土谷尚嗣『クオリアはどこからくるのか?』

ジュリオ・トノーニの統合情報理論と、筆者が提案しているクオリア構造についての入門的解説書
生体の科学 Vol.73 No.1 2022年 02月号 特集 意識 - logical cypher scape2を読んだ際に、この本の筆者である土谷や共同研究者である大泉の論文に出てくるクオリア構造の話が面白かったので、改めて本書を手に取った。
情報統合理論については、以前、ジュリオ・トノーニ/マルチェッロ・マッスィミーニ『意識はいつ生まれるのか――脳の謎に挑む統合情報理論』 - logical cypher scape2を読んでいたが、意識の有無を測定することを目指す理論であって、クオリアについての理論ではないという感想であった。
実際、本書でも筆者は同様のことを述べており、その点を補完するものとして、クオリア構造説が提案されている。
本の内容的には、上述の雑誌と重複するところもあったが、統合情報理論について、とてもコンパクトに読みやすくまとめられていてよかった。
特に、排他性について、トノーニ本でよく分からなかった部分(同様のことの説明はあるが、排他性という言葉が使われてなかった)なので、整理されていてよかった。
また、メタ認知を調べることで意識についての実験が行えるとか、注意と意識とを別々に操作するとか、意識研究の中で進歩していった実験デザインの話も面白い。

はじめに
1章 意識って科学の対象なの? クオリアって何?
2章 意識はどうすれば研究できるのか?
3章 目から脳へ、脳から視覚意識へ
4章 意識の変化に合わせて変わる脳活動
5章 意識と注意
6章 意識の統合情報理論
7章 意識研究の最前線
おわりに
参考文献

1章 意識って科学の対象なの? クオリアって何?

本書のイントロダクション
意識については、「レベル」と「内容」に分かれている
レベルというのは、覚醒時は高く、睡眠時は低いとされる。要するに意識がある・ないに相当する概念。昏睡時をゼロとして、睡眠時は低く、しかし夢を見ている時は少し高くなって、というようなことが言いたいようなので、有無の二値ではなく「レベル」という言い方をしているみたい。
内容は、クオリアのこと

2章 意識はどうすれば研究できるのか?

これまでの研究手法について紹介されており、特に章の後半では、盲視研究がクローズアップされている。
さらに、サルの盲視についても触れられている。言葉による主観報告ができないサルの盲視をどのように確かめるのかという点で、自信度(メタ認知)を調べる実験デザインによる手法が紹介されている
また、サルにせよ人間にせよ、意識は一つの証拠だけでは論じられず、主観報告、行動、神経活動など総合的に証拠を揃えることが大事だということが述べられている。
ところで、その点で、哲学は演繹的なので一つの証拠だけで色々結論を引きだそうとするということが述べられているところがあるのだが、自分の持っている哲学のイメージと違い、違和感はあった
そのほか、この本では時々「哲学者は~」「哲学は~」というところがあるが、具体的な哲学者名・文献名が参照されていないことが多くて、ちょっと困る(主語大きすぎ問題)

3章 目から脳へ、脳から視覚意識へ

周辺視野の話から、網膜にある錐体細胞は中心より周辺の方が密度が低いけれど、細胞一つあたりの守備範囲である受容野が広い、という話がされている
あと、盲視患者と健常者とで視覚意識の有無の差を生じるのがV1だという話

4章 意識の変化に合わせて変わる脳活動

両眼視野闘争でNCCを探す

5章 意識と注意

意識と注意は区別できるだろうか、という章
まず、ここでは注意について、多くの選択肢から何かを選択し増幅させる作用と、いらない選択肢を排除して減衰させる作用の二つの作用からなると特徴づけている
また、両眼視野闘争の実験でわかるのは、意識と相関した神経活動ではなく、報告と相関した神経活動なのではないか、という疑問も呈される。


意識と注意の関係については、
a.注意を向けたものが意識にあがり報告される
b.意識にのぼるものの一部に注意を向けることができ、それが報告される
という二つの考え方があるとされる


意識と注意の関係を実験で調べるためには、それぞれが独立に操作できなければならない
ここでは、意識を操作する実験手法として連続フラッシュ抑制と、注意を操作する実験手法としての二重課題というのがそれぞれ紹介されている
その上で、意識が注意の必要条件かというとそうではない(意識されなくても注意を向けることができる)、と
一方、注意が意識の必要条件かというとこれを確かめるのは難しくて、いくつかの実験デザインが紹介されているが、注意を向けても向けなくても残るような意識経験があるようだ、ということが述べられている

 

6章 意識の統合情報理論

意識の理論に関しては3つの道がある、という
(1)保留(2)グローバル・ニューロナル・ワークスペース理論(3)統合情報理論
多くの研究者は実は(1)の道を進んでいる
(2)については、2001年に提唱され当時は様々な実験結果をよく説明していたが、その後行われた様々な実験により、これが意識の理論というよりは、注意や報告についての理論であるのではないかと言われ始めている、と


統合情報理論の5つの公理(意識がもつとされる5つの特徴)

1.存在性
2.組成性
3.情報性
4.統合性
5.排他性

この5つの仮定をもとに2つの数学的手続きを設定

1.あるシステムが持っている意識レベル=そのシステムの統合情報量(Φ(ビッグ・ファイ))
2.Φが局所的に最大になるサブシステムを「コンプレックス」と呼び、コンプレックスに意識が宿る
3.コンプレックス内の「メカニズム」が生み出す統合情報量=φ(スモール・ファイ)。φ同士がどういう関係かでクオリアが決まる
この章では、1と2についての話がなされる。

