『デカルトの密室』『アメリカの夜』

デカルトの密室』

『BRAINVALLEY』『八月の博物館』『あしたのロボット』でそれぞれ述べられていた、瀬名のテーマが収束されてきた感のある作品。
すなわち、「心」とは何か。「私」とは何か。「物語」とは何か。
瀬名作品は、作中で展開される議論は深く面白いのだけど、小説の結末のおさまりがよすぎているような感じはする。特に今回の作品のエピローグはあまりにも説明的すぎて、蛇足な感じがする。
しかし、エピローグや結論を除けば、小説としてはぐっと面白くなった気がする。
『BRAINVALLEY』は、作中で展開される脳科学と神に関する議論が非常に面白かった。『八月の博物館』は、瀬名の自伝というか瀬名の個人的思いが見えすぎているというか(瀬名作品の主人公は、ほぼ全員作家が科学者で、いつでも瀬名の分身でしかない。そのことが、作品にリアリティが生むこともあれば裏目ってしまうこともある)。『あしたのロボット』は、連作短編で、ロボットと共存する社会に対する未来予測。
そうした過去の作品に対して、本作は、小説の構造そのものがテーマを反映した形になっている。
主人公である科学者(兼作家)の祐輔の一人称視点と、祐輔の開発したロボット、ケンイチの一人称視点と、三人称視点が複雑に絡みあう構成となっている。
さらに、祐輔とケンイチは、共に自らの体験を小説として書いているのだが、その際祐輔はケンイチの一人称視点から書いているのだ(ケンイチは祐輔の視点から書こうとするが失敗する)。ケンイチの視点から書かれている文章が、果たして誰が(瀬名か祐輔かケンイチか)書いた文章なのか判然とはしないのだ。それにケンイチ視点の文章の語り手は、明らかに自分が小説の作者であることを意識している。「物語」というテーマを、メタフィクション的な構造でもって示そうとしているのだろう(同様の試みは『八月の博物館』でもあったが、より周到だといえる)。
また、祐輔視点とケンイチ視点を交互に出すというこの形式は、第三章で使われるトリックにおいても重要な役割を果たしている。
この作品のストーリーの中でも、執拗に繰り返されるのは「視点」の問題だ。人間が「心」を持っているのは、「メタ認識」あるいは「心の理論」を持っている、つまり人間が自分で自分を眺める「視点」を持っているからである。デカルトの最も有名な「コギトエルゴスム」という言葉は、そのことを表している。「私」というのには二つの意味がある。「見る私」と「見られる私」であり、これは心身二元論へと連なる。だが一方で、「見る私」と「見られる私」とはどちらも「私」であり、心身合一の方向へともつながる。
こうした「視点」の問題は、作中人物がいくらでも議論してくれるのだが、それを作中の議論だけでなく作品の形式としても書きえたのは、瀬名作品では初めてのことだと思う。
人間とは異なる知能を果たして人間は知能として定義することができるのか。
そして、そのためには自分や自分以外の知能を第三者的に見る視点が必要であり
また、そのような視点は、神の視点であり作者の視点でもある。
一方で、そうした視点は物語を生み、知能を拘束するが、拘束されてしまった知能は本当に知能であるのか。
知能とは、自律して自由意志を持っているのではないか。
自由意志と物語とはどのような関係にあるのか。
思えばこうしたテーマは、『BRAINVALLEY』以降ほぼ一貫した瀬名のテーマだったと思う。だが、こうした深遠で興味深いテーマに対し、瀬名が作中で導き出す結論はあまり面白くはない。
瀬名作品の面白さは、作中で展開される議論の中にあり、結論にはないと思う。何故ならこうした問いは、そうやすやすと答えのでるものではないから。そして、この作品は、作中で起きた事件に対する解答を明示しない。
面白かったのは、上述した「視点の分裂」という話。これは、ふと大学の授業で聞いた「視点」の話も思い起こさせた。バロックの時代とは、神の視点と人間の視点に分裂した時代だった、という話。それから人間の意識における(あるいは作中に出てくる無数のプログラムの)「分岐と同期」に関する話。この「同期」というのは、おそらく人間の意識というものを解明する上で、最も難解かつ重要な概念だろう。
そして、ケンイチの自由の条件だ。ケンイチは自分が自由であるのは、自分が小説を書くからだ、と答えた。あるいは、ケンイチが自由になるためには選択しなければならないと諭す男がいた。最後に、ケンイチは自由とはルールを信じ続けることだ、と考えた。
「書く」「選択」「信じる」(そして、「書く」や「選択」の陰には「殺す」がついてまわる)という行為と自由との間には強い関係がある。

