『感情とクオリアの謎』

柴田正良、服部裕幸、長滝祥司、月本洋、伊藤春樹、前野隆司、三浦俊彦、柏端達也、篠原成彦、美濃正の論文集*1
第1部が感情、第2部がクオリアを扱っており、第3部では座談会が行われている。
論文数は、第1部が4つ、第2部が6つであり、第1部にしても、2つが感情とクオリアについての論文であり、圧倒的にクオリア論文集である。
感情についての話が、もう少し読みたかったな、というのが正直なところである。
ちなみに、第2部の方のクオリア論文の方で、感情についても触れてる人はいない。

第1部 感情

服部論文では、情緒emotionの認知主義とそれに対する批判が紹介されている。
ソロモンによって提唱された考えで、情緒には認知的な機能を有しているというもので、この場合、情緒とは判断である、と見なされる。
長滝論文では、感情と身体の関係についての考察がなされ、特に身体というものをどう捉えるかということの整理がなされている。ここでは、自然的身体と文化的・社会的身体という軸、客観的身体、主観的身体、間主観的身体という軸が提案されている。
この身体論を読んでいて、何故思い出していたのは動物化の話で、人間の中の動物的な部分、人間的な部分というのも、こうした身体論と接続可能ではないかな、と思った。
身体というのは、自然的でも文化的・社会的なのでもなく、その両方を併せ持つのであり、また、長滝は、一人称(主観的)でも三人称(客観的)でもなく、二人称(間主観的)的なものとして身体を捉えていくのがよいのではないか、としている。
柴田論文は、可能世界を使いながら、この現実世界では、必ずクオリアがスーパーヴィーンするのだと述べる。
月本論文は、工学者である月本が柴田らと共に行った、心の進化のシミュレーションについてである。集団で狩りをするにあたって、協調性をもった性格が進化していったという仮説を検証するために行われた。そもそもこれは、感情のシミュレーションとして企図されたものだが、月本は協調性を獲得はしたが、感情は獲得していないだろ、と述べる。
シミュレーションとは何かとか、人工ニューラルネットワークと天然ニューラルネットワークには違いがあるんじゃないかとか、クオリアをロボットの中に生み出すには素材が重要なのではないかとか。


この第一部に関して言えば、ダマシオへの言及率が高かったので、今度はダマシオを読んでみようか。
あと、やはり、ライルの『心の概念』が読みたい。

第2部 クオリア

いわゆる意識と呼ばれるものには、現象的な面と機能的な面がある。
クオリアというのは、一応、そのうちの現象的な面を指す言葉だと考えられる。
第2部に並べられた6つの論文は、それぞれに少しずつ立場が異なっているとはいえ、現象的な面と機能的な面が明らかに異なっている、ということを重視しているという点で共通している。
そして、共通して主な論敵として挙げられるのは、クオリアを機能主義的、還元主義的に説明しようと試みる人たちであろう。
クオリアというものをどのように考えるか、その答えの一つは二元論であるが、さすがにその道をとるものはいない。
そうすると、物理的な還元を探る方途がありうる。これが、機能主義的、還元主義的な道であり、具体的には、表象主義ないし志向性主義などと呼ばれる。ハーマン、タイ、信原が代表的な論者として挙げられている。
本書は、明らかに信原批判が展開されている論文が2つほどある。
これを読んでいて、日本の心の哲学って、大雑把にわけて、柴田系と信原系に分けられるのかなあと思った。これは単なる想像に過ぎないので、実際の処は知らない。
表象主義批判には、一つには、表象主義そのものがうまくいかないというものと、もう一つには、表象主義によって説明されているのは、あくまでも機能的側面に過ぎず、それに何故現象的な側面が伴っているのかは全く説明できていないというものがある。
クオリアを巡る問題は、まさにここにあるだろう。
クオリアないし意識について、その機能を説明することはおそらく可能だろうが、その機能を担うものが、何故現象的な性質を持っているのか、ということこそがクオリア問題である。
これに関して、伊藤、篠原は、消去主義の立場を取る。伊藤の場合は、自らを無関心主義ともしている。
そもそも、クオリアなる概念を放棄してしまった方がよい、とする立場である。
つまり、クオリアなる概念が、あまりにも不確定的すぎて、概念として不健全ではないかということもである。
個人的に、この立場に結構共感するところが大きく、特に伊藤論文が面白かったので、後でもう一度取り上げる。
一方、三浦は、意識に現象的な面が伴っていることを、ファイン・チューニングによって説明する。この宇宙というのは、様々な法則やパラメータによって成り立っているが、どれだけ物理学が発展しても説明しきれない、原初のパラメータ設定がある。例えば、重力とか宇宙定数とかの値である。これらの値は、恣意的に決まっている。現在、この私たちがいる宇宙とは、異なる値をもった宇宙も想定可能であるからだ。三浦は、こうしたパラメータ設定の中に、意識の現象的な面も含まれる、という。
三浦の人間原理とも関わっている話である。三浦は、様相実在論の立場を捨てて人間原理の立場になったと言われていて、確かにそうだと思うのだけど、この論文を読んで、基本的な発想のありかたとしては、『可能世界の哲学』の頃とも通底している部分はあるなあと思ったので、何となく安心した。
前野論文は、ヒト、鳥、ロボットを比較する。
前野は、意識を機能主義的に説明する。つまり、意識というのは、記憶をもつために情報を整理するためのモジュールとして生まれた、という仮説である。
ところで、このモジュールというのは、そのような機能を有していればそれでよく、必ずしも現象的である必要はない。ここで、前野は大胆な説を提示する。つまり、鳥には、このモジュールがあるが、現象的な面は伴っていない、というものである。
言い直せば、鳥には意識はあるがクオリアはない、ということになる。
そしてまた、ロボットの場合にも、そのような機能をもったモジュールをつけることは可能であろうから、ロボットもやはり、意識はあるがクオリアはないということになるのではないか、とも述べる。
人間は、意識があるしその意識にはクオリアが伴っていると考えられる。ただし、何故クオリアが伴っているのか、ということは分からないとして閉められている。
さて、これに関しては、他の論文に出てくる、盲視が関わってくるのではないか、と思った。
盲視とは、目が見えないのにもかかわらず、見えているとしか思えない行動をとることである。
これは、視覚情報が脳で処理されているのだが、それが意識にのぼってこないということである。
これは、視覚の機能はあるが、視覚のクオリアがないといえるのかもしれない。
柏端論文は、クオリアというか、痛みというものについてもう少しはっきりとどのようなものか考えよう、というものである。冒頭に、C.I.ルイスによって、クオリアが取り上げられた論文の引用があって、当初、どのような文脈でクオリアが持ち出されたのかというところが始まっていて、よかった。
柏端論文は、これぞ哲学だなあということを非常に感じた。


