総検索社会と外延化するアイデンティティ

なんだ、このものものしいタイトルは。


マイミクのせりなさんのmixi日記にて、「防犯で小学生に携帯電話を持たせるか否か」という話をしていた。
この日記のスタンスは、それに対して肯定でも否定でもなくて、むしろ「それって大した問題じゃないよね」というような雰囲気。
案外、その手の問題への対処法として、そういうゆるっとした態度は正しいのかもしれない。
そもそも問題が過剰化してしまっている傾向もあるので、「問題がある」という態度そのものをキャンセルしてしまうことが、必要なのかもしれない。


しかし、何というかこういう文体で文章を書いてしまっている自分にとって、それを実践するのは難しいので、ここではまた別の話。
その日記に対して、「総検索社会にどういう態度をとるか」というコメントを寄せた。
総検索社会というのは多分僕の造語ですが、東浩紀鈴木謙介なら監視社会2.0っていうかもしれない。
ありとあらゆる行動が、可視化され蓄積され検索できる、というイメージ。
日記のコメント欄にも同じことを書いたが、
具体的なイメージとしては、Googleに「SAK 2006年7月8日12時半」といれると「自宅にてブログ書いてる」と出てくるような感じ(^^;
(そういえば以前友達と冗談で、Googleに将来検索があったら、って話をしたことがある。「SAK 将来」っていれると「ニート」って出てくるという……)
これは、いわゆる「監視社会1.0」とは異なる。
全体を把握するような何ものかがいるわけでもないし、行動をコントロールする権力が働くわけでもないから。
マーケティングに使われたり云々ということはあるかもしれないが。
むしろ、鈴木謙介が考えるように、自分で自分を「監視」するために使われる可能性が一番高い。
前述したせりなさんからも、「自分だけが使えるなら便利」と言われた。
それに、自分のblogの過去記事を誰よりも多く見ているのは、自分自身。
カーニヴァル化する社会』で描かれた、「再帰的自己」のイメージとも重なる(鈴木のこの「再帰」の使い方は間違っている、という批判がある。実際、「再帰的自己」と対照される「反省的自己」にも再帰性はあるはずなので、確かにここで「再帰」と使うのはおかしいかもしれないんが、ここではこのまま使う)。
場面場面に応じて、データベースに登録された過去ログを参照して、自分を立ち上げていく、というのはなかなか便利な気がする。
新しいアイデンティティ構築のあり方、ともいえるのではないか。
プロフィールというのは、そのほとんどが「好きな○○」で覆い尽くされている。
自分の好きなもの、興味のあるものを構成したら、自分なるものが立ち上がってくるといっても過言ではないのではないか、というほどに。
その際に、自分の行動ログがデータベース化されていることは非常に役に立つだろう。


ちょっと話が脇にそれるが。
『検証・若者の変貌』という本がある。
この本は、ネガティブに語られがちな若者論を、ポジティブに語り直そうというものだ。
ここで特に注目されるのが、人間関係と音楽生活である。
人間関係に注目することで、多元的自己というものが見いだされる。場面に応じた自己の使い分けである。
これを、統一した自我が持てないと批判するのではなく、流動性の高さへの適応だとみる。
一方で、音楽生活の項においては、コミットメント尺度なるものが導入される。これは、要するに音楽へのこだわりの強さをあらわす尺度である。
この尺度が大きいほど、「自分には自分らしさがある」と答える度合が大きいという。
この2点から、この本では、音楽(ここには音楽以外のも代入可能。マンガやアニメでも構わない)への強いコミットメントをすることで、流動性の高い社会でサバイブしていこう、と結論づける。
http://d.hatena.ne.jp/derorinman/20060624/1151133932で指摘されているように、これは要するに「みんなオタクになれ」というメッセージでもある。
斎藤環とも近いものがあるかもしれない。
前述した、アイデンティティには「好きな○○」が必要、というのはこういう文脈による。
ちなみに自分は、この「みんなオタクになれ」というメッセージには懐疑的。
それが必ずしもサバイブにとって有効な策なのかどうか。
限界小説書評第21回「『断章のグリムⅠ』/投影と鑑賞」
で笠井翔はこのようにいっている。
「このような新たな感情移入のメソッドに、あるいは、オタク第4世代の足音を聞き取ることができるのではないか」
ここでいう新たな感情移入のメソッドとは、主人公に感情移入しないこと、である。
ラノベに、超越か内在かの選択を迫られる主人公へと感情移入するセカイ系から、そもそもそのような選択もなくただのヘタレな主人公しか出てこない新伝奇への移行を見出し、何故このようなヘタレな主人公が求められるのか、という問いを設定した末の答えがこれである。
つまり、そもそもそのようなヘタレな主人公に読者は感情移入していない。
しかしこのことはもしかすると、アイデンティティをそもそも必要としない、新しいサバイブの方法なのかもしれない。
それこそ内在に安住するための。


