『書きたがる脳―言語と創造性の科学』アリス・W・フラハティ

書きたがる脳 言語と創造性の科学

書きたがる脳 言語と創造性の科学

内容について書く前に、余談。
原題は“TheMidnightDesease”という。これを日本語に上手く訳せるかどうかは難しいけど、『書きたがる脳』よりかっこいいタイトルだと思う。
この『書きたがる脳』っていうタイトルも、完全に内容と合致していて決して悪い訳ではないのだけど、最近脳とかクオリアとかブームとか、それにのっているような感じがしてしまって……(^^;


この本は、書き出すと止まらない「ハイパーグラフィア」と書きたくても書けない「ライターズブロック」という症状を調べることを通して、人間は何故どうやって書くのか、ということについて描き出したもの。
著者は、神経科医であると同時に、ハイパーグラフィアの患者でもある。
患者というと、ハイパーグラフィアって病気なのか、と思うかもしれないが、正確に言えば、てんかん躁鬱病患者に見られる症状といった方が正しいだろう。
そして、作家の中にも、この症状を伴っていた疑いを持つ人が多い。
例えばドストエフスキーなどは、躁うつ病だったのではないか、とか。

著者と本書

著者は、科学者でもある。この本は、神経科学の知見に基づいて書かれている。
だが一方で、彼女はハイパーグラフィアの患者であった(一応この本を出版する頃には治癒したらしいが、この本の元のアイデアとなった草稿はハイパーグラフィアの最中に書かれたようだ)。
また、彼女がハイパーグラフィアを発症したことと、出産が深い関わりがある。出産後に躁うつ状態に陥ったことが要因のようだ。
そのためこの本には、彼女の個人的なエピソードや動機も多く書かれている。
こうした、この本にとっての環境は、この本の内容をやけに複雑にもしているし、魅力的にもしている。

じつはわたしは産後の発作の際に謎を発見した。わたしは自分の悲しみを愛していたのだ。(中略)精巧な腹部の器官をむき出しにするにはメスが必要なように、そこは美が苦痛と分けられず、わけるべきでもない世界だった。そしてペンもメスの役割をする。(中略)わたしが書くのは起こったことを忘れるためではない。覚えているために書く。人生には苦しい欲求よりももっと悪いことがある。その一つは欲求をもたないことだ

長いため省略してしまったが、自分自身の体験を非常に文学的に表現している、とりわけ印象的な部分だ。
彼女はたびたび、「苦しい欲求より悪いことがある」「病気より辛いことがある」ということを主張している。それは端的に言ってしまえば、書けなくなることである。
医者である立場としては、病気は治さなければいけないことである。そして、病気を治すことは基本的によいことである。だが、もしも病気を治すことによって文章を書けなくなってしまうとしたら。
実際に彼女は、躁うつ病で入院していた際、投薬によって何も書けなくない状態になった。その後、担当医の理解のおかげで、投薬量を減らしてもらい、また書くことができるようになったのだ。

ハイパーグラフィア

第一章では、ハイパーグラフィアが、側頭葉性てんかん躁うつ病の軽躁状態統合失調症に伴って起きる症状であることが述べられる。
また、具体的に様々な作家が挙げられていく。
典型的なのが、前述したドストエフスキーである。
ただ勿論、作家が必ずしも精神病患者であるわけでもないし、精神病患者が必ずしも才能を持っているわけではない。むしろ、ほとんどのハイパーグラフィアの患者は、意味もない文章を書き続けてしまう。
また、作家が何らかの精神病を患っているパターンが多いとしても、その両者に必ずしも因果関係があるかどうかもはっきりはしていない(作家の不安定な生活が彼らを精神病にしているのかもしれない)。
ただ、本人が精神病であるより近親者に精神病患者がいる方が、創造的かもしれないらしい。
例えば、ジョイスの『フィネガンズウェイク』は、統合失調症の患者の文章に似ているらしいが、彼の娘が統合失調症だったらしい。

