ised倫理研第5回

今回の倫理研は、isedとしては珍しく結論めいたものが出てきました
この一応の「結論」に対しては、今後賛否両論が巻き起こるだろうし、巻き起こってもらわないと困る。今後深く吟味されることと思われるので、ここではあまり触れない
今回の議論で意義深いことは「結論」が出たことではなく、漸くそこに至るために必要なタームが生まれてきたことだろう
つまり、「行為/表現/存在」「認知限界」「限定合理性」などといった概念だ
無論どれも、isedで生まれた言葉ではなく、それ以前から使われてきた言葉であるが、これらの言葉が「情報社会の倫理」を語る上で使われ始めた、という点で意義があるだろう。
また、この討議はあくまでも「情報社会の倫理」を問う場であるので、抽象的な議論がなされていても社会的・実践的な意義が含まれている
しかし一方で、これは当然哲学的な「人間とは何か」という問いかけにも直結する
というよりも、既に「机上」においては当然のように思われていた人間像が、情報技術の発達によって実際に現れてきたことによって「机上」では想定されていなかった問題点等が顕在化してきたとも言えるだろうか。
この話には2つの軸がある。
世界というものは、あまりにも複雑に出来ている。人間には「認知限界」があり、そのような複雑な世界には対処できないので、複雑を縮減する何らかの装置が必要となる
国家やら意味やらといったもの(もしくはバロットや山本が求めた「価値」も)はそうした装置の一種である
ポストモダニスムの議論とは、そうした装置の機能不全についての議論でもある。
情報社会は、近代国家社会がせっかく縮減した複雑性を増してしまったのである。
つまり、爆発的な選択肢(情報)の増加というのは、自由ではなく不自由を生んでしまったということだ。
その中で如何に、選択肢の数を減少させるか、あるいは選択肢を選択するための根拠を見つけ出すか(僕はイーガン作品を材料にそういうことを論じたことがある)。
もう一つの軸がある。
それは、(少なくとも法律上)人間を行為/表現/存在に分けて把握することだ。
例えば、法は行為に対しては能動的に、存在に対しては受動的に、表現に対しては謙抑的に機能する。
しかし、情報化は、それらの区別を曖昧にする。
行為や存在もまた等しく情報化され=表現の領域に侵入してくるのである。
情報化によって世界が複雑化するという軸
情報化によって人間の主体を分けていた分類が曖昧化するという軸
情報化によってこの2つの軸が絡み合うところに「情報社会の倫理」として議論される問題がある
つまり、isedは第5回に至り問題点の所在を発見するに至ったのである。
ところで、僕個人の興味関心はあまり「情報社会の倫理」にはない。
僕が興味を持っているのは、つまるところ人間とはどういうものなのか、そして複雑な世界では何を指標にして生きればいいのか、という問いだ。
人間は存在も情報化されてしまっている。だからもう、自分の中には指標など発見できない。だから、外部に指標を探す。しかし、外部はさらに複雑だ。どうすればいいのか。
理研が導き出した「結論」は、あまりにも悲観的といえば悲観的だ。
結局、コンピュータに計算してもらうしかないのではないか、と。
ところで、最後に思いつき
少なくとも法律の上では、行為/表現/存在は分割されていて、情報化によってはじめてその境界が曖昧化したような感じで書かれていたが
少なくとも、行為と表現は、ウィトゲンシュタインやオースティンによって曖昧化というか同じ概念にされてしまったのではなかったっけ?
まあここで問題にされているのはどちらかといえば、表現と存在の関係だけれども