閑話休題、話を戻す。
総検索社会によって、アイデンティティをデータベースによって構築することが可能になったとする(再帰的自己)。
しかし、そこで構築されたものはそもそも一体何なのか。
ここで外延と内包という言葉を使ってみる。
ものすごく大雑把にいうと、外延は客観的なもの、内包は主観的なもの、といえるかもしれない。あるいは、外延は表面的な特徴、内包は定義、といえるかもしれない。外延は量的なもの、内包は質的なもの、という言い換えもある。
データベースによって構築されたアイデンティティは、外延的なものだ。
それは、行動のログから成り立つからだ。
酒井邦嘉は、さらに将来的にはその時感じた感情も記録できるようになるかもしれない、と述べているが、そのような感情情報を付加したとしても、そうしたデータベースによって構築されたアイデンティティは外延的だろう。
あるいは、行動主義的といっていいかもしれない。
チューリングテストを想起してみればいい。
膨大な行動ログに基づいて行動すれば、その結果はそのログの持ち主の行動とみなされるだろう。
僕はチューリングテストを支持するし、以前このブログでベルグソンの持続概念を批判したこともある。
外延的(量的)なものによって、内包的(質的)なものを記述しうるのであれば、それを支持する。そしてそれを望んでいる。自分の全行動の可視化、データベース化、そしてそのデータベースからの自己を逆算すること、は自分の欲望と一致する。『サマー/タイム/トラベラー』にはそのような組織が存在していた。100の質問やバトンもそうした欲望を裏付けするものの一種のように思える。
だがしかし、
そのデータベースとデータベースからなるアイデンティティとは、果たして一体何なのだろうか。
そもそも完全なデータベース化は可能なのか。可能だとすれば、データベースと本人を分かつものは一体何なのか。外延が完全に内包を記述しうるのであれば、データベースと本人を分かつものは何もない。
が、そうであるならば、そもそもそのデータベースは一体どのようにして蓄積されうるだろうか。
何らかのトリガーを想定せざるを得なくなる。
いわば、それこそが内包、定義である。
外延や内包は、集合に対しても使われる。集合の要素を外延、集合をあらわす数式を内包という。外延が等しくても、内包の異なる集合というのもありうるわけだ。
含まれる要素を全部集めてきて集合を記述する方法もあるが、数式を一つ書いておけば集合の定義はそれで事足りる。
だが、そういう超越的な何かを設定すると、現代思想によってあっという間に脱臼されていきもするわけで……。
前述した「オタクになれ」メッセージに対して懐疑的な理由も、おそらくここらへんにある気がする。

カーニヴァル化する社会 (講談社現代新書)

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検証・若者の変貌―失われた10年の後に

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サマー/タイム/トラベラー (1) (ハヤカワ文庫JA)

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サマー/タイム/トラベラー (2) (ハヤカワ文庫JA)

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