創造性

創造には二つのプロセスがあるらしい。
第一のプロセスが、分散型思考、第二のプロセスが、集中型思考である。
分散型思考の時には、アイデアが沢山でてくる。
逆に、集中型思考の時には、アイデアは出てこないが、それらをまとめ上げることができる。
躁状態という時は、どうも分散型思考をしているらしい。そしてこれが、ハイパーグラフィアにもつながる。
一方で、集中型思考の時には何も書けなくなるが、今まで書いたものを編集し直すことには長けている。
分散型思考の際に出来てたアイデアは、そのままでは作品にはなりがたい。
創造性には、どうもこの二つの思考のバランスがとれている必要があるようだ。

バロウズは、ヘロイン嗜癖の経験がなければ『裸のランチ』は書けなかっただろうが、同時にヘロイン使用をやめなければ書けなかったはずだと述べている

ヘロインをやっている最中は、分散型思考でアイデアが沢山出てきていたがまとまらず、ヘロインをやめることで集中型思考になり、まとめることができたのだろう、ということ。

ライターズブロック

書きたくても書けない。書こうと思って机に向かっているのに、何も書けず苦しい状態。
ただし、このライターズブロックというのは、あるジャンルに限定されることが多く、例えば小説は全く書けないのに手紙は沢山書ける、とか、詩は全く書けないのにエッセーなら沢山書ける、という場合が多い。
ライターズブロックという症状は、ハイパーグラフィアの真逆のようにも見えるが、脳神経の状態などを考察すると案外似ているらしい。
これを失語症と比較している節があった。
ブローカ失語は、発話できなくなるため鬱に陥っていくが、これはライターズブロックによく似ている。
一方、ウェルニッケ失語は、無意味なことをひたすら喋り続け、躁状態になり、ハイパーグラフィアに似ている。
しかし、鬱と躁というのは相互的でもある。

躁が混じり合った状態、あるいは興奮性のうつ状態のときのライターズブロックは、深い憂鬱に沈んでいるときよりも苦しい。クリステヴァが書いているとおり、最も深いうつに沈んでいる人たちはうつについて悩んだりしない

ライターズブロックを如何に解決するか、ということで様々な方法が提示される。
ブレーンストーミングが、よく解決法としてあげられるが、あまり効果はないらしい。
一方で、報酬系の神経回路を刺激することには、効果がありそうだ。

快楽を遮断したり、快楽を強化したりする多くの薬がある。(中略)このような医薬品は、否定的な書評をおそれて本を書けない作家にも効くだろうか? J・D・サリンジャーがパクシルを飲んでいたら、長いこと待ち望まれていた『ライ麦畑でつかまえて』の続編が読めただろうか? もし読めたとしたら、それは読む価値のある作品なのか、それともサリンジャー作品の原動力となっていたと思われる神経症が緩和されたせいでつまらないものになっただろうか?

さらに刺激的なものがある。
一部の、うつ病患者に用いられている治療法として脳深部刺激療法というものがある。これは、電極を直接脳の中に埋め込み、その電極からの刺激で脳の活動を活性化させるというものだ。

電気的刺激の設定ぐあいで軽躁状態になったとき、非常に優れた研究企画書を次々に書いたが、設定が変わってうつになるとまるで書かなくなった

ある患者はこう言った。「うちにいるときは、落ち着いていられるので2の設定にします。でもパーティに行くときには設定を4にして元気になるんです」

これではまるで、イーガンの『しあわせの理由』そのものではないか。
こういうことが実際にあるのかと思うと、戦慄した。
これは電極を埋め込む、という浸襲性の高い方法で、うつ病患者の中でも他の治療法の使えないごく一部にしか行われていない。だが、経頭蓋的磁気刺激法(TMS)という非浸襲の方法もある。これは、脳を局所的に活性化させたり不活性化させることのできる技術だ。


覚醒状態と作業遂行には逆U字型の関係があるという。
つまり、覚醒度が低くければ作業能率は落ちるが、逆に高すぎても作業能率は落ちるらしい。

動機の過剰からくるライターズブロックとハイパーグラフィアは、論文は必死になっても書けないのにeメールやブログは書きまくる大学院生のように、同じ人の中でも交互に起こるのかもしれない

