トッド・E・ファインバーグ,ジョン・M・マラット『意識の神秘を暴く 脳と心の生命史』(鈴木大地 訳)

サールの「生物学的自然主義」を引き継ぎ「神経生物学的自然主義」を掲げる筆者らによる神経生物学的な意識研究の本
前著『意識の進化的起源』のダイジェスト的な本らしく、前著の方を未だ読めていなかったので、とりあえずこっちを手に取ってみた。
基本的な話としては面白いのだが、意識のハードプロブレムの解決になっているのかというと、もっと詳しい議論を読まないとよく分からない、という感じで物足りなさが残った。

第1章 どうして意識は「神秘に包まれて」いるのか?
第2章 ギャップに迫る─イメージと情感
第3章 脊椎動物の意識を自然科学で解き明かす ①心的イメージ
第4章 脊椎動物の意識を自然科学で解き明かす ②情感
第5章 無脊椎動物の意識という問題
第6章 意識を生みだす特性とは何か
第7章 原意識の進化とカンブリア仮説
第8章 主観性を自然科学で解き明かす
デカルトの神秘的な幽霊の正体─訳者あとがきに代えて
用語集


第1章 どうして意識は「神秘に包まれて」いるのか?

第2章 ギャップに迫る─イメージと情感

意識は、外受容意識、内受容意識、情感意識の3つのドメインに分けられるとする。
さらに単純化して、心的イメージと情感の2つに分類する(外受容は心的イメージ、情感は情感、内受容が心的イメージと情感にまたがる)
また、説明のギャップについて、これを「参照性」「心的統一性」「心的因果」「クオリア」の4つに分けている。

第3章 脊椎動物の意識を自然科学で解き明かす ①心的イメージ

外受容感覚意識を生み出すには、感覚器官からの信号を受け取るニューロンが同型的地図として配置されていると推定
哺乳類だけでなく鳥類や魚類など脊椎動物の脳内のどこにそのような神経的基盤があるか
種類によって、脳内の場所は異なる
一方、無脊椎動物にはそのような神経的基盤がなく、同型的地図が初期の脊椎動物で進化したのだと論じている

第4章 脊椎動物の意識を自然科学で解き明かす ②情感

情感の基準として「大域的オペラント条件づけ」を行うかどうか
大域的オペラント条件づけまでは行わないが、単純な感情価と行動のシステムをもつ動物についてなど


イメージも情感も、種によってそれを実現する神経回路は異なる

第5章 無脊椎動物の意識という問題

無脊椎動物のほとんどは、脳の構造的に意識はないと考えられるが、節足動物た頭足類にはありそうということで、いくつか実験の紹介なと

第6章 意識を生みだす特性とは何か

全ての生命に備わる特性
脳神経系を持つ生命に備わる特性
原意識を持つ生命に備わる特性
の三段階に分けて、意識を生み出すそれぞれの特性を挙げている。


意識に関わるものとして、予測プロセス、注意、記憶を挙げている
ここでも予測誤差最小化

第7章 原意識の進化とカンブリア仮説

先に挙げた3つの段階がそれぞれいつ頃進化の過程で生じてきたか。
カメラ眼登場に伴う視覚先行説
意識の適応的価値


第8章 主観性を自然科学で解き明かす

デカルトの神秘的な幽霊の正体─訳者あとがきに代えて

用語集

感想

この本のいいところ、面白いところは、意識と一言で言っても色々あるよね、と言ってるところで
まず、同じ種内でもイメージ意識と情感意識の違いがあるという話(意識の議論は、大抵どちらかによりがち)をして、また、種によってこれらを実現する神経基盤が異なることを論じていて、それは面白い
一方で分からないのは、その基準を用いることとそれが意識であることの関係
まあ、ある程度測定可能というか客観的に判断できそうな基準を作って、調べてみる、というのは経験科学としては王道だと思うので、意識の科学としては、十分ありだと思う。
ただ、これでハードプロブレムに太刀打ちできるのかというと謎
こういう神経系になってるからこの動物には意識がある、ない、みたいな話をしているのだが、そもそもある神経系の仕組みと意識とが何で一致してると言ってよいのか、というのが意識の哲学的問題のはず