  • 情報性

他の状態と区別がつく(オンかオフかの2つの状態があってそのどちらかとなる=1ビットの情報量をもつ)

  • 統合性

互いに影響し合って1つのものとして働く

  • 統合情報量

オン・オフのノードが複数個あってそれらが「複雑な」ネットワークを形成していると統合情報量が高い
(互いに1つずつとしか繋がっていなかったら統合性が低い。互いに全てのノードと繋がっている場合、統合性は高いが、個々のノードの区別がつかなくなるので情報性が低い。それぞれのノードが複数のノードとつながりあってるけど、つながってないところもあるというようなネットワークになっていると、統合性も情報性も高い)

  • 排他性

経験される以上でも以下でもない→無意識で処理される情報は経験されないし、意識にのぼる経験は全て経験されるということ→意識レベルを「どこで」測るかという問題
「局所的に統合情報量が最大になるようなシステムにだけ意識が経験され、そのシステムの一部は他の意識経験と共有されることはない」
つまりこれは、脳神経系でも、一方通行になっている回路(感覚器から脳までの入力系とか)というのは、意識が経験されるシステムに含まれないということ。
意識についての研究や臨床は、感覚刺激を与えてそれにどう反応するか・報告するかということを行うが、実際は、入力系や出力系自体には意識が宿っているわけではないので、意識レベルの測定がそこに依存するのはよくないのではないか、という考えにつながる
インターネットに意識が宿っていない理由にもなっている。
(ところで、心の哲学では「統一性」という言葉で指し示されている意識の特徴があるが、これと対応しているのが、この排他性なのかなという気がした)


トノーニらは、脳に強い磁気刺激を与えそれに対してどのような脳波が生じるか、ということを観測することで、意識レベルが測定できるのではないかと考えた。
実験を繰り返すことで得られた指標をPCI(攪乱複雑性指標)と名付け、意識レベルと相関してそうということは分かってきている。
統合情報量は、ノード数が増えると計算するのが大変になりすぎるので、実際の測定には近似値を使った方がよさそうで、PCIはその候補
ただし、PCIが実際に統合情報量の近似になっているかは、現段階では不明らしい


本章の残りの部分では、統合情報量の計算の仕方についての考え方と、コンプレックスをどのように求めるかという考え方が説明されている。
分離脳患者は、右脳と左脳とそれぞれにコンプレックスが生じていて、つまりそれぞれに意識が生じているのではないか、と。


7章 意識研究の最前線

6章であげられた3つの手続きのうち、最後の1つ、つまりφ(スモール・ファイ)とクオリアについて


統合情報量の網、因果関係の網がクオリアと対応しているのではないか、という仮説
ノード(ニューロン)のメカニズム(隣のノードがオンならオンになるとか)が、コンプレックス全体にどのように貢献するのかを定量化したのがφ
システムABCについて、部分集合ごとにφがある。つまり、A、B、C、AB、BC、CA、ABCそれぞれのφを計算し、それを辺や頂点に見立てる。これを本書では「情報構造」と呼ぶ。
神経活動の測定技術が急速に進歩しているので、脳の情報構造を少しずつ可視化できるようになってきている
なお、φは組成性と関わるとされる。
組成性というのは、意識は部分に分けられる(意識経験は、机についての意識、コップの白い色についての意識、コーヒーの匂いについての意識といった部分の組み合わせから成り立っている)ということ。


一方で、クオリアにはクオリア構造があると考える
それは、クオリア同士の関係性のこと
赤とは何か、と定義づけるのは難しいが、赤と紫と青との関係性(例えば、赤と紫は似ているけど、赤と青は紫ほどには似てないとか)から赤を特徴づけることはできる
圏論の「米田の補題」によれば、何かの特徴は他の何かとの関係性によって定めることができるとされる
(ここでは同じ色なのに周囲との明るさの関係で見え方が異なる錯視図形が例示されながら話が進むのだが)「AとBの見え方が同じなら、AとBの周囲との位置関係は同じだろう」はまあ当然だが、米田の補題からは「AとBの周囲との位置関係が同じなら、AとBの見え方は同じだろう」が保証される、と
色の類似性は、色環といった構造をとる。色のクオリア、音のクオリア、匂いのクオリアはそれぞれこの構造が異なっているから、というところから説明できるのではないか、とか。


脳損傷の患者の中には、顔だけ分からなくなったり、色が分からなくなったりする患者がいる。一方で、誰か特定の顔だけ分からなくなったり、赤だけ分からなくなったりということはない。
それは、顔の関係性の構造、色の関係性の構造というのが失われるからではないか、と。
(脳内の構造は、特定の色クオリア(赤クオリアとか)と対応するのではなく、色クオリア構造と対応しているので、脳のどこかの部位が損傷すると、特定の色だけ経験できなくなるのではなく、色そのものが経験できなくなる、と)


クオリアの話では、中心窩と周辺視野と同じように見えているのかという問題があって、例えばそれぞれで見える色同士の類似度を計測すればいいのではないか、ということが考えられている
しかし、それを実験するには計測にとてつもなく時間(試行数)がかかる。筆者は、オンライン実験を行えば、これもうまくできるのではないかと考えている