他者と触れあうことが出来るのは

もしかして色ってさ人それぞれ見た感じが違うんじゃないの?
このスレのなかでも、はてブコメントでも、クオリア問題だよね、と言われているけど問題そのものは、別にクオリアを持ち出す必要はない。
新釈 うああ哲学事典 下
この中の「モデル41 中島義道の「哲学実技」」には、全く同じことが描かれているし、「モデル39 大森荘蔵の「痛み」」も参考になる。
中島も大森も読んだことがないので、彼らについてのコメントはしないが。
他者って本当にいるのか、ということが問題だと思う。
別にクオリアを持ち出してきてもいいんだけど、クオリアを持ち出してくる利点は、(専門用語の使用によって)説明を省略することができるくらいか。
このスレの1の問いを、クオリアって言葉を使って書き直すのならば
「もしかして人それぞれでクオリアって違うんじゃないの?」
ということになるだろう。
それに対して、色の波長や脳の構造について答えても意味がないのは明らか。
ここで問われているのは、物理的記述(色の波長や神経の電気信号)とクオリアカップリングは、誰でも同じなのか、という問いだから。
仮に誰でも同じだとすると、何故物理的記述とクオリアカップリングが一つしかないのか、ということが問題になってくる。他のカップリングの可能性を排除するのは、恣意的ではないのか、ということだ。
茂木がクオリアを重視するのは、そのカップリングの一意性こそが、自己の同一性や世界の単一性(?)を保証すると考えるからなのだと思う。あと、多分だけど、ウィトゲンシュタインも近いと思う。
ウィトゲンシュタインはこう考えた-哲学的思考の全軌跡1912~1951 (講談社現代新書)
によれば、ウィトゲンシュタイン独我論についてずっと考えていた哲学者らしい。彼は、言語の限界について思考している。例えば、「同じように」という語の解釈(ここでいえばクオリア)が違っている相手、言語という制度の異なる相手を、「狂気」(に限りなく近い)と見なしている。
今までの文脈に直せば、物理的記述とクオリアカップリングに必然性はないので、異なる場合もあるだろうが、異なっている相手というのは最早狂っている、としか見なせないのである。
似たようなことは
ロボットの心-7つの哲学物語 (講談社現代新書)
哲学の最前線―ハーバードより愛をこめて (講談社現代新書)
からも見て取れる(講談社現代新書ばっかりだなあ)。
例えば、後者でいえば「好意の原理」
カップリングが一致していると考えないと、そもそもコミュニケーションが成立しない。しかし、コミュニケーションが成立している、という事実からみて、カップリングが一致していると思っておいた方がいい。
ここらの議論は、カップリングに恣意性があることは認めるものの、ありとあらゆる可能性全てを認める相対主義ではない。相対主義を認めてしまうと都合が悪くなることを受けての、プラグマティックな見解。
一方で、
可能世界の哲学 「存在」と「自己」を考える (NHKブックス)
これなんかは、ありとあらゆる可能性全てを引き受けてしまう。それでいて、実はこっちの方がプラグマティックなのではないか、とすら思わせる。そこから、やはり自己について考察していくが、自己とは何ら特別なものではない、という結論がよい。


前回のエントリで、中途半端に『サマー/タイム/トラベラー』に言及してしまったので、昨日今日とで再読した。
前回のエントリでは、全ての行動を可視化する欲望について書いた。『サマー/タイム/トラベラー』では、<倶楽部>と呼ばれる組織が、その欲望に基づいて行動している。

<倶楽部>の会員になると、自分のことを見守っててもらえる。ほぼ一日中、携帯電話とか、ピンマイクとか、市販の盗聴器とか、カーナビを利用した位置確認とか、商店街や駅前広場の監視カメラとか
(中略)
自分を見ていてほしいんだ、会員たちは。機械に見つめられて、聴かれて、記録されて、分類されたいという人間が、この世には確実に存在するんだ。

そんな<倶楽部>の存在を知って主人公はこんな思いを馳せる。

視られなければ安心できない、ぼくら人間という哀れな現象について。

視られることが、自我をつくる、というのはフランスの現代思想では割と基本的な考え方だろう。
ラカン対象aしかり、フーコーパノプティコンしかり、である。
ちなみに、東信者として何度でも強調しておくと、東浩紀がやらかそうとしたのはこの「視る-視られる」関係の解体であって、それをポストモダンと称したのである。