僕の個人的な考えでは、クオリアとかあるいは心の問題に関して重要になってくるのは、一人称と三人称の非対称性であると思う。
この論文集でも、複数の論文が、一人称について取り上げている。
僕はこのブログでは、何度か自己知についての批判を行っているのだが、これも一人称と三人称の非対称性を問題だと思っていて、僕の考えは、知識というのは三人称的に記述されるものであって、一人称のみでしか記述できないものは、少なくとも知識とは呼べないだろうというものである。ウィトゲンシュタインの私的言語批判にヒントを得ている、というか、そのまんまなので、私的知識批判とでもいおうか。
問題は、私たちは、一人称でしか記述できないような様々な体験をしているということである。
いわゆるクオリアという奴だが、別にこれはクオリアには限らないことだと思うが。
このような違いに注目したものとして、ジャクソンの知識論法があるだろう。
伊藤論文によると、これを一般的には「認識上のギャップ」と呼ぶらしい。
さらに、もし二元論の立場をとるのであれば、これは「存在論上のギャップ」ということになる。
また、「説明上のギャップ」というものもある。
物理的な用語による説明では、クオリアの説明にはならない、というものである。これは、クオリアに一人称的な性質と、現象的な性質の両方に関わってくることだと思う。
チャルマーズによると、「認識論上のギャップ」を認めないのが消去主義的なA型唯物論、「認識論上のギャップ」は認めるが「存在論上のギャップ」を認めないのが還元主義的なB型唯物論に当たるらしい。
対して伊藤は、自らをAB型唯物論として、「説明上のギャップ」は認めず、無関心主義の立場をとる。
僕は、この「説明上のギャップ」というものは少なからずあるのではないか、と思っているので、必ずしもこの立場と同じではないが、クオリアに関する無関心主義ということではかなり近いかなと思っている。
ただし、「説明上のギャップ」に関しては、そもそも何をもってして説明と見なすのか、という問題が解かれない限り、あるのかないのかも判断しようがないような気もしている。
私的言語批判、私的知識批判に次いで、私的説明批判がなされれば、「説明上のギャップ」は解消されるかもしれない。
しかし、クオリアに関して言えば、一人称的な面だけでなく、現象的な面もある。現象的な面は、一人称的な報告を通してしか知られていないので、何ともいえないのだが、多くの人がそういう面があることは認めるだろう。
クオリアの現象的な面をいかに説明するかということに関しては、この論文集で言えば、柴田のスーパーヴィーン説か三浦のファイン・チューニング説か、ということになると思う。

第3部 座談会

各論文も各論文で、それなりにキャラは立っているのだが、それ以上に各自のキャラが立っているのが、この座談会。
柴田親分とか美濃大明神とかって一体何だよ、とw
柴田親分のいう話に対して、他の人たちがみんなで、それ無茶苦茶ですよとか、自分には関係ない話ですとか、ここが変ですよとか言って反論するのだが、最後に柴田親分が、お前らそれでもホントに哲学屋か!? と恫喝(?)するという感じの流れだった。
この座談会でも、感情やクオリアを巡って面白い話はなされているのだけど、やはり最後の方での哲学者って一体何をする者ぞ、という話がなかなか刺激的で熱い。
この論文集には、工学者が2人入ってきているが、哲学というのは哲学だけで閉じられるものではなくて、他の経験科学とどんどん関わって交わっていかなきゃならんのではないか、ということである。
最後に、どーでもいい話だけど、長滝が「ぼくは「イタリア・サッカー厨」なので」という発言をしていて、○○厨という言葉はもうかなり一般化しているのだなあ、と思った。まあ、大学の先生なんで、学生の会話とか聞いて知ったのかもしれないけど。

感情とクオリアの謎

感情とクオリアの謎

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