つまり、書こうという気持ちが強すぎても、逆に書けなくなってしまうのである。

失語症

ウェルニッケ失語は、文法的には正しいが意味のないことを喋り続ける失語症である。これを「政治家のトーク」と呼ぶらしい。
ところで、神経科学者のオリヴァー・サックスは、声の調子を読み取ることは出来るが言葉の意味が分からない患者と、声の調子を読み取ることは出来ないが言葉の意味が分かる患者に、レーガンの演説を聴かせたところ、どちらの患者も「この政治家はろくでない」と感じた、というところがから、政治家に騙されるには脳が完全に機能していることが必要、と結論づけた、とか。


言語学者ヤコブソンは、ブローカ失語は換喩の失敗であり、ウェルニッケ失語は暗喩の失敗であると考えた。これは各々、前頭葉の障害と側頭葉の障害と関係しており、もしかすると文学と科学をつなぐ補助線となりうるのかもしれない。

共感覚

共感覚というのは、あるものに対して五感の二つ以上の感覚が反応するというもの。
例えば、Aという文字を見て、堅いと感じたり赤っぽいと感じたりすることである。
これは暗喩のようだが、実際にそのように二つ以上の感覚を伴っている人がいるらしい。わからないでもない。

ある感覚野に届くべき神経線維がほかの感覚野にもつながってしまうというのう脳の配線のからみあいから共感覚が起こるのではないかという。(中略)一見したところでは、共感覚は直接的な体験や脳の状態ではなくて単なる暗喩に過ぎず(中略)表現方法なのだろうと考えたくなる。だが見直してみると、逆に暗喩の多くは薄められて文化的に影響された共感覚だと考える方が正確かもしれないと思えてくる。(中略)この共感覚と暗喩の密のつながりは、少なくとも詩人のある側面は配線過剰のおかげであることを示唆している。共感覚が側頭葉を活性化させる事実は、側頭葉は暗喩に重要な役割を演じているというヤコブソンの説に合致する

何故書くのか

著者は、書くことをテクニックと意欲に分けて考える。
テクニックを担当するのが皮質であり、意欲を担当するのが辺縁系である、とする。
書くこと、というのは、人間にとって非常に根本的な欲求なのではないか、少なくとも根本的な欲求に端を発するものなのではないか。
それはコミュニケーションの欲求である。
人間には、コミュニケーションに対する深い欲求があるのである。そして、その欲求が満たされることによって深い満足を得る。

心理学者のディラン・エヴァンスは、言葉は最初の向精神薬だったと主張する

さらに、コミュニケーションによる人とのつながりには、麻薬効果があるのではないか、という仮説をたてる

麻薬は社会的なつながりの代用をするらしく、他者との接触への感心が低下する。脳内麻薬の放出を阻害する薬を投与されると、動物も人間もより社交的になる。社会的絆麻薬理論で、なぜ誰かに話をするとわたしの痛みが和らいだかが説明できる。話しているとき、わたしの脳は脳内麻薬を放出して気分を改善してくれたのだろう。書くのはおしゃべりの代わりだ(中略)。麻薬仮説はまた、麻薬(鎮痛剤)の投与によってわたしの書く意欲が低下したことにも合致する。さらになぜ喪失について書かれた文学がこれほどに多いのか、なぜ人々は恋をして、恋人が遠くにいるときに書きたがるのか、愛する者に死なれたときに書くのかもうなずける

