする。


ところで、章末には、ジャズとケニアに暮らすケルヴィンとのメールのやりとりが挿入されている。
最初は、2人がまた小学生の頃、メールのやり取りが始まったばかりの頃のメールで、彼らが次第に成長し、ティーンエイジャーとなり、働き始めてからもメールのやり取りを続けていることが分かる。
このケルヴィンのメールは、ジャズの過去を描くと同時に、現在の物語にも関わっていくことになる。ケルヴィンとジャズの現在の関係が分かってくるあたりとか、さすが仕掛けが上手い。


収穫機は、アルテミスから離れた月面の上を活動している。
これを破壊しにいくには、当然どこかのエアロックから街の外にでなければならない。
しかし、エアロックを操作することができるのは、EVAマスターだけ。そして、ジャズは、EVAマスターの試験に落ちたばかりだ。
さらに、どうにかして都市の外に出れたとして、4台の収穫機をどうやって破壊すればいいのか。これらはみな無人で動いているが、カメラがついており、何か異常があればすぐに発見されてしまう。


ジャズは、外に出る手段や、破壊するための時限装置、アリバイを確保する手段などを講じていく。
ESAの研究員として働いているズヴォボダという科学者の手を借りたり、父親に嘘をついて溶接の道具を借りてきたりなど。
途中まで、何もかもがうまくいくと思われた計画であったが、破壊工作の真っ最中に見つかってしまい、3台まで破壊したところで逃げることになる。
ジャズがアルテミスに戻ってきたのち、ランドヴィクが突然何者かに殺されてしまう(不愛想なお手伝いさんだと思っていた人が、実はボディーガードだったと分かるあたりも、なかなか面白い)。
確かに、買収のために破壊工作を行うのは悪事ではあるが、とはいえ、それへの反撃としていきなり殺してしまうものだろうか。
ジャズは何も分からぬまま、アルテミスの最下層へと身を隠す。
実は、件のアルミニウム製錬企業サンチェスの背後には、ブラジルの犯罪シンジケートがいて、彼らが殺し屋をアルテミスへと送り込んでいたのだ。


アルミニウムはもはや落ち目であったが、ZAFOは月面に新たな産業を作り上げることになる。
ランドヴィクはこれに目を付けたのだが、ジン・チュウはランドヴィクだけでなく、サンチェスにもこのことを告げていたのだ。
ジャズは、殺し屋だけでなくルーディにも追われる羽目になるが、アルテミスを犯罪シンジケートの手に落としたくない統治官のグギは密かにジャズを助け*1、ジャズは、ランドヴィクの娘であり、彼の遺産を手にしているレネに、父親の計画を引き継がせる。
ジャズは、アルテミスが犯罪シンジケートによって支配される未来が訪れることを防ぐため、再び破壊工作を計画する。


父親が溶接工で、ジャズ自身も溶接技術を身につけているので、溶接作業が、彼女の破壊工作の中にも色々用いられているのだが、
後半では、溶接を通じて(?)父娘の愛情が分かるシーンがあったりもする。
ジャズは大金に目をくらんでこの仕事を引き受けてしまうわけだが、それは彼女が、大金を必要としている事情があるからで、彼女の目標額が明らかになるあたりも「あ、なるほどねー」といった感じで、ストーリーテリングが鮮やか
というようなところは、他にも色々あるのだが、きりがないので。


ジャズという若い女性の冒険譚であるわけだが、アルテミスという町が次のステップへ進むために必然的に遭遇してしまうトラブルを扱った、アルテミスの歴史の一つを描いた物語ともなっている。

*1:こう書くとグギがいい人みたいだが、そういうわけでもない