前回のエントリで、外延と内包という言葉を使った。
ここではとりあえず、外延を物理的記述、内包をクオリアということにしておこう。あるいは、外延をテクスト、内包を解釈、としてもよい。
通常僕らは、内包をこそ自らのアイデンティティだと考えているし、外延に先立つものだと考えるだろう。
今ここでは、外延を言葉、内包を感情として考えてみる。
まず何かもやもやした感情があって、それに対して例えば「悲しい」という言葉を割り当てる、というイメージだ。
しかし、必ずしもそうだろうか。
例えば
フリッカー式 鏡公彦にうってつけの殺人 (講談社ノベルス)
の中のこんな描写。

突き刺しジャックは恣意的に困った表情を作る事で、自分が困惑していることを自分自身に教えてあげた。参った事に、そうしないと自己の思考が収束しないのだ。

これはある意味、完全にラカン-フーコー的なモデルでもあるし、外延が内包に先立っているともいえる。
さて、僕たちが困った表情をするのは、他人に自分が困っている事を教えるためでもある。
アカゲザルは頭痛がすると頭を抱えたポーズをするらしいが、リスザルはそんなことはしないらしい。このことは、アカゲザルが群れで生活し、リスザルが単体で生活している事に起因しているらしい。
これは、ウィトゲンシュタインやオースティンの言語行為論にも通じるだろう。
外延というのは、コミュニケーションにとって必要なのである。
そして、そのコミュニケーションが成立しているから、外延と内包のカップリングは一致していると考えるのが妥当だと例えばアメリカの哲学者は考えるわけだ。
そしてさらに、上述した『サマー/タイム/トラベラー』の<倶楽部>や『フリッカー式』の突き刺しジャックを見れば、外延と内包のカップリングの妥当性を担保するためのコミュニケーションは、自分相手にでも成立する。
というよりも、それによってアイデンティティを維持する。
前回のエントリで記した、外延化するアイデンティティとはこれである。


そして、このことはある悲しい事実にも僕らを直面させる。
どうも僕らは、内包について永遠に理解する事はないのではなかろうか、という事実に。
サマー/タイム/トラベラー』はそのことを延々と書いてある、秀逸な青春小説なのである。
僕らは、他者と内包を相互理解できないか、と望む。だが、コミュニケーションというのは、かろうじて外延を交換するのみなのである。
このエントリの上の方で、外延をテクスト、内包を解釈とみなすこともできる、と書いた。
サマー/タイム/トラベラー』では、登場人物たちはひたすら解釈を繰り返す。彼らは、コミュニケーションの持っている単純な(それでいて悲しく残酷な)事実をひたすら隠そうとしているかのようだ。
人間は、実に単純な動機で行動する。だが、それを複雑な解釈で隠してしまう。
人間は、実に複雑な動機で行動する。だが、それをいともあっさり見逃してしまう。
主人公の卓人は、その「知性」ゆえに、コミュニケーションの限界を予め知っていて、そしてその「知性」ゆえに、コミュニケーションが適わない。
互いに真に理解し合うことなどはできない、という絶望が、彼の未来へのニヒルな態度を作る。
だが、互いに真に理解し合うことなどはできない、ということがほんの少しでも希望になったから、つまり、外延だけをほんのちょっとずつ寄せ集める事が、実は結構すごいことなのだということに気付く事が出来たから、卓人は彼女との別れで決して泣かなかったのだし、大人になるのである。
卓人は、僕らは、人間は、孤独だ。
内包をさらすことができないから。
その孤独を、コミュニケーションは決して癒さない。でも、コミュニケーションを通して、孤独であることに少し気付くことは、孤独を絶望に変えない秘訣なのかもしれない。
僕らは、無数の可能世界に囲まれていて、それでいてその中のたった一つに過ぎない。そして、他の可能世界とは限りなく遠く離れていく。だからこそ孤独で、そのくせちっとも深遠ではない。


蛇足な補足
以前のエントリ「選ばれし者の恍惚と不安」とも関連はある。
「選ぶ」とは、無数の可能世界から一つを「選ぶ」ことだから。
そして、相互理解の望みとは、「選ばれる」ことを望むことだから。
サマー/タイム/トラベラー』は「選ばれな」かったことを書くから青春小説なのであり、『涼宮ハルヒの憂鬱』は「選ばれる」ことを描くからセカイ系なのではないか
と、いうのは単なる思いつきにすぎないが。
ちなみに自分が今気になっているのは、「選ばれる」ことって望まれるようないいことだろうか。むしろ、暴力的なのではないだろうか、ということ。
サマー/タイム/トラベラー (1) (ハヤカワ文庫JA)
サマー/タイム/トラベラー (2) (ハヤカワ文庫JA)