そのほかに、書くことによって因果関係の鎖をつくることができるのではないか、という説も出すが、著者は因果関係そのものに対してはそれほど重要性を見出していない。
また、それとは別に、小説家のミラン・クンデラの考えた「グラフォマニア」という言葉も紹介する。これは、本を出版したい欲求である。ハイパーグラフィアと違うのは、ハイパーグラフィアは必ずしも書いたものを人に見せたいと思うわけではないのに対して、グラフォマニアは人に見せたがるのである。
クンデラは、グラフォマニアが大発生する条件として以下の3つを挙げた。
1)一般的な生活水準が向上し、人々が無用の活動にエネルギーを注げるようになる。
2)社会の成員が原子のようにバラバラになり、その結果として個人の孤独感が広がる。
3)国家の内的な展開のなかで、社会的変化が全く起こらなくなる。
クンデラがこれを書いたのは1980年のことらしいが、見事にブログを予期しているという感じもする。

暗喩と創造性

暗喩こそが創造性ではないか。
暗喩とは、一見何の関わりもないようなものをつなげてみせる能力だから。
これは、文学だけでなく科学においても必要な能力。
例えば、稲穂を刈る機械を開発した人は、稲穂が髪の毛のようだと思ったところから着想を得たらしい。
また、科学におけるモデルというのも、暗喩の一種なのではないか。
さてそのような暗喩をもたらすものとして、内なる声がある。
内なる声は、おそらく誰にでもある。
文章を書く前に頭の中で文章を反芻している声や、自分では意識していないのに頭の中繰り返される歌声(しかもCMソングだったりする)がそれだ。
この声は、あくまでも自分の声であって、幻聴などではない。
だが、それこそ、止めようと思っても止まらずに延々と頭の中で繰り返される歌声などは、自分のものではないように思えてしまう。
あるいは、詩人や作家は、何ものか(ここでは詩神と表記されている)がアイデアを囁いているかのような体験をする。
それが、現実のものと錯覚すれば、統合失調症の幻聴ということになる。
あるいは、神のものだと考えれば、宗教的啓示となる。
内なる声、詩神、幻聴、宗教的啓示、というのは、同じ現象の様々な程度の違いなのではないだろうか。
しかし、何故こうした声は、自分とは異なる存在のように感じてしまうのか。
これに対するジュリアン・ジェインズの仮説は面白い。
古代ギリシアでは、内なる声が実際に自分の中の声だとは思われていなかった、というのだ。
それは、右脳と左脳の連携が上手くいっていなかったかららしい。ウェルニッケ野は左脳にあるが、右脳の同じ場所にも同様の働きをする部分がある。右脳と左脳が上手く連携していないと、この部分の反応を他者のように感じてしまうらしい。
統合失調症の患者は両半球の連携に欠陥があるらしい。
(ところで、右脳と左脳の違いに関して。実際に、分業が行われていることは確からしいが、能力としては右脳も左脳も等しいらしい。で、右脳と左脳の連携プレーが創造性などにとっては重要なことで、右脳を鍛える云々というのは大した効果があることではないようだ)

最後に

欲求と嗜癖のグレーゾーンについて考えずにはいられない

この一節はなかなか重要だと思う。
著者は、医者であると同時に患者でもある。科学的思考をすると同時に非科学的な感慨も持ち合わせている。
書くことについて、かなり神経医学的に、それこそ神経伝達物質や薬によって色々なことが解決するかのように書かれている。だが、それは同時に非常に味気ない世界をも想起させる。
それこそ、脳に電極埋め込んで脳内麻薬のコントロールが出来るようになったら、人間なんて何もしなくていいではないか。
だが、彼女は書くことに抗えない魅力を感じている。
創造性というのは、脳の左右で分業のバランスが崩れたが、脳内麻薬のちょっとした放出の調合の仕方かによって、生み出されたものかもしれない。
それを味気なく感じるか、わくわく感じるかは人によるだろうが、創造することが喜びであることは事実だ。その喜びは脳内麻薬によってもたらされていることが分かったとしても、喜びであることには変わりない。

わたしのなかの科学者は、自分の幸福感が双極性障害の症状に過ぎないのではないか、産後の気分障害からハイパーグラフィアが起こったのではないかと不安がっている。(中略)わたしが書くのは、書かなければ窒息しそうだから。わたしが書くのは、自分よりもっと大きな何かがわたしのなかへ入ってきて、ページを、世界を意味で埋めさせるからだ。