アメリカの夜

多分、これで阿部和重の小説は、本となっているものは、全て読んだことになると思う(デビュー作が一番最後になってしまったが)。
ちなみに、『シンセミア』(6)→『インディヴィジュアル・プロジェクション』(3)→『ニッポニア・ニッポン』(5)→『グランド・フィナーレ』(7)→『無情の世界』(4)『ABC戦争』(2)→『アメリカの夜』(1)の順で読んだ。( )内は、刊行順。
阿部作品は『シンセミア』から読み始めたので特にそういう印象が強いのかもしれないが、その特徴を「妄想」だと思っている。
僕は、主人公の動機というものに興味があって、そこから「愛」の舞城、「怒り」の佐藤友哉、そして「妄想」の阿部というふうに、おおまかな分類をしている。というか別に三人とも、「愛」だろうと「怒り」だろうと「妄想」だろうとその内実はどうでもいいのだろうが、とにかく物語やら主人公やらを動かすための装置として、そういったものを配置している。
だが、ことに阿部の「妄想」というのは、「愛」や「怒り」とは相当に異なる概念だ。
この「妄想」というのは、非常にオートマティックで、何らかの隠喩や思い込みから一気にその理論を展開させていき、現実へと影響を及ぼしていく。そして、この妄想は、そのきっかけがもし思い込みなどではなくもう少し全うなものであれば、阿部の書く物語は全うな(そして退屈な)「物語」となるだろう。しかし、その形式を使って中身を替えると「妄想」と化してしまう。そしてそれが現実化する際には、必ず暴力を伴う。しかし、その暴力というのは不条理というか滑稽というか、なんとも変なものにしか読者には思えない。
とにかく、阿部の作品を読んで感じるのは、論理展開の暴走=妄想だ。おそらく論理形式は正しく、ゆえにオートマティックに進行するが、どこか歪であり、非論理的(不条理・滑稽)な帰結をもたらしてしまう。
そうした妄想は、書くことへの欲望と表裏一体となっている。「書く」とは物語(そして妄想)を作ることであり、そうした行為が自分を「特別化」させていく。しかしそれがまた一つの妄想でもある。書くことによって妄想が生み出される、つまり妄想は書かれた事の内容であったはずだが、それが次第に書くことがそのものが妄想となる。書くという形式が妄想となる。しかし、その形式化、特別化の果てには、日常への転向が待っている。
ちなみに、この作品は一人称の語り手によって、主人公中山が描かれているが、中山というのは語り手自身を投影した仮構の存在であり、一方で語り手は中山がその「妄想」を支える「書く」という行為を必要として作り上げた存在である。語り手と中山というのは、同一人物の中で互いに作られた仮構の人格であるが、最後には分裂する。そういえば『インディヴィジュアル・プロジェクション』も、同一人物の中に様々な人格が分裂していく話である。また、主人公の日記形式で、主人公=語り手の一人称として進行するが、最後にその日記そのものがフィクションであることが明かされる。

で、結局

「書く」「作者」「神の視点」「特別化」という非日常とそれを支える日常がある、ということなのだろうか。「信じ続ける」とは、まさに(フレーム問題に苛まれない)日常生活のことである。一方で、日常の中では絶えず書くことへの欲望(『アメリカの夜』のラストシーン)が再生産される。
全く関係のない二つの作品を、無理にまとめようとしても、うまくいかないので、一応この上述した3行でまとめということにしておく(この3行からは2作品の色々なことが抜け落ちている気がするけれども)。
とはいえ、どちらの作品も「書く」ことや「物語」について扱った作品であるから、その点からまとめてしまうことも、できないことはないはずだ。
あとは、僕自身の、色々な作品を見ても、全部自分の視点から同じように切り取ってしまうという癖のせいでもある。

デカルトの密室

デカルトの密室

アメリカの夜 (講談社文庫)

アメリカの夜 (講談社文庫)