『物語の(無)根拠』第1章

『物語の(無)根拠』第一章html版を公開する。

『物語の(無)根拠』html版公開に関して

基本的に僕の活動範囲はweb上であって、僕の文章を読んでくれる人がいたり、あーだこーだと意見を交わすことのできる場というのもweb上にある。
というわけで、自分の書いた文章で人に読ませたいなあと思っているものは、web上に置いておいた方が何かと便利だ。
この『物語の(無)根拠』というのも、最初はweb上での公開を想定していた。
それが印刷物となって文学フリマに出ることになってしまったのは、まあ謎といえば謎である。


もし、この文章に対して感想なりなんなりを書いてくれる人がいて、引用をしたりなんだりする際には、URLがあって、htmlファイルがあることは便利なのではないか、と思う。
文学フリマでは売り切れてしまって、見てほしかった人に渡せなかったという事情もある。
そもそも、文学フリマに来られなかった人もいる。
というようなこともあって、html版を公開することにした。
一気に全部アップしても、こちらの手間は変わらないのだが、分量が結構あるので一気にどかんとアップしても読みにくそうだなあ、と思ったので、これから章ごとにアップしていくことになる。
なので、全部で6回ということになる。


俺、文学フリマで金払ったのに、無料で読めるようになるのかよ! と思った方
その点に関しては、確かに申し訳ないのだが、紙+インク代だと思っていただきたい。
それから、リーダビリティに関していえば、htmlよりも冊子の方がはるかに優れていると思う*1
そういうことでご容赦いただきたい。

第一章 妄想の自律

第一章妄想の自律を読む

妄想の時代
芥川賞作品の描く現代とは何か
グランド・フィナーレ』沢見、妄想の徴候
妄想の自律
グランド・フィナーレ』における妄想の離陸/妄想の自律
脱社会的存在
メタ物語的状況
妄想の自律とメタ物語的状況


阿部和重グランド・フィナーレ』ひいては阿部作品に共通する、妄想的思考、そしてそれの自律性について論じている。
阿部作品に見られる、この妄想の自律性とは、宮台真司いうところの脱社会的存在の問題や、東浩紀いうところのポストモダン化による小さな物語の林立ということを、反映している、というのが主な主張である。


この章を書いた動機は以下の二つである。
1、『グランド・フィナーレ』の一般的な読解を批判する。
この作品は、広告戦略においても芥川賞受賞時においても、ペドフィリアが主人公となっている点にアクチュアリティを見出されていた。そしてまたそれゆえに、ペドフィリアの実態と不整合な点を批判されていた。
しかし、阿部和重にアクチュアリティがあるとすれば、それはペドフィリアやひきこもりなどを登場させているからではなく*2、妄想の自律性を描いている点にこそある、と考えられる。
2、東浩紀による『グランド・フィナーレ』読解を批判する。
東は『ゲーム的リアリズムの誕生』の中で、『グランド・フィナーレ』を自然主義的な読解をさせる作品*3であるとして、自分の分析対象から外す。
そのような東の態度が戦略的であることは認めつつも、『グランド・フィナーレ』をはじめとする阿部和重の作品は、東的な読解を行うことによってこそ理解しうるものだと考える。


この章の最後で、「妄想の自律」という言葉は「物語の自律」に言い換えられる。
また、東がアドベンチャーゲームなどのシステムをメタ物語的システムと呼んだことに倣って、ポストモダン化における小さな物語の林立を「メタ物語的状況」と呼ぶことにする。
2章以降は、「物語の自律」と「メタ物語的状況」を前提として議論が進められる。

*1:PC上で長文読むのが全然苦じゃない、という人もいるだろうが

*2:ただし、そうしたものを使うことで、広告的な戦略をしかけているともいえるし、ある層へのフックとして使われているともいえるだろうが

*3:ペドフィリアについて書いてあるということを主軸にした作品