もっともこの本が、ハードプロブレムに対して全然ダメかというとそういうわけでもなくて、問題の腑分けをしているのは役に立つと思う
クオリアについての説明と主観性についての説明は分けた方がいい、という整理は、よい整理のように思う。
主観性を説明するのに、自-存在論的還元不可能性と他-存在論的還元不可能性というものものもしい言葉が出てくるが、これは、自分の脳は自分の脳神経の活動そのものをモニタするように作られていないし、また、他人と神経は繋がってないから他人の経験は経験できない、という話
個人的には、これは至極もっともな話で、ハードプロブレムの問題が説明のギャップに尽きるのであれば、まあ、これでもいいんじゃないかと思わなくもない。
ただ、ハードプロブレムって、神経系が必然的に意識経験を産むわけではないのでは? という問題なので、神経系が意識を生じさせていることを前提にしすぎると、ハードプロブレム論者を納得させることはできないのでは、という気はする


筆者は、説明のギャップを、参照性、統一性、心的因果、クオリアの4つにわけ、それぞれ神経生物学的な説明が可能であることを論じている
参照性というのは、志向性のようなもののことかなと思うのだけど、哲学者は志向性にギャップがあるとはあまり考えていないように思うので、何故これをギャップをなす特徴の1つとして挙げたのか、というのはちょっと疑問
で、問題はクオリア
筆者はクオリアを持つことの必要条件として生命であることを挙げている
このあたり、あまり明示されていなかったと思うが、サールっぽい
この本は意識の「多重実現可能性」にも言及しているが、あくまでも生物の中の話(意識は、脊椎動物無脊椎動物とで異なる神経によって実現されており、おそらく進化史の中で複数回獲得されたのだろうというような話)
非生命(ロボットやAI)が意識を持つことができるかどうかについて直接的な議論はないが、非生命的な情報理論としての意識理論には明確に否定的である。
サールが強いAI批判をしていたことを考えると、通じるものがある気がする。


また、本書は、生命が階層的なシステムとなっていることを強調している。
低層のシステムをベースに、さらに高次のシステムが生じてくる、と。
こういう階層構造もサールっぽい感じがする
(サールは、存在論的には物的一元論をとるけど、生物学や社会科学は、物理学に還元できないという立場で、それはなんかこういう階層構造的なものが念頭にあったような気がするけど、ここらへんかなり不確かな記憶で書いてます)
訳者あとがきでは、ケストラーのホロン概念が言及されていたけれども。


話をクオリアに戻すと
クオリアは、高次のシステムの持つ特性というかプロセスそのものであり、低次のシステムである神経の働きについてとは、そりゃ一致しないよね、という話をしていて
それの喩えとして、呼吸を挙げている
呼吸というのは、全身で見られる巨視的なプロセスであるが、細胞レベルで見られる微視的なプロセスもある。巨視的なプロセスと微視的なプロセスとは違うけど、どちらも生きていることによって生じているプロセスである、と。
クオリアも、生きていることによって生じてくるプロセスなのだ、と。
先程、生命であることがクオリアの必要条件であることとつながる話なのだが。
しかし、呼吸の喩えは本当に喩えとして成立しているのだろうか、というのは気になるところ。


同型的地図の話は、鈴木貴之『ぼくらが原子の集まりなら、なぜ痛みや悲しみを感じるのだろう』 - logical cypher scape2にあった「内容理論」の神経系的な実装の話として捉えることができたら、面白いかなーと思った



神経生物学的自然主義に最初からある程度コミットした上でなら、この本の議論は面白いし、個人的にも、意識の話は当然進化生物学や神経科学の観点から考えるべきものだよね、とは思うので、その点、正しいアプローチなのでは、と思っている。
一方で、意識の哲学として読むと、ライバル理論を打ち負かすには、議論として足りてないのではないか、という感じがする。
特に、生命が必要条件である、というところは、機能主義だったり統合情報理論だったり、非生命でも意識を持ちうる可能性があると考える立場から見ると、この本の記述だけでは全然納得いかんのでは、という感じ。
訳者あとがきで、ケストラーの轍を踏んで神秘世界に落ちてしまわないように注意しないと的なことが書いてあったが、確かにそういう危険性もあると思う。